左足切断のハチミツ二郎 車椅子散歩番組の凄み

BS特番『ハチミツ二郎が行く!!電動車椅子さんぽ supported by 有吉クイズ』ゲストは伊達みきおだった(写真:BS朝日公式より)
今月8日、待望の特番が放送された。『ハチミツ二郎が行く!!電動車椅子さんぽ supported by 有吉クイズ』(BS朝日)のことだ。
【クリックして画像を見る】電動車椅子による街ブラロケ。エレベーター横の昇降ボタンの機能性や車椅子で手こずるポイント、バリアフリー対応のバスにまつわる情報など、移動中にちょっとした豆知識が差し込まれるのも新鮮だ
同番組は『有吉クイズ』(テレビ朝日系)から誕生している。昨年1月、同番組に出演した東京ダイナマイト・ハチミツ二郎が、「BSで電動車椅子さんぽの番組がやりたい」との思いを有吉弘行に告げると、さっそく地上波でパイロット版を実施。これが反響を呼び、2025年4月度の「ギャラクシー賞」月間賞を受賞した。
その約1年後、今年2月に第2弾となるパイロット版を経て、いよいよレギュラーを目指すべくBS特番が放送された形だ。初回ゲストは、二郎とゆかりの深いサンドウィッチマン・伊達みきお。満面の笑みで迎え入れた二郎が、早々に「誰だっけ?」とボケるあたりに長年の信頼関係を感じさせた。
ハチミツ二郎が車椅子生活になったわけ
18年7月、二郎は肺炎を発症し、急性心不全と呼吸不全で入院。この後、度重なる闘病生活を強いられることになる。
20年12月には新型コロナウイルスに感染して入院。重症化し、危篤状態に。目が覚めたのは8日後のことだった。
また、かねて抱えていた椎間板ヘルニアが悪化し手術を行った折、強い痛み止めの薬が腎臓機能を低下させていたことがわかり、服用を中止している。ここにコロナ罹患が重なったことで、さらに腎臓が悲鳴を上げた。二郎は、人工透析か腎移植の2択を迫られる状態にまでなっていた。
日本の法律では、血縁者か夫婦間でしか腎臓の移植ができない。21年から透析治療を始め、23年3月に母親をドナーとする腎移植手術を試みるも、思うようにいかなかった。
これに加え、左大腿会陰部筋肉内膿瘍および敗血症性ショックの治療を余儀なくされる。腎移植が原因で感染症にかかり、昨年は、左膝下を切断する手術を受けた。

今年2月放送の『有吉クイズ』。有吉弘行とともに五反田をめぐった(写真:テレ朝SPOTより)
長らくコロナの後遺症に悩まされていたが、24年に購入した電動車椅子によって外出するのが楽しくなった。その後、透析治療中にBS番組を眺めながら、二郎は高齢者にこの快適さを伝えたいとの思いを馳せるようになる。
また、幼少期から抱く夢も蘇った。それは、漫画『タイガーマスク』の主人公・伊達直人のように、恵まれない子どもたちにおもちゃを配るヒーローになりたいという夢だ。ヒーローになるためには「最後に1回売れなきゃいけない」。
現在も義足のリハビリを行う最中ではあるが、こうした思いが『電動車椅子さんぽ』を立ち上げるモチベーションにつながった。
電動車椅子による街ブラロケ
念願だった番組の前半は、電動車椅子による街ブラロケ。二郎は南千住エリアをスイスイと走り、不慣れな伊達がそれを追いかける形で番組は進行する。
エレベーター横の昇降ボタンの機能性や車椅子で手こずるポイント、バリアフリー対応のバスにまつわる情報など、移動中にちょっとした豆知識が差し込まれるのも新鮮だ。バスを降り、真っ先に向かったのはコッペパンの名店「青木屋」。二郎は、気前よくスタッフ分まで購入し振る舞う。

エレベーター横の昇降ボタンの機能性や車椅子で手こずるポイント、バリアフリー対応のバスにまつわる情報など、移動中にちょっとした豆知識が差し込まれるのも新鮮だ(写真:BS朝日YouTubeより)
その後、昭和の風情を感じさせるジョイフル三の輪商店街を散策し、二郎が長らく通い続けるもつ煮込みとおでんの老舗店「田川商店」へ。思わず車椅子から立ち上がり、煮込まれた鍋の様子を凝視する二郎。ここでもスタッフにもつ煮込みを御馳走する。
食リポが終わると、最後はよく知る店員と写真撮影。自身の冠番組で馴染みの店を紹介している状況が信じられないのか、「こんな写真撮れる日がくるなんて思わなかった」と感慨深げな表情を浮かべる二郎が印象的だった。
後半は、伊達との思い出話に花を咲かせる。02年、「新宿Fu-」で開催されていたお笑いライブ「ホラカク。」でふたりは出会った。04年に東京ダイナマイトが『M-1グランプリ』決勝に進出したことがきっかけで、伊達は本腰を入れて漫才に向き合い始めたという。
それより以前、2組で行った岡山の営業で伊達が「僕らコントしかやってないですよ。漫才ですよね、営業」と相談を持ち掛け、二郎が「コントでやってたものをマイクの前でやりゃいいだけだよ」とアドバイスしたのを機に、サンドウィッチマンは漫才を披露するようになったようだ。
また、07年にサンドウィッチマンが『M-1』王者となり活躍する一方で、二郎が体調を崩して死線を彷徨ったことなど、ふたりだからこそ語れる濃密なトークが展開された。

