生活保護で「自動車」を認めるべきか?――「車を捨てれば仕事がない」1967人の調査で見えた、制度と現実の断絶 ネットの声とともに読み解く

生活保護世帯における自動車の必要性

 車はぜいたく品か、生きるための道具か――2026年の今、その問いは道徳論では片付かない。

【画像】ヤンキーが「高級車」に乗れる理由

 2026年3月19日、全国のひとり親支援団体のネットワーク組織である特定非営利活動法人ひとり親家庭サポート団体全国協議会(東京都港区)が調査結果を公表した。1967人へのアンケートと27人へのインタビューから浮かび上がったのは、制度と現実の深い溝だった。地方では車がなければ働けない。だが、生活保護の制度は車の保有を認めない。この食い違いが、人々を働く場から遠ざけている。

 厚生労働省の「生活保護の被保護者調査」では、2025年12月時点で

「164万6424世帯」

が生活保護を受けている(年間申請件数は25万6438件)。移動手段を持てないことは、働く機会の制約につながる。社会に出る前提が欠けたまま取り残される人が出る。国にとっても、働ける人材を活かせないまま扶助費だけが積み上がる。移動という条件が、どれほど社会参加を左右しているのか。その構造を考える。

数字が映す現実

生活保護イメージ(画像:写真AC)

 一般世帯の乗用車保有率は77.6%である(日本自動車工業会「乗用車市場動向調査」2023年度)。一方、自治体が生活保護世帯に車の保有を認めているのは

「0.6%」

にすぎない。この差は、制度と暮らしの間にある深い溝を物語る。日本弁護士連合会が2023年に全国自治体を対象に行った調査で明らかになったこの数字は、車の保有が極めて制限的に運用されている実態を示している。

 低い保有率は、市場にも影を落とす。中古車市場の下層、本来なら動くはずの低価格帯の車が、需要の細りとともに停滞している。買い替えの循環を支える層が、制度によって押さえ込まれている。

 ひとり親家庭サポート団体全国協議会の調査は、2025年9月5日から2026年2月末日まで実施された。

「車を手放したら仕事に行けなくなる」

「子どもの送迎や通院ができない」

「生活保護より車を選ばざるを得なかった」

寄せられた声は、制度のはざまで生活する人々の実態を映し出している。

 地方では公共交通が減り、車なしでは日常が成り立たない。ネット上には

「最寄りのバス停やスーパーまで徒歩で1時間以上かかることも珍しくない」

という投稿が見られる。維持費が将来の収入を上回るかもしれないが、それでも手放せない人がいる。

 前述の厚生労働省のデータでは、高齢者世帯が54.7%を占め、母子世帯は3.6%だった。新規の申請は前年比0.18%増。困窮は広がっているが、その背景は切実だ。受給者525人を対象とした実態調査(アーラリンク調べ・2025年12月)では、受給理由の79%が病気やケガ、障害、失業といった自分の力ではどうにもならない事由であった。

「働き続ける体力が限界だった」

「うつ病で離職した」

という声は、怠けているという偏見とは別の現実を示している。減便が進む地域では、移動手段の有無が生活そのものを決める。

絡み合う利害

生活保護イメージ(画像:写真AC)

 この問題を「弱者救済」だけで語るのは難しい。関わる人たちの立場によって、利害も負うリスクも違う。

 行政は、資産の保有を制限することで公平性を保とうとする。不正受給を防ぐ狙いもあるだろう。だが、移動手段がないために社会復帰が遅れれば、扶助費の支給は長引く。

 2025年6月26日、名古屋高裁は、障がいのある受給者に車の保有を認めなかった三重県鈴鹿市の処分を不当とした。この判決を受け、日本弁護士連合会は同年9月18日、自動車の保有要件について緩和を求める会長声明を発表している。現行制度は極めて制限的であり、社会事情にそぐわないとの指摘だ。

 司法の判断を踏まえ、行政は子育て世帯への対応も含め、費用と運用の折り合いを探る必要に迫られている。短期の支出を抑えるために車を手放させれば、将来の就労機会を狭める。税を納める側を増やす道を自ら閉ざしているようにも見える。

 受給者にとって、車が認められれば働ける範囲は広がる。育児の負担も減る。ただし、中古の軽自動車でも維持には年間20万から30万円かかる。保護費の範囲外だから、食費などを削って賄うしかない。前述のアーラリンクの調査では、受給者の36.5%が保護費を不十分と感じており、食事を1日1食にする、暖房を極端に我慢する、薬を間引いて飲むといった、身体を削る選択を強いられている実態が明らかになった。

 しかも維持費の一部は、自動車税やガソリン税、自賠責保険料として国に戻る。給付された資金が、車を通じて再び公的領域へ流れる。この循環を無駄と見る人もいる。ネット上には

