《本日最終回》「私も、ご一緒して、ええですか?」令和の『ばけばけ』に「名ゼリフ」が登場しない“深いワケ”〈妻・トキの描かれ方にも変化が…〉

 いよいよ最終回を迎える連続テレビ小説『ばけばけ』。高石あかり演じるヒロイン・松野(雨清水)トキ(モデルは小泉セツ)と、トミー・バストウ演じるレフカダ・ヘブンこと雨清水八雲(モデルはラフカディオ・ハーン/小泉八雲)が織りなす物語は、教科書の中の「明治の偉人伝」という硬い額縁を鮮やかに踏み越え、瑞々しい生命力に満ちています。

 実は、八雲とセツの物語がNHKでドラマ化されるのは、これが初めてではありません。名脚本家・山田太一が手がけた伝説的傑作『日本の面影』(1984年)が存在します。

 ジョージ・チャキリスがハーンを、檀ふみがセツを演じたあの作品は、放送から約40年を経た今なお、八雲文学の優れた映像化として語り継がれています。

 では、なぜ今、再びこの夫婦の物語が選ばれたのでしょうか。そこには単なる名作のリメイクに留まらない、2020年代という「正解のない時代」を生き抜くためのアップデートがありました。

同じ小泉八雲だが…1984年の傑作ドラマとの違いは?, 名ゼリフが登場しない、令和の『ばけばけ』, 妻・トキに与えられた肩書きが示すもの, 主題歌「笑ったり転んだり」の中のハッとする一節, ヘブンとトキが教えてくれた、優しい自分へと「化け続けること」

朝ドラ「ばけばけ」公式Xより

同じ小泉八雲だが…1984年の傑作ドラマとの違いは?

 まずは比較の基準点となる『日本の面影』を振り返ってみましょう。山田太一が描き出したのは、西洋化を急ぐ明治政府の中で、日本人が自ら捨て去ろうとしていた「土着の精神性」に対する、ハーンの切実な執着でした。

 明治政府が富国強兵と近代化を推し進める中、日本人は合理的・科学的な思考を至上とし、それまでの怪談や八百万の神々といった「非合理なもの」を、進歩を阻む恥ずべき迷信として切り捨てようとしていました。

 山田はハーンという「異邦人の眼」を借りて、効率性だけでは掬い取れない日本人の心の奥底にある「畏怖」や、隣人への細やかな「ケア」の精神を鮮やかに再定義したのです。

 山田版のハーンは日本を愛していましたが、それは盲目的な賛美ではありません。むしろ彼の瞳には、自国の古き良き文化を恥じる日本人への「苛立ち」が常に宿っていました。

 それは、バブルへと向かう高度経済成長の円熟期にあった1980年代の視聴者に対し、豊かさと引き換えに何を失ったのかを突きつける、極めて批評的なまなざしでもありました。

名ゼリフが登場しない、令和の『ばけばけ』

 対して、現代の『ばけばけ』が描き出す景色はどうか。本作を観ていて驚かされるのは、SNSで拡散されるようなドラマチックな名台詞が、極めて抑制されていることです。

 刺激的なフレーズや大仰な愛の告白、派手な展開に頼ることなく、本作は日常の些細な出来事を、どこまでも丁寧に、慈しむように描き出します。

 例えば、トキがヘブンに「私も、(散歩に)ご一緒して、ええですか?」と問いかける、何気ない一場面。

 この一言に込められた、相手にそっと寄り添おうとする意志、そしてともに歩むことへの純粋な喜び。こうした微細な描写の集積こそが、本作における「至福」の正体です。

 私たちの毎日も、後から振り返れば「あの時、あんな素敵なことを言った」なんて記憶はほとんどなくて、ただ「あの日の光が綺麗だった」とか「お味噌汁が温かかった」といった、言葉にならない感覚だけが残っていたりします。本作はただそこにある「生活の質感」こそが愛おしさなのだと再確認させてくれました。

同じ小泉八雲だが…1984年の傑作ドラマとの違いは?, 名ゼリフが登場しない、令和の『ばけばけ』, 妻・トキに与えられた肩書きが示すもの, 主題歌「笑ったり転んだり」の中のハッとする一節, ヘブンとトキが教えてくれた、優しい自分へと「化け続けること」

