石原裕次郎と石原慎太郎、死の間際に見せた「最期の姿」の決定的な違い

石原裕次郎(左)と石原慎太郎 Photo:SANKEI

82歳で脳梗塞(こうそく)を患い、後遺症を抱えながら晩年を過ごした石原慎太郎。息子である石原良純は、兄弟や家族、スタッフと役割を分担しながら、父の介護を担う“事務長”役を引き受けていく。怒鳴り声に振り回され、衝突を繰り返しながらも続いた日常。そして余命を告げられた日の、忘れがたい会話。介護を通して見えてきたのは、石原家という家族のかたちと、最期まで変わらなかった父の生き様だった。※本稿は、政治ジャーナリストの石原伸晃、タレントで気象予報士の石原良純、政治家の石原宏高、美術家の石原延啓による著書『石原家の兄弟』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。

母が一番楽しんでいた

家族ゴルフの儀式

 日産プレジデントは大きな車だった。サスペンションが柔らかくフワフワとした乗り心地は、高級車ならではの優雅さを感じさせた。助手席に親父。後部シートには伸晃兄と母と僕。真ん中のちょっと乗り心地の悪い席が僕の定位置だった。気ままな親父に突然、誘われてプレジデントに乗って出かけるゴルフは、大学生の僕にとって大きな楽しみだった。

 ゴルフ場は大人の社交場だ。メンバーズロッカールームには、ゴルフ場の名前(スリーハンドレッドクラブ)どおり300人のメンバーの顔写真が並ぶ。スパイクシューズに履き替えてオーク材の床をコツコツと音を立てて進むと、ラウンジの正面には大きな暖炉の中で薪が炎を上げていた。

 昔はシングルプレーヤーだったという親父は、「昔はあのバンカーに入ったのに」「昔はあの池を越えたのに」と飛距離が落ちた自分を嘆く。あっちこっちへ曲がるけれど、当たればやたらと飛ぶ僕のドライバーショットを心底羨んでいた。母親はといえば僕がミスショットをする度に「もっとクラブをゆっくりと振りなさい」といらぬアドバイスをしてくれる。確かにクラブを力任せに振るのはよくないが、あまりにも遅い母親のスイングを見ると心が萎える。テイクバックとダウンスイングがブーゥン、ブーゥンとゆっくり同じスピードで動く母のスイングはイラつくほどのどかだった。それでも母は、親父と一緒に出かける家族ゴルフを、誰よりも楽しんでいたのだと思う。

脳梗塞によって身体に後遺症が残った石原慎太郎に寄り添う妻・典子さん 写真:『石原家の兄弟』(新潮社)より

 風呂上がりに、夕陽の中にシルエットで浮かぶ富士山を遠くに眺めながら酒を飲む。初めて飲んだジントニックの味と初めて食べたスモークサーモンの味は、今もはっきりと覚えている。帰り際、母から親父の財布を渡されフロントで会計を済ませるのが僕の役目だった。僕が財布と領収書を持ち帰ると、母がそれを受け取り、「お父様、ありがとうございました」と礼を言い父に渡す。それにつられて僕らも「ありがとうございました」と小声でなぞる。ちょっとした儀式でゴルフは終わる。

82歳で2度目の脳梗塞を患い

深刻な後遺症が残る

 親父とお母さんと最後にゴルフに行ったのは、2人が亡くなる10年も前のことだろうか。当時、親父はテニスクラブも退会し、あれだけ好きだったスキューバダイビングもやめてしまった。そんな中、久々にゴルフに行く話が持ち上がった。メンバーは、僕の奥さんを加えての4人。

 いつものゴルフ場で、いつものように最終組スタート。親父は「あ~、飛ばなくなった」と昔と同じく腹を立て、母はブーゥン、ブーゥンと一段と遅くなったスイングで球を打つ。最終組はスロープレーの極み。そのうち心配していた雨が、ポツリポツリと落ち始めた。雨が降り出したら親父はもちろん途中棄権。母も親父に付き合って迎えのカートに乗り込んだ。折角、休みを取ってやって来た僕と妻は、最後までプレーしようと試みたが雨が強まり途中で断念した。