「自動車がないと再就職の幅が限られ、仕事を見つけにくい」

という声がある一方で、「追加の支援はなく、生活費から維持費を削ることになる」という指摘も見られる。実際に車を保有しながら生活保護を受けていた人からは「お金を貯めて車を購入しました。働くことが楽になって生活保護を脱却できたのは、車があったおかげです」という報告もある。

 メーカーや投資家から見れば、約200万人の受給者は無視できない市場だ。安価なリースで移動手段を確保できれば、地域の消費や就労が広がる。事業機会も生まれる。だが同時に、支払い能力への心配は根強い。ネット上には

「事故時に賠償ができないのではないか」

という不安の声が出ている。任意保険への加入状況も含め、事故が起きたときの負担をどう扱うか。過去に賠償能力の不足が問題になった裁判が記憶されているだけに、要件の緩和に慎重な見方が消えない。

責任能力という壁

生活保護イメージ(画像:写真AC)

 ネット上の議論は、当事者への理解を重んじる人と、社会全体の安全や公平性を優先する人とで割れている。

「僻地や地方なら軽自動車までなら認めるべきだ。都市部なら車なしでもなんとかなるが、田舎は事情が違う」

という条件付きの容認論がある。その一方で、「一生懸命働いていても車を保有できない人もたくさんいる。他人の稼いだ金で生活の質を求めるなんてあつかましすぎる」という不公平感を訴える声も強い。

 不公平感の背景には、不正受給への根強い不信がある。実際の不正受給は、

・件数ベース:2%程度

・金額ベース:0.4%程度

にとどまる(日本弁護士連合会「今ニッポンの生活保護制度はどうなっているの」)。件数としては一定数存在しても、金額では全体に占める割合は小さい。ただし、この数字のずれが「不正が広がっている」という印象を生みやすく、制度運用を厳格化へと傾ける要因になっている。

 不正とされる事例のなかには、高校生の子どものアルバイト料を申告する必要がないと思っていたなど、悪意のないケースも含まれている(同)。不正受給報道が偏見を強め、受給者の3人にひとりが「自分が疑われてつらい」と感じている現実もある(アーラリンク調べ)。誠実に暮らしていても全体の印象が悪くなるという虚しさは、社会復帰への気力を削いでいる側面も無視できない。

 さらに、駐車場で受給者に傷をつけられた人からは「主人の通院に必要で許可されたが生活保護なので分かりませんといわれてしまい、電話にも出なくなった」という報告もあり、責任の所在をめぐる不満が議論をいっそう複雑にしている。

 行政が保有を黙認する不透明な運用は、事故時のリスクを周囲に押し付けていると受け取られる。ネット上には「“無敵の人”だから自動車を持っても当然無保険。事故を起こされたら被害者は泣き寝入りするしかない」という最悪の事態を想定する声や、「任意保険に入ることもない人間が車に乗る資格はない。絶対に認めてはならない」という厳しい意見が目立つ。実際、約40年前に知人が追突事故の被害に遭った人からは

「相手は生活保護受給者で任意保険に入っていなかった。簡易裁判所で訴えたが、賠償能力なしで補償なしとなり、泣く泣く実費で修理した」

という体験談も語られている。こうした心配に対しては、

・走行データを活用する技術の導入

・安全運転を条件に保険料の一部を公的に支える仕組み

が考えられる。そうした枠組みが整えば、損保業界にとっても新たな需要を取り込む余地が生まれる。資産ではなく運転の質で信頼を見極める発想は、市場の広がりにつながるかもしれない。

 一方で、受給者が車の保有を隠しながら使用し、万一の際に罰金刑を受けても保護費から支出できず「刑務所で労役懲役になり地獄行きになる。生きた心地がしない」という過酷な現実も語られている。責任能力が公的に裏付けられないまま、事故を起こし得る車を動かすことへの拒否感は根強い。この問題は、

「制度と現場の間にある不信感」

をどう埋めるかという点に集約されている。

三すくみの構造

生活保護イメージ(画像:写真AC)

 対立する論点は三つに整理できる。

 まず、仕事による自立と資産保有のルールが噛み合わない点だ。車がなければ働きにくい地域は少なくないが、車を持つことは制度上制限される。この行き違いが、身動きを取りにくくしている。ネット上には

「自立を促すために必要な移動手段まで奪うのは行き過ぎだ。再就職後に買い直すのも簡単ではない」

という批判や、「徒歩や自転車だけで安定した仕事にたどり着くのは現実的ではない」という声が上がる。実際に車を保有していた人からは「車があるおかげで、片道40kmの通勤で夜勤もある仕事ができ、結果的に生活保護を脱却できました」という報告もある。車を資産としてだけ扱うのではなく、働くための手段としてどう位置づけるか。

