「1時間ぐらい沈黙するから…」志村けんの「バカ殿様」が新人を育てた納得のワケ【桑マン証言】

志村けんさん Photo:Sports Nippon/gettyimages

2026年、『志村けんのバカ殿様』が放送開始から40周年を迎えた。時代が変わり、テレビのコント番組が減った今も、このシリーズが人気なのはなぜか。放送初期から現場を支えた桑野信義さんに、『バカ殿様』の舞台裏と、志村けんさんの知る人ぞ知るリーダーシップについて秘話を聞いた。【前編】(ライター 橋本未来)

新作コントを待ち望む期待に応え

家来たち「スピンオフ」の可能性は?

――今年、志村けんさんの看板番組『志村けんのバカ殿様』(1986年〜/フジテレビ系列)が放送開始から40周年を迎えました。桑野信義さんは、80年代末頃から出演され、家老のキャラが強く印象に残っている視聴者も多いと思います。

 バカ殿様のコントはもともと『8時だョ!全員集合』(TBS系列)で生まれて、フジテレビの特番として始まったのが86年。志村けんさんには公私ともにお世話になりながら、色々なコントの現場をご一緒したので、新作コントを作れなくなったのは寂しい限りです。

 でも、今でも一般の方から「家老!」って呼んでもらったりしますし、僕にとって大切な番組であることは間違いないですね。

――過去のコントを放送する特別番組としては今も放送されていますが、やはり新作コントが見たい!という声も多く聞きます。スピンオフ的な企画で、共演者の皆さんでコントを作る計画はありますか?

 それは、ないでしょ(笑)。やっぱり、志村さんがいないとコントは作れないですから。可能性があるとしたら、後任格とも言えるナインティナインの岡村隆史君が中心になったら、なにかできたりもするのかな。

 でも、今はもうテレビが、ちょっと元気がないでしょ? コント番組は時間も手間もかかるから、ほとんどないのが寂しいです。

 それに僕はまだ、志村さんが亡くなったってどうしても認めきれないところがあって。今でも、「馴染みの店に飲みに行ってるのかな?」なんて思ったり。「もうそろそろ帰ってきて、早くコントやりましょうよ」っていう気持ちですよ。

桑野信義/1957年東京都生まれ。トランペット奏者、歌手、タレント。「シャネルズ」(のちのラッツ&スター)のメンバーとして『ランナウェイ』『め組のひと』など数々のヒット曲で知られる。テレビ番組『志村けんのバカ殿様』『志村けんのだいじょうぶだぁ』などでコメディアンとしても活躍。2022年、大腸がんの闘病と復帰を綴った著書 『がんばろうとしない生き方』 (KADOKAWA)を刊行した 画像:本人提供

シャネルズ、ラッツ&スターと並行して

お笑いの世界へ飛び込んだワケ

――もともと、志村さんとはどのようなきっかけで知り合ったのですか?

 僕ら(※シャネルズ、ラッツ&スター)がバンドをやっている頃に、お客さんとして見に来てくださったのが、最初ですね。確か、高木ブーさんも来てくださいました。うちの事務所の社長が、ドリフターズの皆さんの事務所と関係が深かったので。

 その後、『全員集合』に僕らがゲスト出演させていただく機会があって。ただ、雲の上の人だと思っていたので、ご挨拶はしても気軽にお話なんてできませんでした。

 はっきりと覚えているのは、『だいじょうぶだぁ』(1987年〜/フジテレビ系列)に出演することが決まったとき。確か、『加トちゃんケンちゃん(ごきげんテレビ)』(1986年〜/TBS系列)の収録をしていた志村さんの楽屋を訪ねたら、パンツ一丁で肩からタオルを引っ掛けた志村さんと加藤茶さんのお二人がいらした。

 もう、戦々恐々としながら「この度は、よろしくお願いいたします!」ってご挨拶をしたら、「あぁ、よろしく」って素っ気ない感じでね。ほんとに怖いんですよ(笑)。

――テレビのコントで見せる顔とは違ったんですね。

 加藤さんだって、普段はバシッと格好いいスーツを着てらっしゃって、シャープな感じですよ。やっぱり、只者ではない雰囲気でしたね。

――『だいじょうぶだぁ』は、歌手やアイドルなど、異業種の人も多く出演されていましたよね。桑野さんに白羽の矢が立ったのは、なにが理由だったのですか?