 クラブハウスに戻ると、風呂から上がった親父が暖炉の前で老眼鏡をかけて本を読んでいた。誰よりも行動的で誰よりも遊びに貪欲だった親父も齢を取った。それでも、最後までプレーできなかった事を一番悔しく思っていたのは親父に違いない。3ホールだけのゴルフが、親父とお母さんとの最後のゴルフとなった。

 政治家を辞めても作家としては現役バリバリのエネルギッシュな親父だったから、それまで親父が齢を取ったと感じることはなかった。ただ、酒量は明らかに減っていた。なじみの店のカウンター席につくなり、ビールと燗酒と白ワインを頼むということは、いつしかなくなっていた。

 そんな親父の晩年というのは、82歳で2度目の脳梗塞の発作を起こしてからということになるだろう。その時、家で転倒して大腿(だいたい)骨を骨折し母親は家に不在。母の目を気にせず暴飲暴酒に走った結果が脳梗塞なのだというぐらいに、僕らは親父の病状を最初は楽観視していた。でも実際は、事態はかなり深刻だった。

 奇跡的な回復だと医者に言われても、親父は左半身の麻痺が残り、文字の形を思い出す能力を失った。余生は大好きな絵を思い切り描いて過ごそうと思っていた親父にとって、利き手の左手が動かなくなってしまったことは、何よりの苦痛だったと思う。そして、作家として文字の形が思い浮かばないということは大きな恐怖だったに違いない。それでも親父は、親父らしく振る舞い続けた。

一番心地の良い体制で

父を介護すると決意

 実家で一人暮らしの親父の日課は、家の近所を歩くこと。左半身が麻痺していると、空間認識がおぼつかず足を上げられない。ヨチヨチとした、いわゆるペンギン歩きになってしまう。それでもその昔、逗子の海岸で子供の僕を置いてきぼりにして走っていた時と同じく、目線だけはキッと前を睨み黙々と歩き続けていた。

 そんなある日、親父は転んだ。近所の方が知らせてくれて迎えに行った家政婦さんが体を引き起こそうとしたが、大きな親父を起こすことは容易ではなかったという。散歩だけではなく食事、掃除、入浴などなど日々の暮らしの中で様々な小さなトラブルが起こるようになっていった。

 お手伝いさん、家政婦さん、秘書の方、お医者さん、看護師さん、介護士さんに全てを任せておくわけにはいかなくなった。コロナ禍のこと、時間に余裕のあった僕は、皆を束ねる実家の事務長役を買って出ることにした。

「これはシステムの維持のためです。親父にも色々と不満はあるだろうけれど、どこか他で暮らすよりも、ここで人を入れ換えて暮らすよりも、この家で今のメンバーで過ごすのが一番居心地が良いと思う。このシステムを維持するために、僕は親に向かって言いたくないような事でも、はっきりと物申します」

 事務長に就任するに当たり、僕は親父に面と向かって宣言した。親父はといえば、僕の話を聞いているのかいないのか。なにしろ、居間のソファーの定位置に座った親父は、昔懐かしい外国映画をボリューム45で見つめている。テレビのフルボリュームよりも大きな声でしゃべると、いくらつかこうへい氏の舞台で鍛えた僕の声でも10分も経てばヘタってしまう。親父は僕が少し弱ったのを見透かすと、「うるせえな、分かったよ」と大きな怒鳴り声で話を終わらせた。

 そんな親父の様子を施設にいる母親に報告すると、いつものことだと苦笑する。そして「お父さまも、達観してくれればいいのにね」とポツリと言った。

父の介護で気付いた

兄弟や家族の心強さ

 そう、“達観”なのだ。もう30年以上前の話になる。ハワイで最後の療養生活を送っていた裕次郎叔父を見舞った僕は、家に戻りハワイの様子を親父に報告した。叔父は一日中、青い空、青い海、輝く太陽の南国の景色を薄暗いリビングルームから、身じろぎひとつせずジッと見つめていた。その話を聞いた親父は、「裕次郎は強えなあ。俺はあいつみたいに達観できない」と呟いた。

