失敗から誕生、米国の偉大なイノベーション10選

ミスは米国のDNAに刻まれている。クリストファー・コロンブスは新世界を発見したとき、欧州からアジアへの西回りの航路を見つけようとしていた。
そのときから米国は幸運の国であることを繰り返し証明してきた。偶然の出来事をうまく活用することで世界を変える数々の発明が生み出された。心臓病患者の寿命を延ばした発明もあれば、人間の食事のあり方を根本から変えた発明もある。退屈した指がつぶして遊ぶ小さな気泡もそうだ。
「人々はあり得ないことがいかにあり得ないかを過小評価している」。南カリフォルニア大学ビジネススクール教授で「セレンディピティ 点をつなぐ力」の著者のクリスチャン・ブッシュ氏はそう話す。
偶然、神の導き、まぐれ当たり、幸運。これを何と呼ぼうとも、250年の間、発明を生み出してきたのは風呂に漬かったアルキメデスではなく、作業場の職人や研究室の科学者だった。彼らは失敗を受け入れ、生かしてきた。
米国でミスから生まれた10のイノベーションを紹介しよう。
コーンフレーク

小麦粒を使った料理実験が朝食のあり方を変えるとは、誰が想像しただろうか?
ミシガン州の世界的に有名なヘルススパ「バトルクリーク・サナトリウム」は今でいう健康文化のファンが集まる場所だった。ジョン・ハーベイ・ケロッグ博士の監督の下、サナトリウムは運動や新鮮な空気、健康的な食事を熱心に勧めていた。その食事の中に細かく砕いた乾燥穀物が含まれていた。
ケロッグ氏と弟のW・K・ケロッグ氏は小麦粒の調理法をあれこれ試していた。1894年、ケロッグ兄弟はゆでた小麦が入った鍋をたまたま放置した。すると小麦は水分が抜けてカラカラになった。戻ってきたW・K氏がカラカラの小麦をローラーにかけたところ、一粒一粒が大きくて平らな薄片になって出てきて、これを焼くとパリパリになった。
W・K氏はその後、このやり方をトウモロコシに応用し、朝食を永久に変えた。1906年、彼はバトルクリーク・トーステッド・コーンフレーク・カンパニーを設立した。同社は現在、シリアル大手のケロッグとして知られる。
埋め込み型ペースメーカー

埋め込み型ペースメーカーを発明したウィルソン・グレートバッチ氏
ウィルソン・グレートバッチ氏は何百万人の命を救った。しかも医学大学院に行かずにだ。1950年代後半のあるとき、グレートバッチ氏は心臓音を記録するための機械を組み立てていた際、うっかり間違った抵抗器を取り付けた。しかし機械の電気パルスの速度は心臓の鼓動のように一定だった。
「私は信じられない思いでこれを見つめ、これこそが心臓を動かすために必要とされているものであることに気付いた」。彼は著書「The Making of the Pacemaker(ペースメーカーができるまで)」にそう書いた。
当時もペースメーカーはあったが、体外型で非常に大きなものだった。それより前のペースメーカーは手回しで動かす必要があった。グレートバッチ氏が思いついたのは、ごく小さなペースメーカーを心臓病患者に埋め込み、心拍を調節することだった。初めての完全埋め込み型ペースメーカーは1958年に犬に設置され、その2年後に人間に導入された。
電子レンジ

1946年、レイセオン製「レーダーレンジ」でハンバーガーの調理を実演する様子
パーシー・スペンサー氏はたぶん空腹だったのだろう。第2次世界大戦後まもなくのこと、軍需企業レイセオンのエンジニアとして働いていたスペンサー氏はマグネトロンに近づいたとき、ポケットに入っていたチョコレートバーが溶け始めたことに気付いた。電磁エネルギーを使えば食品を素早く加熱できることを発見し、ポップコーンと卵で実験した。
レイセオンが「レーダーレンジ」と名付けた電子レンジの初期モデルは家庭で使うにはあまりに大きく、価格も高すぎた。1967年、調理台の上に置くことができる家庭用電子レンジが500ドルを切る価格で登場した。その後10年にわたって食品メーカーは電子レンジで温めるだけの食事や軽食を増やし、取扱商品を広げた。最新の連邦政府のデータによると、今では米国のほぼ全世帯に電子レンジが少なくとも1台はある。
バブルラップ(気泡緩衝材)

2010年、ニュージャージー州にあるシールドエアー社の工場で気泡緩衝材について語る同社のローン・シェレンバーガー氏
1957年、アルフレッド・W・フィールディング氏とマーク・シャバンヌ氏は2枚のプラスチック製シートを重ねて凹凸のある新しい種類の壁紙を作ろうとしたが、間に気泡が入ってしまった。壁紙はヒット商品にはならなかったが、2人は試行錯誤の末、荷物用の緩衝材として使うことを思いついた。
2人が創業した会社はその後、さまざまな気泡のサイズの緩衝材を用意して製品の種類を広げた。その小さな空気の粒をつぶすのが大好きな人は、1月最終月曜日の「バブルラップ感謝の日」に、2人の幸運な発明家に感謝の言葉を伝えてみてはどうだろう。
加硫ゴム