 志村さんはお笑い系以外の人と一座を作りたいと考えたそうなんです。特に、音楽系の人はリズム感があるから「間」が良いと。それに、お笑い出身の人とは違った化学反応みたいなものを期待したんだと思います。

 僕たちは、バンドの時もライブでヒゲダンスをやったり、コントのようなこともやってましたから、そういう素養があると思ってくれたのかもしれません。

――お笑いの世界に飛び込んだのは、『だいじょうぶだぁ』が最初なのですか?

 よくそう思われるんですけど、実は違うんですよ。バンド時代から、『テレビほとんど冗談』(1982年/テレビ東京)とか、『マンガチョップ84』(1984年/フジテレビ)なんかで、バラエティー番組に出演していたんです。

 それに、バンドの中でいちばん早くピンでバラエティーに出演したのも、実は僕なんですよ。堺正章さんが司会の歌番組で、「ジャンケンマン」というキャラに扮して、商店街を練り歩くロケをしていました。スタジオの堺さんと一般の方がジャンケンをして、勝ったらお店の宣伝ができるっていう。

――バンドとして売れている時期に、バラエティーに出演することに抵抗はなかったのですか?

 いえ、まったく。レコード会社は「ちょっとイメージ的に……」みたいなのもあったんですが、事務所の社長が「やりたいんだったら挑戦してみろ」って。ドリフもそうだし、クレージーキャッツの皆さんだって音楽もやるし、お笑いもやられていた。僕自身、そういうエンタメ志向が強かったので、機会をいただけたのはありがたかったですね。

アイドルも新人も…共演者を育てた

志村けんの「お笑いリーダー術」

――ドリフのいかりや長介さんは「会議が長い」ことで有名ですが、弟子筋にあたる志村さんは、どうでしたか?

 いや〜長いよね(笑)。週に1回、志村さんとブレーンの作家さん、あと僕らのような共演者が中心となってネタ会議をしていました。テレビ局の大きなリハーサル室の真ん中に畳が敷いてあって、作家さんが書いたコント台本を読むんです。

 その周りにスタッフさんが大勢座っているんですが、シーンと張り詰めた雰囲気。昼頃から始まって、夜中近くまでその状態が続くもんだから、途中から「あぁー早く飲みに行きてぇ」って思うときも正直ありました(笑)。

――志村さんが口を開くまでは、だれも発言されないような雰囲気ですか?

 積み上がった台本を読んで、一瞬で却下という場合もあるし、じーっと考え出すと1時間ぐらい沈黙するから、口を挟めないんですよ。要するに、志村さんって台本に書かれた活字だけで判断するのではなくて、どんなセットにしてどんな音楽をかけてっていうところまで考えているから、そのハードルを越える台本って、なかなか無いんですよ。だから、採用率はかなり低かったと思いますよ。

 結局そこから10本か20本ぐらいをキープしておいて、残りの数日で志村さん自身がネタを膨らませたり、セットや音楽のことを決めていくんです。

シャネルズ(現ラッツ&スター)40周年記念ツアーを控えていたとき、大腸がん、リンパへの転移が判明。闘病の日々が始まった。苦しさを乗り越えるヒントを著書 『がんばろうとしない生き方』 (KADOKAWA)に綴った桑マンさん 画像:本人提供

――大変な現場だったわけですね。それでも、何十年も志村さんのコントに出演され続けたわけですね?

 志村さんがコントの練り直しからセット、音楽まで決めて、収録ではどこからどう撮影するかっていう演出までやるんですよ。その背中を見ているのに、「おれは適当でいいや、もういいや」なんてまさか思えるわけがない。

 あと、台本はきっちり覚えてやるんだけど、「途中で止まらなくていいから」って言うんですよ。もしセリフを噛んだり言い間違えたりしても、突っ込んでもらって笑いになったり。そうやって、ちゃんと本番では助けてくれるから、どんどん信頼していきますよね。

――お笑いに興味が無さそうなアイドルが、身体を張ったコントをやり切るのも、そういう理由があったのですね。

 そう思いますよ。それに志村さんのコント番組って『だいじょうぶだぁ』にしろ『バカ殿様』にしろ、新人の登竜門みたいな面もありましたから。ここで爪痕を残せば、芸能界でも売れるぞっていう。そういう環境を志村さんが作ってくれたから、アイドルの人でもがんばろうって思えたんじゃないでしょうか。

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