 次に、移動の必要性と事故時の支払い能力が釣り合わない点だ。生活のために車は欠かせないが、万一の事故に対する備えが十分かという心配が残る。ネット上には「所有するなら任意保険に加入し人身・対物無制限を保有の条件にすべき。事故起こして生活保護だから賠償できませんでは、被害者がうかばれない」という声がある。

 そして三つ目が、都市中心の前提と地方の実情がずれている点だ。公共交通が整う地域の感覚を、買い物までに長い距離を要する地域へそのまま当てはめるのは無理がある。

 生活保護世帯に車の利用を一律に認めることにも、全面的に禁じ続けることにも、それぞれ負担がともなう。ネット上には

「公共交通の維持に税を投じるより、車を認めた方が費用は抑えられる」

という見方もある。移動手段が一部の人に限られる状態が続けば、人や消費の動きは滞る。国内市場の広がりも鈍くなる。

 被保護世帯数が164万6424世帯である今、彼らを支出の対象としてとどめるのか、それとも移動の手段を通じて経済の流れに戻すのか。

 メーカーや投資家にとっても、この移動格差は見過ごせない。就労機会の制限は働き手の減少につながり、地域の経済活動を弱める。社会復帰を後押しして長期的に支出を抑えるのか。あるいは、支払い能力に不安のある利用者が車を持つリスクを受け止めるのか。維持費や保険料を支える仕組みも含め、新たな枠組みを検討する余地はある。

 車を生きるための手段としてどこまで許容するのか。そのときに何を引き受けるのか。答えはまだ定まらず、判断の材料だけが積み重なっている。

移動の自由と尊厳のはざまで

生活保護と車の移動格差。

 この問題は単なる「車の所有可否」という制度論にとどまらない。

 1967人のアンケートと27人のインタビューから浮かび上がったのは、移動手段を持てないことが、働く意欲そのものを奪っていく構造だった。

「車を手放すと通勤や子どもの送迎が困難になる」

「車が必要なため生活保護申請を断念する」

こうした声は、制度と現実の間で引き裂かれる人々の苦悩を物語る。前述の受給者調査でも「働きたい」と回答した人は60.0%に達しており、就労意欲は決して低くない。

 一方で、責任能力をめぐる不安も無視できない。前述の、40年前の追突事故の被害者が「賠償能力なしで補償なし」と泣き寝入りした事例は印象的だ。任意保険に入れない車が公道を走ることへの拒否感は、感情論ではなく、実際の被害経験に根ざしている。

 この対立を乗り越える道はあるのか――。

 ひとつの糸口は、技術の活用だろう。走行データを基にした安全運転評価、それに連動した保険料の公的補助。資産の有無ではなく、運転の質で信頼を見極める仕組みが整えば、損保業界にとっても新たな市場が開ける。移動支援と事故リスク管理を両立させる発想が求められている。

 もうひとつは、地域ごとの柔軟な運用だ。都市部と地方では、公共交通の状況がまるで違う。バス停まで徒歩1時間以上という地域で、都市部と同じ基準を押し付けるのは無理がある。自治体が地域の実情に応じて判断できる余地を広げることが、制度と現場の溝を埋める第一歩になるはずだ。

 そして最も重要なのは、この問題を「弱者への施し」としてではなく、

「人材の活用」

として捉え直すことだ。被保護世帯数が164万6424世帯である今、彼らを支出の対象としてとどめるのか、それとも移動の手段を通じて経済の流れに戻すのか。受給者の76.2%が病気や失業といった不可抗力で制度を利用している現実を踏まえれば、働く意志を持つ層への移動支援は、将来の税収増につながる投資となる。短期の財政負担を抑えることだけを優先すれば、自立の可能性を自ら手放すことになる。

「移動の自由」は、人間の尊厳に直結する。

・働く場所を選べること

・子どもを送迎できること

・通院できること

それらが保障されて初めて、人は社会に参加できる。車をぜいたく品として切り捨てるのは簡単だが、その判断が何を奪い、何を生み出すのか。

 約200万人の受給者が抱える移動の制約は、やがて地域の経済活動全体を弱める。メーカーや投資家にとっても、この層を市場から排除し続けることは、長期的な成長機会の喪失を意味する。

 制度の見直しを求める司法の判断が出た今、行政には動く理由がある。だが、動くためには世論の後押しが要る。賛否が割れる問題だからこそ、感情ではなく、データと事例を基にした冷静な議論が必要だ。

 車を持つことで生活保護を脱却できた人がいる。一方で、無保険の車に傷をつけられ、泣き寝入りした人もいる。どちらの現実も、等しく重い。

 答えはひとつではない。だが、判断を先送りにすれば、移動の格差は広がり続ける。車を生きるための手段としてどこまで許容するのか。そのときに何を引き受けるのか。その問いに、私たちはいつまでも背を向けていられない。