朝ドラ「ばけばけ」公式Xより

 かつての山田版ハーンが、神経質で時にエキセントリック、そして深い孤独の影を背負った「個人の苦悩」の物語だったとするなら、一方の『ばけばけ』は、その孤独が日常の営みの中に溶け込んでいくプロセスを長い時間をかけて見守る「生活の記録」といえます。

 この視点の変換も納得。かつてのように「日本の精神性を賛美し、伝統喪失を憂う外国人」という構図を強調しすぎれば、現代では日本に同化した外国人を「名誉日本人」として称揚するような、排他的なナショナリズムにすり替わってしまう危うさもあるからです。

 今回、脚本のふじきみつ彦は、伝統の喪失を大上段から嘆くのではなく、ただそこにある二人の日々を淡々と、しかし確かな熱を持って描きました。

 綴られているのは、後世が作り上げた「高潔な文豪」の姿ではなく、二人が積み重ねた、あまりにささやかで愛おしい日々の断片です。

 制作プロデューサーの橋爪國臣によると、本作は小泉セツの著書『思い出の記』に流れる「空気感」を大切にしているとのこと。孤独な異邦人を、ユーモラスな人間味あふれる人として描き直すことで、人生のつらさは日常の幸福によって溶かすことができるのだと、私たちに語りかけてくるのです。

 実際、トキからみたヘブンはそんな優しい夫だったはず。本作の八雲像はまさにトキが編み直した姿なのです。

妻・トキに与えられた肩書きが示すもの

 本作における最も重要なアップデートは、ヒロイン・トキの描かれ方です。これまでの「偉人を描く作品」において、妻の存在は往々にして、夫の偉業を陰で支える「内助の功」という美徳の中に閉じ込められてきました。

 近年の朝ドラでは、同じビジョンを共有するクリエイティブパートナーとしての視点も描かれるようにはなってきましたが、トキには、さらに肩書きが与えられています。

 トキが得た「リテラリーアシスタント(文学的助手)」という肩書きは、単なる現代風のアレンジではありません。それは、歴史の中で「献身」という言葉によって不可視化されてきた、女性の知性と労働に正当な光を当てる、極めて誠実な再定義です。

 トキがしてきたことは、現代ではクレジットがつくべき「仕事」だったのです。たとえば膨大な日本の古典や民話の中から、ヘブンの感性に響くエッセンスを精緻に選び出す「卓越したキュレーター」であると同時に、言葉の壁を超えて、日本人の精神性をヘブンが理解できる文脈に翻訳する「異文化コーディネーター」でもありました。

 二人が作品を練り上げる姿は、まさに現代のクリエイティブ現場における「ライターズルーム(共同執筆体制)」そのものです。

 『KWAIDAN』が刊行されたあと、それがヘブン一人の力ではなく、「トキと二人で作った」という事実を家族で共有するシーンも印象的でした。

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朝ドラ「ばけばけ」公式Xより

 彼女の能力を、「妻としての資質」に矮小化せず、一人のプロフェッショナルとして描き直すこと。そして、執筆環境を整える「ケア」の営みが、実は高度な知的生産を支える不可欠なエンジンであることを示すこと。

 かつては美談として消費されていた女性の役割を、創造的なプロセスの「対等なパートナー」として定義し直す。それは、約40年前の名作がどれほど偉大であっても、今、この2020年代にこの物語を編み直さなければならなかった、最も重要な理由の一つではないでしょうか。

主題歌「笑ったり転んだり」の中のハッとする一節

 主題歌「笑ったり転んだり」の中に、「日に日に世界が悪くなる」というハッとさせる一節があります。これはハーンがかつて感じていた、世界が自分たちの手の届かない、冷たく硬い場所へ変わっていく絶望を、現代の視点から接続したものでしょう。

