【「ばけばけ」イライザのモデル】ラブレターのような書簡を交わした八雲の死後、来日ごとに妻セツを訪問…八雲と“心の恋人”ビスランド、セツの≪特別な関係≫
いよいよ終盤を迎える朝ドラ「ばけばけ」。主人公トキ(髙石あかり)と夫・ヘブン(トミー・バストウ)のモデルとなった小泉セツ、八雲夫妻の歩みにも様々なことがありました。
八雲のアメリカ時代の同僚・イライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)のモデルになったのが、エリザベス・ビスランドです。八雲が来日するきっかけともなった彼女は、八雲そしてセツにとっても生涯にわたって大切な人となりました。
3人の関係を、八雲・セツ夫妻のひ孫で小泉八雲記念館館長を務める小泉凡さんが語った『セツと八雲』(朝日新書)より一部を紹介します。(全5回の5回目)

ヘブン(トミー・バストウ)とイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)のオフショット。「ばけばけ」公式Xより
八雲より11歳年下、世界一周の途中で横浜に
米国人のエリザベス・ビスランド(結婚後の姓はウエットモア、1861~1929)は、八雲の訃報を報道で知り、すぐにセツに心のこもった手紙を書きました。
八雲が日本に来るにあたり、重要な示唆を与えてくれた人物です。才気に満ち、端正な顔立ちの女性です。余談ですが、八雲の交友関係を辿(たど)ると、素敵な女性との出会いに恵まれた感じがあります。
ビスランドは八雲より11歳年下で、ルイジアナの大農場に生まれましたが、南北戦争後は暮らしが困窮しました。八雲の書いた新聞記事を読み、心を奪われます。
「こんな記事を書けるジャーナリストになりたい」
やがてあこがれの八雲が文芸部長を務めていたニューオーリンズのタイムズ・デモクラット社に入社して、ともに働くようになりました。

トキがまだ八雲の女中時代に松江を訪れたイライザ。「ばけばけ」公式Xより
その後ニューヨークに移り住み、活躍の場を探り、シカゴ・トリビューン紙など多くの新聞・雑誌へ寄稿を重ねます。やがてコスモポリタン誌の編集者になり、才能が開花します。1889(明治22)年、コスモポリタン誌の企画でビスランドは世界一周の旅に出ました。76日19時間48分でゴールします。この間、アメリカ大陸を鉄道で横断し、サンフランシスコから横浜に着きました。日本がいたく気に入った彼女は、日本滞在記を写真入り ページにわたった特集としてコスモポリタン誌にまとめます。そして道中の見聞録は『飛ぶがごとく世界旅行』と題して刊行されました。
八雲とビスランドは相思相愛の「心の恋人」
八雲とセツがともに暮らし始めた1891(明治24)年、ビスランドもニューヨークの弁護士チャールズ・ウエットモアと結婚しました。子どもはいませんでした。
ビスランドと八雲は、たくさんの書簡を交わしています。八雲もまた彼女の書き手としての才能に感服していました。
ふたりの間柄には機微があり、相思相愛の「心の恋人」という趣が感じられます。日米に離れていますから、のりを越えるべくもありませんが、往復書簡にはラブレターといえるような文面も記されています。
「あなたの日本に関する本を読み終え、ここ2、3日どんなに楽しませていただいたかお伝えしたいという気になった。私はあなたのいる日本をもう一度見たいと思い焦がれている」(ビスランドから八雲へ、1895年6月15日)
「何度も何度もあなたに宛てて手紙を書いては火の中に投じた。その後私は髪が灰色になり、今は3人の男の子の親。たびたびあなたが気に入るような書物を書きたい」(八雲からビスランドへ、1900年1月)

ヘブンとイライザ。「ばけばけ」公式Xより
八雲は来日後九作目となる民間伝承や随筆などを収めた『日本雑記』(1901年)を、ビスランドに捧げています。
そして、1902(明治35)年7月の手紙では、
「12年前、日本へ行ってほしい、あなたが書いた本が読みたいから、と言ったのを思い出す。もうすぐ日本についての十冊目(『骨董』)が出版される」
という、生涯胸に抱きつづけた心情を八雲は明かしています。

