徳川家康が築いた天下普請の城「駿府城」はなぜすごい? 効率の悪い縄張りながら、日本屈指の平城である本当の理由

駿府城巽櫓と二ノ丸東御門 撮影/西股 総生(以下同)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は駿府城を紹介します。
ものすごく効率の悪い縄張
駿府城を訪れるたびに思う。「すごいなー、この城は」と。
何がすごいかというと、全くの平城で、これだけのスケール感があって、輪郭式の縄張を完璧に実現してといるところが、すごい。本丸の全周を二ノ丸が取り巻き、その外側を三ノ丸が…といった具合に、曲輪を同心円状に配置する縄張を輪郭式とか環郭式という。駿府城の場合は、方形の曲輪が「回」字状になるタイプの輪郭式(環郭式)だ。

二ノ丸南面の石垣。画面右手・中央・左手でそれぞれ積み方が異なっており、積み直しが繰り返されたことがわかる
こう理屈だけを説明しても、何がどうすごいのかピンとこないと思うので、以下、模式的に切りのいい数字を使って説明しよう。できれば、お手元に紙と鉛筆を用意して、自分で略図を描いてみると、より納得できると思う。
平城の本丸を、仮に一辺が100メートルの正方形に築くとする。面積は10,000平方メートルになる。本丸の全周に幅20メートルの濠をめぐらすと、濠端では140メートル四方になりますよね。その外側に一辺200メートルの二ノ丸を築くと、面積は40,000平方メートルとなる。

二ノ丸に木造復元された東御門と巽(たつみ)櫓。左手背後に見える建物は静岡市歴史博物館だ
といっても、中心は本丸とその濠が140×140=19,600平方メートルを占めているから、二ノ丸自体の面積は20,400平方メートル。数字上の面積では本丸の約2倍にはなるものの、実際の形としては幅30メートルの細長い曲輪にしかならない。これでは、曲輪としての使い勝手はよくない。よくないけれども、全周は容赦なく400メートルに増えている。二ノ丸は面積では本丸の2倍しかなく、しかも曲輪として使い勝手が悪いにもかかわらず、守備しなければならないラインの長さは4倍になってしまうのだ。
さらに、本丸と同様、幅20メートルの濠をめぐらして、その外側に一辺300メートルの三ノ丸を築くと、面積は90,000平方メートル、全周は1,200メートルにも達するが、三ノ丸も幅は30メートルしかとれない…。

近代に入って埋められた本丸濠の一部が発掘調査ののち整備されている。このあたりを歩くと二ノ丸の狭長さが実感できる
もう、おわかりだろう。輪郭式の平城というのは、一見すると全周をまんべんなく防禦できて隙がなさそうではあるけれど、それは素人考えにすぎない。地形にアクセントのない平地でまんべんなく防禦するということは、同じサイズの堀と石垣をまんべんなくめぐらせて、守備兵もまんべんなく配置しなければならないということだ。使い勝手の悪い曲輪を造成するために膨大な土木量を必要とし、守備にも多大な兵力を要する輪郭式平城とは、実際にはものすごく効率の悪い縄張なのである。

三ノ丸西面は石垣・堀ともよく残っている
戦国時代の館城ならともかく、高石垣と幅の広い水堀を要する近世城郭で輪郭式平地を実現しようと思ったら、潤沢な資金と動員力が不可欠だ。近世城郭でそんなことをやってのけている城といったら、駿府城の他は山形城、福井城、広島城あたり。いずれも大大名の居城か天下普請の城である。では、駿府城とは何者なのであろうか。

三ノ丸西面に残る櫓台。かなり大きな櫓台である
この城の始原は今川時代の守護所にさかのぼるが、明確に「城」という形を築いたのは、武田氏の滅亡後に駿河を併呑した徳川家康だ。けれども、家康はほどなく関東に移封となって(天正18年/1590)、駿府には豊臣大名の中村一氏が入る。石垣や天守を擁する本格的な近世城郭としての駿府城が築かれたのは、この時だった。その中村氏も関ヶ原ののち米子に移って、駿河は再び家康の領するところとなる。