1920~30年頃、オハイオ州で作業員がタイヤを型から外す様子
19世紀初頭、ゴムは水を通さず柔軟性があることから人気があったが、問題が一つあった。未処理のゴムは低温にさらされると割れやすくなり、高温下ではべたべたしたり溶けたりすることだった。そのため米国では使い道が限られていたが、チャールズ・グッドイヤー氏はその性質に取りつかれた。
1839年、グッドイヤー氏は何年もの試行錯誤の末、硫黄で処理したゴムが何かの拍子に熱いストーブに触れたことをきっかけに、解けないと思われた謎を解いた。彼はサンプルを調べて衝撃を受けた。サンプルは溶けるどころか、頑丈になり耐久性も備えていた。しかも柔軟性と弾力性は失われていなかった。熱を加えるのは直観に反していた、と説明したのは「Noble Obsession: Charles Goodyear, Thomas Hancock, and the Race to Unlock the Greatest Industrial Secret of the Nineteenth Century(高貴な執着:チャールズ・グッドイヤー、トーマス・ハンコック、19世紀最大の工業の秘密を解き明かすための競争)」の著者のチャールズ・スラック氏だ。「加硫(vulcanization)」という言葉はローマ神話の火の神ウルカヌスに由来する。
ポプシクル(棒付きアイスキャンディー)

11歳の少年の発明品
フランク・エパーソン氏がふとしたことからイノベーションを思いついたのはわずか11歳のときだった。1905年、一日たっぷり遊んだ後、炭酸飲料のカップにかき混ぜるための棒を入れたまま、一晩外に置きっぱなしにしてしまった。翌朝、カップをひっくり返すと、持ち手付きの甘いつらら(アイシクル)ができていた。エパーソン氏はこれをエプシクルと名付けた。
彼の友達はこの氷菓が大好きだった。1924年、エパーソン氏は特許を取得した。後に自分の子どもたちからの提案で、氷菓の名前をエプシクルからポプシクルに変更した。1920年代にポプシクルの権利をジョー・ロー・カンパニーに売却、同社は大恐慌時に棒が2本入ったポプシクルを売り出した。ポプシクルはその後数十年の間に企業から企業へと受け渡され、今は食品・日用品大手の英ユニリーバから分離したマグナム・アイスクリームの傘下にある。
サランラップ

ちょっとした出来事をきっかけに、あらゆる家庭のキッチンへ
ラルフ・ワイリー氏は数十年にわたって化学企業ダウ・ケミカルの科学者だったが、その名前を世間に知らしめる発見をしたときは、まだ同社で働く大学生だった。1933年のある日、ワイリー氏と1人の同僚は、扱っていたドライクリーニング剤の影響でフラスコが白くなったことに気付いた。研究者たちは理由を知りたいと考えたが、研究用にフラスコから削り取るのに苦労した。その粘着性――分子が密集した結果だ――が鍵になった。
こうしてサランラップが誕生した。第2次世界大戦の初期には、米軍が船上の重要機器が水にぬれないようにするための安価な包装材としてサランラップを使用した。戦後、柔軟で粘着性のあるこのフィルムはキッチンの定番アイテムになり、水と空気を遮断して食品の鮮度を保つと同時に食品を守っている。
サッカリン

ジョンズ・ホプキンス大学での奇妙な出来事が、この甘味料の開発につながった
コンスタンチン・ファールバーグ氏が1879年にもたらしたおいしいイノベーションは、全ての母親の悪夢、すなわち食前に手を洗わないことから生まれた。
ジョンズ・ホプキンス大学の研究者だったファールバーグ氏は研究室で仕事に没頭していたため、夕食を取り忘れた。急いで食事をしようとして手を洗わずにパンを口に入れると、とても甘い味がした。扱っていた化学物質から偶然、化合物を作り出しており、それが手についてパンに付着したというわけだ。ファールバーグ氏は食事を中断して急いで研究室に戻ると、あらゆる容器の中身の味を確かめ始めた。「砂糖より甘い」物質を発見すると、数カ月かけて化学組成を再現しようとした。
サッカリンは砂糖不足が起きた第1次世界大戦中に普及し、その後、ダイエットに励む人々の定番アイテムになった。
スコッチガード(防水スプレー)

スコッチガードの共同発明者、パッツィ・シャーマン氏
3M(スリーエム)社の化学者パッツィ・シャーマン氏が1953年、空軍向けにジェット燃料に耐久性のある新しいタイプのゴムの開発に取り組んでいたとき、研究員のジョアン・マリン氏が偶然、シャーマン氏が作成したゴムのサンプルを自分のテニスシューズにこぼしてしまった。マリン氏はせっけんやアルコールなどの溶剤を使ってサンプルを落とそうとしたがうまくいかなかった。
シャーマン氏はこの災難に可能性を見いだした。彼女は上司のサム・スミス氏と共に水と汚れをはじくスコッチガードを開発した。スコッチガードは1956年に売り出されたが、欠点がいくつかあった。例えば、ウールには高い効果があったが、綿にはあまり効果がなかった。スコッチガードは1960年までに改善を経て商品として完成した。
ポスト・イット・ノート

自分たちの発明品であるポスト・イットを手にする3Mの科学者、スペンサー・シルバー氏とアート・フライ氏
3Mの科学者スペンサー・シルバー氏は、航空機の製造向けに耐久性があって強力な接着剤の開発を任されていた。ところが1968年に発見したのは、表面に軽く貼りついて、簡単にはがせる接着剤だった。しかしその使い道を見つけるのに苦労した。数年後、同僚の科学者アート・フライ氏はいらいらしていた。教会の聖歌隊で歌う聖歌の目印に使っていた紙切れが、日曜日が来る前に落ちてしまうからだった。
フライ氏は、シルバー氏の軽い接着剤についての講演を思い出した。聖歌のしおりとして使い始め、接着剤の使い道が誕生した。3Mの従業員はオフィスで試し、大いに気に入った。ポスト・イットは1980年に発売された。
実はポスト・イットが元々黄色だったのも偶然だった。隣の研究室にあったのが黄色のメモ用紙だった。 楽しいうそもある。1997年のコメディー映画「ロミーとミッシェルの場合」では、主人公の2人が昔のクラスメートを感心させるため、ポスト・イットの開発者を名乗った。