「私も雇ってください」難病の母のため引退覚悟。介護職を志した新喜劇の「マドンナ」母の死を乗り越え再び舞台に立つまで

「『私も雇ってください』、母が入所する特別養護老人ホームで私はそう訴えました」。難病の母を支えるため、長年守り続けてきた吉本新喜劇の看板を捨ててまで、みずからも介護の道を歩もうとした五十嵐サキさん。人生すべてを母に捧げようとした彼女を思いとどまらせたのは、他でもない最愛の母でした。大きな喪失を乗り越え、再び舞台で光を浴びるまでの道のりを伺います。

難病の症状をひた隠しにしていた母

五十嵐サキ

大好きな母とのツーショット

── 吉本新喜劇で活躍しているなか、2022年にお母さんを亡くされたそうですね。お母さんは難病を患っていたそうですが、どのようにして発覚したのでしょうか?

五十嵐さん:母が73歳になったころだったと思います。私が仕事から自宅に帰ると、母が明らかに変な体勢で床に倒れていて。起き上がることもできず、意識もはっきりしていない状態でした。

これはまずいと思って、救急車をすぐに呼んで病院に行ったのですが、珍しい病気だったため、原因がなかなかわからず…。入院を続けながらいろいろな検査をした結果、半年ほどしたときに「多発性筋炎」であることがようやくわかりました。多発性筋炎とは、筋肉の炎症により力が入りにくくなったり、筋肉に痛みが出たりする難病のひとつです。

── 半年もわからなかったのは、かなり不安だったのでしょうね。症状は急に出たのでしょうか?

五十嵐さん:母はとても辛抱強い人で、倒れる2年ほど前から力が入らないなど、しんどいことがよくあったそうです。私には兄がいたのですが、20代のころに何万人に1人しかかからないような珍しい神経のがんであっという間に亡くなってしまいました。そのこともあり母は、父や私になるべく心配をかけたくなかったようです。医師もこの状態になるまでよく我慢していたと驚いていました。

医師によると、筋力の低下を防ぐためには無理のない範囲で運動していくことが大切で、そうすれば元の生活に戻れると。病院内で歩くなどリハビリをがんばった結果、しばらくして自宅に戻れることになりました。一度は回復したんです。ただ、やっぱり痛みがひどかったようで、そこからはなかなか運動する気力がわかず、症状は徐々に進行していまい…。デイサービスを利用しながら、父と私で母の介護をすることになりました。

介護は睡眠時間が確保できないなど大変なこともありますが、それでも母が家にいてくれることが私も父もとてもうれしかったです。

── 具体的にはどのようなことをサポートされていたのですか?

五十嵐さん:寝るときに母は呼吸器をつける必要があったのですが、それがズレたときに直したり、水を飲ませたり、おむつ替えをしたりなどです。夜は父と母と私の3人で同じ部屋に寝ていて、呼吸器がズレたアラームが鳴ると、起きて直していましたね。

新喜劇を辞め、母のそばに…反対したのは母だった

五十嵐サキ

特別養護老人ホームの母を見舞って

── いっしょに介護をしていたお父さんが2021年に新型コロナウイルスで亡くなったそうですね。それからはお母さんをおひとりで介護されたのでしょうか?

五十嵐さん:私は在宅介護をして母といっしょに生活がしたかったので、家に帰るように母を一生懸命説得したのですが、母はすごく怖がりで、「父がいなくなった今、少しでも家でひとりになる時間があるのは不安だから」と施設に入ることを希望しました。それでいろいろ探して、ある特別養護老人ホームに入ることに。ただ、私は私で母といっしょにいたかったので、そのホームに「介護の仕事をするので、私も雇ってください」とお願いしたんです。

── それはすごい提案ですね。

五十嵐さん:ただ、仕事で介護の経験があるわけではなかったのでいきなり雇ってもらうことは難しく、資格を取ってきてほしいと。それで、他の長期療養型の病院で経験を積みながら資格取得を目指すことにしました。吉本新喜劇の仕事は週末など、たまに続けながら介護施設で働き、その合間に週1回学校に通って、介護資格初任者研修を取りました。

それで母のいる特別養護老人ホームに再び「雇ってほしい」と伝えたのですが、「吉本新喜劇の仕事に合わせてシフトを急に変更することはできないので、働くならここだけにしてほしい」と言われて。それで私は「わかりました」と。母の近くにいられるならばそうしようと思ったんです。でも、それに反対したのはまさかの母だったんです。

── お母さんが反対を?

