『豊臣兄弟!』秀長の「早すぎた死」、はたして秀長が生きながらえていたら、秀吉は朝鮮出兵をためらったか

伏見桃山城 撮影/西股 総生

はたして「早すぎた」といえるのか

 今年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟』の主人公である豊臣秀長は、1540年(天文9)に生まれ、1591年(天正19)に52歳で死去した。豊臣政権は、この前年に小田原の北条氏を下し奥羽の諸大名を服属させて、全国統一を果たしていた。

 しかし、秀長死去の翌年には朝鮮出兵を開始し、この外征の強行が結果として政権崩壊の端緒となっていった。こうした事情から、秀長の死によって秀吉が暴走し政権の弱体化を招いたと評され、その早すぎた死を惜しむ意見も多い。

 たしかに、秀長が没したことによって豊臣政権が実務の統括者を失ったことは、近年の研究によって明らかにされているとおりだ。ただし、秀長が生きながらえていたら秀吉は朝鮮出兵をためらったかというと、それは疑問だ。秀吉は、全国を統一する以前から「天下一統の次は半島・大陸を征服する」と公言していたし、秀長の存命中から朝鮮に服属を要求する使者を送るなど、外征の構想を進めているからである。

岐阜城。史実では桶狭間合戦に勝利した信長は美濃を攻略するが…

 結局、秀長が生きていたとしても朝鮮出兵は強行されただろうし、出兵すれば遠からず失敗に帰しただろう。もっとも、実務の統括者である秀長が健在であったなら、朝鮮から撤退する際の段取りは史実ほど混乱しなかった可能性があるし、多少の混乱が生じたとしても、秀長が諸将の間に入ってうまく調整したかもしれない。

北条氏が北関東進出の拠点として重視した埼玉県の鉢形城。本丸に建つ石碑には田山花袋による「雄視関八州」の詩が刻まれている

 ただ、一方で筆者が疑問に思うのは、享年52という秀長の死が、はたして「早すぎた」といえるのかどうか、ということだ。今川義元・龍造寺隆信のように武運つたなく討死した者や、織田信長・伊達輝宗のように横死した者は別として、戦国武将の平均寿命はどのくらいだったのだろう?

 試みに、戦国の初期から後期までいろいろな時期、いろいろな地域から、誰でも名を知っていて、かつ生年と没年が確定できる武将から、畳の上で天寿を全うした者をランダムに10人ピックアップしてみた。

静岡市の賤機山城。今川氏真は信玄の侵攻に備えてこの山城を築いたが…

北条氏綱 1487〜1541年 55歳

朝倉孝景 1493〜1548年 56歳

織田信秀 1511〜1552年 42歳

斎藤義龍 1527〜1561年 35歳

三好長慶 1522〜1564年 43歳

北条氏康 1515〜1571年 57歳

毛利元就 1497〜1571年 75歳

武田信玄 1521〜1573年 53歳

上杉謙信 1530〜1578年 49歳

大友宗麟 1530〜1587年 58歳

甲府駅前の武田信玄像

 毛利元就のように当時としては長生きした者も、斎藤義龍のように短命に終わった者もいるが、10人の平均寿命は52.3歳となる。これができすぎた数字だと思う読者は、試しにサンプル数を増やしてみるとよいが、おそらく大差ない平均値が出るだろう。

 52歳という秀長の寿命は、戦国武将としてはごく平均的なものであって、決して「早すぎた死」とはいえないのである。秀吉自身は62歳まで生きているが、当時の武将としてはむしろ長命な方に属する。

大和郡山城

 彼らは、50歳を過ぎたらいつ寿命が尽きても不思議ではなかったのであり、秀吉・秀長がそうした年齢に達したにもかかわらず、相変わらず個人事務所のような態勢で政権運営を続けていたことの方が問題なのだ。

 結局、秀長がいてもいなくても淀殿は秀頼を生んだだろうから、仮に1591年(天正19)に秀長が没しなかったとしても、豊臣政権は遠からず空中分解が避けられなかっただろう、と筆者は考える。

[参考図書] 「戦国武将の寿命はどのくらい?」「武将たちの意外な“転職”事情とは?」などなど、戦国のリアルを考える拙著『戦国武将の現場感覚』(KAWADE夢文庫)をぜひご一読下さい。

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