 不穏な国際情勢や不寛容な「排外主義」が加速する今、私たちはかつてハーンが危惧した「明治の熱狂」に極めて近い、危うい崖っぷちに立っています。

 ただ『ばけばけ』は、この重いテーマに対して高らかに批判の演説をすることも、直接的に日清戦争の描写を挟むこともしません。

 戦争描写を前面に出さず、「軍都」となった熊本にて、背後に忍び寄る「軍靴の足音」を挿入することで、戦争の影を静かに提示しました。

 生活の地続きにある変質。日常の空間に不穏な何かが入り込んでいる感覚は、俳人・渡辺白泉の句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」を彷彿とさせます。今作はこの不気味な足音を否定せず、しかしその横で淡々と、互いを慈しみ合う二人の姿を映し出し続けました。

 テレビのニュースでリアルタイムに爆撃の映像が放送される重苦しい時代です。そんな折だからこそ、一時だけでも「笑ったり転んだり」する何気ない、愛おしい日常へと視点を向けさせてくれることもエンタメの役割といえるでしょう。

 それに、戦争によって踏みにじられることになる「名もなき人々の穏やかな暮らし」を丁寧に描くこと自体も、現代の観客には「今のまま進んでいいのか?」と問いかける、最も鋭い警鐘になっている気がします。

ヘブンとトキが教えてくれた、優しい自分へと「化け続けること」

 この困難な時代真っ只中に放送される朝ドラとして、『ばけばけ』は非常にチャーミングな、しかし本質的にタフな回答を用意しています。それがタイトルにもなっている「化ける(ばけ)」という概念です。

 『ばけばけ』が描くのは、「わからないものを、わからないまま愛する」という高潔な作法です。

 私たちは日々、無意識のうちに「自分はこういう人間だ」「あの人は理解できない」と、心のシャッターを下ろしてしまいがちです。しかしトキは、ヘブンという「未知なる隣人」を、無理に自分たちのルールに馴染ませようとはしませんでした。

 むしろ、どこにいても「よそ者」でありながら、それぞれの土地で深く根を下ろし、その本質を理解しようとしたヘブンに影響されることで、自分自身が軽やかに「化けて」いくことを楽しんだのです。

 これは、マジョリティの論理に他者を従わせようとするナショナリズムや、効率をすべてとする現代社会に対する、最も静かで強力な抵抗としても読み取れます。

 それに劇中で二人が交わす「ヘルン言葉」(片言の日本語と英語が混ざり合った、不完全な対話)にも、現代の私たちが学ぶべき「愛という名のコスト」が詰まっています。

 効率が支配する現代、私たちは「手っ取り早く理解すること」を求めすぎます。しかし、トキとヘブンの会話は、いつも遠回りで、もどかしい。怪談話を一つ伝えるのにも、何時間もかかります。

 ですが、その「手間」こそが愛なのです。相手を完全に理解できないことを認め、それでもなお、隣に座って耳を傾け続ける。このコストを惜しまない姿勢こそが、他者を排除せず、共に生きるための唯一の道であることを、本作は優しく教えてくれます。

同じ小泉八雲だが…1984年の傑作ドラマとの違いは?, 名ゼリフが登場しない、令和の『ばけばけ』, 妻・トキに与えられた肩書きが示すもの, 主題歌「笑ったり転んだり」の中のハッとする一節, ヘブンとトキが教えてくれた、優しい自分へと「化け続けること」

朝ドラ「ばけばけ」公式Xより

 今日、誰かに対して抱いた「嫌悪感」という小さな排他性を、ほんの少しの「好奇心」という魔法で変えてみる。それだけで、私たちは昨日より少しだけ優しい自分へと「化ける」ことができます。

 国がどこへ向こうとしても、社会がどれほど冷たくなろうとしても、私たちは「目に見えない大切なもの」を守り、誰かの孤独をケアし続けることができるはずです。

 「化ける」ことは、決して自分を失うことではありません。異質な他者と出会い、影響し合い、より豊かで優しい自分へとアップデートし続けるだけのことです。

 『ばけばけ』という物語が私たちに届けてくれたのは、異質なものとともに笑い、転びながら進んでいくための「しなやかな勇気」なのかもしれません。

連続テレビ小説「ばけばけ」(NHK総合)

最終回 3月27日(金) 午前8:00〜8:15

最終回(再) 3月27日(金) 午後0:45〜1:00