BS特番『ハチミツ二郎が行く!!電動車椅子さんぽ supported by 有吉クイズ』(写真:BS朝日公式より)
「(有吉)弘行さんのおかげだよ」と感謝を口にしたかと思えば、将来的には高齢の視聴者から支持を得て「そういう人たちに不動産とか資産があるなら預けてもらいたい」とジョークを飛ばす二郎。その人間臭い振る舞いが、いつまでも脳内から離れなかった。
「単独ライブで借金150万円」豪快で型破りな人たらし
二郎は、15歳で「プロレスラーか芸人になる」と単身上京。姉と同居後にひとり暮らしを始め、アルバイトをしながら定時制の都立代々木高校に通い始める。
95年、吉本興業のお笑い養成所・NSC東京校の1期生として入学。ここで曽根卍と第1期東京ダイナマイトを結成する。しかし、曽根は在学中にクビになり、二郎もまた卒業と同時に肩を叩かれた。ふたりとも、特定の講師に嫌われていたのだ。
その後、一度は解消したコンビを復活させ、フリー芸人として活動を開始する。二郎が23歳の頃、浅草キッドのライブイベント「浅草お兄さん会」を引き継ぐ形でお笑い事務所「トンパチ・プロ」を設立。このあたりに二郎のバイタリティーと人望の厚さが垣間見える。
一時はライブシーンを沸かすも、長くは続かない。相方の曽根が姿を消し、01年に事務所も解散した。同年、トンパチ・プロのライブに参加していた松田大輔と第2期東京ダイナマイトを結成。血気盛んな二郎は、ここでも最初から型破りな行動に出る。
デビュー戦は、198人キャパの劇場「新宿シアターモリエール」での単独ライブ。ここに彼らは、290人もの観客を入れた。
翌02年8月には、ロックの聖地「日比谷野外音楽堂」で単独の第2弾を開催。今度は3000人キャパに500人の動員で150万円の借金を背負った。
一方で、オフィス北野の所属となり、メジャーな世界で頭角を現わす。04年、09年には『M-1』、13年には『THE MANZAI』の決勝に進出し、バラエティーでも活躍して知名度を上げた。
その過程で08年にオフィス北野を離れ、オスカープロモーションと契約するも翌09年3月に退社。フリー期間を経て、同年8月から現在の吉本興業所属となった。

吉本興業HPのプロフィール写真(写真:吉本興業HPより)
離婚後はシングルファザーに
10年前後までのキャリアを駆け足で振り返ればこうなるが、実際の歩みはそんな平坦なものではない。二郎の著書『マイ・ウェイ』(双葉社)には、これまでの壮絶な体験が赤裸々に記されている。
事務所移籍だけでも、社員や先輩芸人の嫌がらせとの格闘、かつての芸能界らしい仁義と自身の思いとの乖離、歯が浮くような条件のスカウトと契約後のギャップなど、読んでいるこちらまでメンタルをすり減らすようなエピソードが並ぶ。
腎移植手術の話をめぐる、当時の妻、娘、姉兄や母親との人間模様も生々しく身につまされるものがある。当事者であればなおのことだろう。
立川談志からは「お前は勲章を欲しがるな」、ビートたけしからは「必ず寄席がひっくり返す時が来る」という金言をもらい、長らく二郎は吉本興業のショー・ストッパー(劇場のトリを務める芸人)としての道を走り続けた。
しかし、体調を崩してからはそれも難しくなる。透析治療を受け、離婚後はシングルファザーとなり、車椅子生活が始まった。ただ、まだ二郎は何かを掴もうとしている。その姿勢は、大好きなプロレスから得た哲学なのかもしれない。
レスラーとしての姿
上京して間もなく、二郎は東京で初めて観たプロレス興行「FMW後楽園ホール大会」に武者震いする。大仁田厚がプロレス団体「FMW」を旗揚げし、見たことがない場外乱闘中心の試合を展開して観客を熱狂させていたのだ。
その後、芸人の活動と並行して01年の『西口プロレス』(お笑い芸人によるプロレス団体)創成期から参戦し、09年にメキシコでプロレスライセンスを取得して話題となるなど、二郎はレスラーとしても存在感を示す。
17年には、当時引退宣言(翌18年に復帰)をしていた大仁田と電流爆破デスマッチで対戦。芸人として生死をかけたリングに立ち、大仁田から有刺鉄線電流爆破バットを浴びてマットに沈んだ。試合後、大仁田は「芸人がプロレスが好きで何が悪い!」と二郎を批判するプロレスファンに呼び掛け、その行動力と心意気を称えている。
人生は一筋縄ではいかないものだ。理不尽な目に遭い、信頼していた相手に裏切られ、絶対にトチれない場所で赤っ恥もかく。ただ、わずかな可能性を信じて戦う姿は見る者を夢中にさせる。
芸人とレスラー。ふたつの夢を独自のやり方で掴んだ二郎は、そんな生き方を体現しているように思えてならない。前述の『マイ・ウェイ』の中に、こんな言葉がある。
「オレは子供の頃から、プロレスを観ている。だからどんなに苦しくてもカウント2で返せば、なんとかなるということを知っている。カウント2.9でもカウント2.99でも跳ね返せば、試合は続く」