10年で3000時間以上の飛び込み授業を行う教師が目にした、崩壊した教室に多い「自分を隠す」子供たち

全国の小学校からひっぱりだこの教師がいます。この10年で3000時間以上の飛び込み授業を行い、いまもっとも日本の公立小学校を知っていると言っていい存在です。

数々の崩壊した教室をコミュニケーションの授業で立て直し、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」や日本テレビ系列「世界一受けたい授業」などにも出演。

著書『足型をはめられた子どもたち』では、各地で出合った目を疑うような授業、規則を紹介するとともに、コミュニケーションの授業で子どもたちが、どう伸びていくかを伝えていきます。

自己紹介ができない6年生の子との出会い

私がコミュニケーションの重要性について考え始めたのは、三十数年前でした。北九州市の教員時代のことです。こんな6年生の子と出会いました。

教室で、自己紹介ができない。

教室の他の子どもたちを恐れてできない。あるいは恥ずかしがってできないのです。新任から2校目の赴任校で、私自身、まだ30代に入ったころでした。手探りでスピーチの授業を始めていたときのことです。

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私の師匠であり、自らも中学校教師として実践的な国語教育を研究されていた桑田泰佑先生にも状況を相談しました。すると「もっと本格的にコミュニケーション教育をやってみなさい」と。私は当初、頭を抱えたものです。「これで教師としての出世コースや、教育界での主流派から外れていくな」と。なぜなら、いまでもそうですが、「教科書の教え方がうまい先生」こそがいい教師とされているからです。

私が勤めていた小学校は北九州市にありました。他の地域からの人の出入りもあるところで新旧さまざまな人々が暮らし、親の職業や家庭環境の違いも大きく同一の価値観が子ども同士で持ちづらい状況でした。

そのため子どもにとって教室が不安や不信感が渦巻く場所となってしまい、学級が崩壊する厳しい現場を多く目にしました。以降、全国のどんなに荒れた教室に出くわしても「北九州市のいちばん荒れていた小学校時代よりマシ」と思えるほどです。

そうした経験のなかで、「教室が子どもたちにとって落ち着けて安心できる環境」であることが、結局は学力の向上にもつながることを確信しました。

2011年には、文部科学省の「『子ども熟議』のすすめ」というリーフレットの全面に私の北九州の教室が掲載されました。「子どもたちの話し合いと実践で創り出すよりよい学級・学校生活」というタイトルです。学級の全体的な学力が高くなければそもそも大きく掲載されることはなかったでしょう。

ただ、成績は結果であって、それより私は何年生であっても「子どもを育てるのではなく人間を育てる」ことを考えてきました。2015年から教育実践研究家として約10年間、全国のさまざまな学校を回るなかで、人を育てるという意味でコミュニケーションの重要性をさらに痛感するようになります。

真夏の沖縄、フードで顔を隠した男の子

9年ほど前に沖縄の小学校を訪れました。

現地で週末に教師対象のセミナーを行うなか、学校を見にきてほしいという依頼をいただいたのです。

私が訪れたそのクラスは、特に厳しい学級、ということは聞いていませんでした。いつもどおり、こちらからは多くは聞きません。聞くとだいたい悪い話が多く出てきて、先入観を持ってしまうからです。

私は飛び込み授業の際には、よくその教室の授業前の休み時間の様子を眺めます。子どもたちもそこにふだんと違う人がいれば、目を合わせるものでしょう。そこでどういう反応があるのか。会釈が返ってくるのか。子どもたちを試す、という意味ではなく、自然な反応を見てみたいからです。

この日、教室を眺めていると、パッと目の中に飛び込んでくる男の子がいました。

暑い教室の中でひとりパーカーを着ているのです。

しかも、フードで顔を隠しています。

私は彼の姿にただならぬものを感じ取りました。なにせ猛暑の沖縄でパーカーを着ているわけですから。シンプルにかなり暑いはずです。でも彼はその姿でいました。いちばん後ろの席で、みんなが半そでやノースリーブなのに、ひとりだけフードのついた赤色のくすんだ色の長袖の服を着ていました。

何らかの理由で教室に自分の居場所がないのだろうな、自分なりの精一杯の自己防衛から、そうしているのだろうな、本当に辛いのだろうなと想像しました。

「自分を隠そうとする」という子どもは、私の教員時代にも教室にいました。前髪を長くして顔を隠したり、長袖の服の袖で手を隠したりする子もその一環です。崩壊した学級の子どもに多い傾向でもあります。

要は自分のことを周囲から隠さないといけない。学力ばかりを重視して、クラスメイトとのコミュニケーションのない教室では、相手を信用したり、好意を持ったりするきっかけがありません。当然のごとく、周囲を敵だと思う傾向が強くなるのです。そうとはいえ、暑い中フードを被っている子どもの姿は、私にとっても初めてのものでした。

きっかけとなる子どもの一瞬のしぐさ

ただ、私は授業前の彼の一瞬のしぐさに“希望”を見ました。

私が教室の中の様子をさっと見たときに、チラッとこっちに上目遣いで目線を向け、関心を示したのです。確かにふだんいない人たちが教室に来るのですから、心配ではあったのでしょう。あるいは複数の先生が来ていたので、そのなかの誰が授業をするのかも気になったはずです。

いざ飛び込み授業が始まると、私はまず彼に目を合わせて、ほめました。

「人に対して関心を持っているんだね。偉いね」

そして彼と握手をしようと手を差し出しました。彼はそれに応じました。私は「人に対して興味を持つ」というのは子どものあるべき姿、らしい姿だと思っています。

授業の様子。生徒たちと握手をする菊池省三氏

そのとき、教室の中でひとりかふたり、驚いてちょっと喜ぶような表情をした子もいました。後にふと思ったことですが、心の中では彼と友達だという意識があったのかもしれません。

その日は道徳科の授業でした。「自分の夢」を題材に、子どもたちが活発に教室内を動いて、話し合う形式で進めました。

彼にこう話しかけてみました。

「自由に交流してごらん」

「友達と話してごらん」

彼はそう簡単には立ち上がろうとしません。それはそうですよね。フードで顔を隠すまでの状況ですから、簡単に変わるわけはありません。

彼のところに自ら訪れる友達もいません。だから私は先ほど喜ぶような表情を見せた子に声をかけて「彼のところに行ってみて」と促してみました。

すると、彼はほんの少しですが、そのクラスメイトと嬉しそうに話をしているのです。相変わらず座ったままで立ち上がりはしませんでしたが。

放課後、校長室で先生たちと話をしているところに、彼がやってきました。そこには一緒に訪問した先生方とともに、たまたま沖縄にいらしていた一般財団法人児童虐待防止機構オレンジCAPO理事長の島田妙子さんも同席されていました。

目が合っただけでほめられ、友達が自分のところに来てくれて、一生懸命授業に取り組めた。このことを彼が喜んでくれたのなら、私も飛び込み授業をやった甲斐があったというものです。

彼は、私に対して「サインをください」と申し出てきました。

私はランドセルの裏側にさっとサインしました。

このとき、小学校側が彼を放置しているような状況になっていることについて、もっとやりようがあるのではないか、ということを感じました。彼は小学校の中学年だったので我慢して座っていましたが、もし高学年だったら教室から自ら飛び出していたでしょう。