 多くの人々に夢を託され、その夢と共に生きた裕次郎叔父の最期。決して達観することなく、己の感性の赴くままに生きた親父の最期。比較しようもない2つの最期の姿を、間近で見続けたことは僕にとって大きな財産となった。

 親の介護では、兄弟4人がそれぞれの役回りを担っていたと思う。親父と一番付き合いの長い伸晃兄は親父の話し相手になり、銀行員の習性で数字に細かい宏高が経理を担当し、近くに住む延啓は芸術論を交わす傍ら次々と細かな用事を言いつけられていた。

 思えば兄弟が多くて良かったなと思ったのは、この時が初めてだったかもしれない。兄弟が多いとケーキだってメロンだって小さくなる。兄弟が少なければお年玉の額は多くなり誕生日プレゼントも大きくなる。兄弟は少ない方が得だという思いが僕にはずっとあった。兄弟の存在の心強さを親の介護で初めて知った。

 そして何より、自分の家族の存在が助けになった。皮膚科医である妻は時には嫁として、時には医者として介護の様々な面で協力してくれた。特に感性の赴くまま配慮のかけらもない患者と病院のお医者さんとの間に立ち、家族として医師として両者を上手く取り持ってくれた。親父もそんな妻のことは信頼していたようで、親父からの電話に僕が出ると「お前じゃない、幸子さんを出せ」と邪険に扱われた。

 僕が親父とやり合って怒って帰って来たり、電話口で大声を上げた後は妻と2人して親父の話を酒の肴にして盛り上がった。僕は頼りになる戦友と共に声を上げて笑って、また翌日も続く闘いのために英気を養った。

 怒ったり笑ったり、2人のそんな様子を横で息子や娘も見ていた。介護は20年も経てば、僕の問題に置き換わる。その時の介護する者とされる者、お互いのために手のかかるおじいちゃんの介護風景はきっと参考になるに違いない。

「俺は3カ月で死ぬってよ」

最後まで複雑な親子関係

「俺は3カ月で死ぬってよ」。ある日、怒鳴り声で親父から電話がかかって来た。

 それは僕がちょうど、好き勝手に病院へ行くのは止めて欲しいとお願いした日のことだった。この日もどこか腹の具合が落ち着かない親父は、秘書を呼びつけて勝手に病院へ出かけてしまった。すると医師はいとも簡単に、親父に向かって余命を告げたという。この電話は、病院行きを阻もうとした僕に謝れということなのだろうか。親父の余命が3カ月と聞いたばかりの僕は、とりあえず「どうも、すみませんでした」と電話の向こうの親父に謝った。それはとてもとても不思議な会話だったと思う。

『石原家の兄弟』 (石原伸晃・石原良純・石原宏高・石原延啓、新潮社)

 偶然の膵臓(すいぞう)癌発見。重粒子線治療の効果。そこから1年半、日常生活を送れたことが奇跡だった。あの時点では、親父のエネルギーはまだまだ病魔を遥かに上回っているのだと僕は信じていた。だから親父の言葉を聞いてもピンとこなかった。しかし、病気は着実に進行していたのだ。

 親父が3年。お母さんが10年。まだまだ長く続くと思っていた石原家の介護は、あっさりと幕を閉じた。事務長の僕が目指した石原家の介護システムは、最後まで機能していたと思う。それは兄弟、僕の家族、石原家のスタッフ、介護施設スタッフ、病院スタッフ、皆さんのおかげだ。

 今でも介護の日々が、時に我が家の晩酌の話題に上る。そんな時は、妻と2人で大爆笑。つられて息子も娘も大爆笑。やっぱり、石原家は介護も変わっていた。