五十嵐さん:父も兄もそうだったのですが、母にとっても私が吉本新喜劇で活躍している姿を見るのは生きがいで、生きる活力になっていたようです。だから絶対に辞めてほしくないと言われました。母の気持ちを尊重し、介護の仕事は諦めて、吉本新喜劇で働き続けることを決心しました。

実は兄が亡くなった後に私も気力を失くしてしまい、そのときもお笑いを辞めようと思ったんです。でも、それを両親に伝えたら猛反対されて。兄は病室で私が出ている舞台を見るのが大好きだったので、辞めても兄は喜ばない。好きな世界を辞めてなにが残るんだと説得されたことがありました。

── 吉本新喜劇を続けてほしいと五十嵐さんに伝えて間もなく、お母さんが亡くなられたそうですね。

五十嵐さん:はい。吉本新喜劇で引き続きがんばると母と約束してからも毎日電話はしていたのですが、その後、母の具合が悪くなり、私が以前に働いていた長期療養型の病院に移ることになりました。そこで私も母の介護を手伝わせてもらえることになったんです。結局、移ってから4日で母は亡くなってしまったのですが、そのうちの2日間を介護できたことはすごくよかったと思っています。

実は吉本新喜劇で働く前はメイクの仕事を少ししていたのですが、それもあって母の死化粧を最後にさせてもらえました。母の介護を終えての思いは、やはり、ずっと側で介護したかった。今でもそう思っています。

劇歴30年を迎えられたのは周囲の支えあって

五十嵐サキ

新喜劇の舞台で

── 大好きなご家族を立て続けに亡くし、精神的に相当落ち込まれたと思います。

五十嵐さん:そうですね。父の死後は、闘病していた母が私の活躍を生きる力にしてくれていたので、がんばれている部分がありました。母の死後、ひとりぼっちになってしまって、あまりのショックにご飯が喉を通らず、仕事できないほど落ち込みました。私も、もう死んでしまおうかと考えたこともあります。

でも、それを察知した後輩たちがお金を出しあって、「これならば食べられるでしょう」とスープを送ってきてくれたり、会いにきてくれたりして、あのときは本当に吉本のメンバーに助けられました。仕事を辞めるか悩んでいる私を見て、無理やり舞台を手伝うよう連れ出してくれて、私たちが支えるから絶対辞めないでほしいと言ってくれたことも心の支えになりました。

── すごく素敵な後輩たちですね。

五十嵐さん:彼らがいなければ本当に生きていくことが難しかったと思います。ちょうどそのころに「吉本新喜劇総選挙」という人気投票イベントが行われることになったことも救いでした。お祭りのようなイベントなので、気持ち的にさすがにこれには出られないと思ったのですが、社員の方が「何かあったら自分たちがすべてカバーするから」と言ってくれて。後輩も「どんなに辛くても舞台に出てください!僕たちが支えるので!」と言ってくれたので、なんとか選挙活動をがんばって出ました。

結果、何百人もいる劇団員の中で12位に選ばれたんです。SNSにもたくさんの応援メッセージが届き、今まで目にすることのなかったファンの声にすごく心を打たれましたね。こんなに応援してくれる人がいるなら、もっとがんばって楽しんでもらおうという気持ちになれました。気づいたら芸歴30周年になっていて、今年はイベントもやらせてもらえることになりました。こんなにも長い間、お笑いの仕事を続けられてきたのは、応援し続けてくれた亡き家族や周りの人々のおかげだと思っています。

取材・文:酒井明子 写真:五十嵐サキ