「ばけばけ」のオフショット。「ばけばけ」公式Xより
来日前から『古事記』を読み、日本への思いを募らせていた八雲。1890(明治23)年の日本への出発を前に、世界一周の旅で日本に心ひかれたビスランドの言葉に背中を押されたのでしょう。八雲は来日前からビスランドに恋心を抱いていたふしがあります。ただ、若い頃の離婚の痛手がなお残り、踏み出せなかったのかもしれません。
帝大解雇、さらに健康不安を抱えた八雲にビスランドは…
加えて、この手紙では長男一雄の教育のため、1年か2年アメリカで働けるように取りはからってほしい、とも頼んでいます。
ビスランドも十数年ぶりに、どうしても八雲に会いたかったのでしょう。米国の大学で講義ができるように奔走しました。
東部の名門コーネル大学で20回連続講義の計画が立てられましたが、コレラの発生によってとりやめになりました。諦めきれない彼女は、ハーバード大学などに働きかけますが、結局、不首尾に終わります。この間、八雲は帝大を解雇され、心臓のほか、気管支炎を患い、手放せなかったタバコもやめざるを得ない症状にさいなまれます。

1904年に出版された『怪談』初版本。画像提供:小泉八雲記念館
肩を落とす八雲に、ビスランドからこんな文面が送られました。
「あなたに病気と落胆が降りかかっているとは、毎日つらい思いのし通しです。私は自信を持っていますが、これまでだれ一人として私ほど誠実にあなたに愛情をもっているものはいません。あなたの最初の一行を読んで以来これまでの年月ずっと、あなたから頂いた無限の楽しみと霊感に感謝しています」

小泉八雲。©文藝春秋
彼女の熱意を意気に感じた八雲は、コーネル大学での講義向けに、これまでにない書物を書き上げていました。紀行文でも再話作品でもない、硬質な論考集です。日本人の精神史をテーマにしたそれは、図らずも日本とアメリカの転換期に大きな影響を及ぼすことになります。
八雲の死後、3度来日。そのたびにセツのもとへ
前にも述べた、八雲の初めての伝記・書簡集『ラフカディオ・ハーンの人生と書簡』は、ビスランドの編集によって刊行されました。これにセツによる『思ひ出の記』も収められ、小泉家に収益が寄付されました。
ビスランドは八雲の没後3回、来日し、そのたびにセツのもとを訪ねています。セツとも心温まる文面の手紙を交わし、一雄とも良好な間柄を保ちました。日本食を好み、茶の湯や生け花にも親しみました。ワシントンDCの自宅には「音無庵」と名付けた部屋を設け、お茶会などを開き、親日家ぶりを発揮しています。

セツの英単語帳。画像提供:小泉八雲記念館
自身の夫が他界した後、1922(大正11)年、最後に日本を訪れた時には、八雲が暮らした松江の八雲旧居に足を運んでいます。60歳を超えていました。

八雲とセツ。画像提供:小泉家
「30年ぶりに、あのかけがえのない友人、ラフカディオ・ハーンの美しい心にまた巡り合う。それは、彼がこよなく愛した屋敷に、香炉から漂う香りのように息づいている」
旧居の芳名録には、そう書き残されています。
小泉 凡(こいずみ・ぼん)
1961(昭和36)年、東京都生まれ。成城大学大学院で民俗学を専攻し、87年から曽祖父・小泉八雲ゆかりの松江市で暮らす。小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長、島根県立大学短期大学部名誉教授を務める。著書に『怪談四代記 八雲のいたずら』(講談社)、『小泉八雲と妖怪』(玉川大学出版部)など。
聞き手 木元健二(きもと・けんじ)
1970(昭和45)年生まれ、大阪府出身。同志社大学法学部卒。94年、朝日新聞社入社。大阪本社学芸部、東京本社文化くらし報道部、週刊朝日編集部(いずれも当時)などに勤務。松江総局に 2021年から3年在籍した。

セツと八雲 (朝日新書)
定価 957円(税込)
朝日新聞出版