静岡駅前に建つ竹千代と今川義元の像。歴史好きが静岡駅で待ち合わせるならココ
さて、征夷大将軍を秀忠に譲った家康は駿府を隠居城と定め、慶長12年(1607)から本格的な築城に取りかかった。将軍の座を降りたとはいえ、実際には全国の大名に号令する立場の「大御所」による築城だから、天下普請となる。中村時代の駿府城は地中に埋められ、新たに壮大な平城が現出することとなった。

木造復元された坤櫓と二ノ丸西面の濠
本丸には6重7階の天守が建っていた?

駿府城
徳川幕府をひらいた家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした直後の元和2年(1616)、駿府城で死去した。この時、駿府城の本丸には6重7階の天守が建っていたとされている。さらに大天守の周囲には多聞櫓が廻らされて、それらの全体が巨大な天守台に載っていたというから、さぞかし壮観であったろう。
家康の死後しばらくして、家光の弟である忠長が50万石で駿府に入ったものの、寛永9年(1631)には改易の憂き目にあい、駿府は天領となって城には城番がおかれた。家康が建てた壮麗な天守も同12年(1635)に焼失してしまい、以後再建されることはなかった。

巨大な天守台は発掘調査で基部が姿を現し、中村期天守台も一部が確認されている
ただ、天守を失ったとはいえ、駿府城が壮大な輪郭式平城であることに変わりはない。本稿前編ではわかりやすい例えとして、本丸を100メートル四方とした場合の話を書いたが、駿府城の本丸は約200メートル四方、三ノ丸に至っては800メートル四方もあるのだ。
これは築くだけで大変だったと思うが、さらに問題になるのは防禦をどうするかである。輪郭式平城で800メートル四方もの広大な城域を囲い込めば、各曲輪の防禦ラインはいやが上にも長大となる。しかも、曲輪はすべて四角いから、長大な上に単調なラインとならざるをえない。いくら壮麗な天守を建て、広大な城域を誇ったところで、防禦態勢がヘナチョコでは大御所も焼きが回ったと侮られてしまう。

三ノ丸西面の長大な濠。構築にも守備にも多大なマンパワーを要する
では、長大かつ単調なラインをどう守るか。駿府城の場合は、長大な石垣ラインに等間隔でカチカチと折を加えて射線の四角をなくし、要所要所に巨大な櫓をドン、ドンと設けて強化火点とした。さらに虎口を徹底的に枡形化して侵入阻止を図るとともに、枡形虎口そのものにも強化火点としての機能を担わせる。なるほど理にかなった解決策ではあるが、いかにもお大尽な築城法だ。さすが、大御所様なのである。

本丸に建つ大御所様の銅像。家康ファンには聖地だ
そんな名城中の名城といってよい駿府城であったが、明治になると陸軍に接収されて歩兵第34聯隊が置かれる。このため、本丸はつぶされて二ノ丸と地続きになってしまい、三ノ丸には県庁などが建ち並ぶこととなった。戦後は本丸・二ノ丸部分が公園となって、三ノ丸は県庁や公共施設、学校、病院などとなっている。
石垣もずいぶん取り外されたり、近代的なやり方で積み直されたりしたが、それでも二ノ丸の濠は全周が旧状をとどめているし、三ノ丸もほぼ全周のラインを何らかの形でたどることができる(濠も半周分くらいは旧状をとどめる)。

二ノ丸南面の石垣。積み直しが繰り返されているが、それはそれでパッチワークのような美しさがある
さらに1989〜96年には、二ノ丸の巽(たつみ)櫓と隣接する東御門、坤(ひつじさる)櫓が資料に基づいて木造復元された。巽櫓と坤櫓はともに2重なれど、堂々たる巨躯が四囲を圧する隅櫓だ。

資料に基づき木造で復元された二ノ丸坤櫓。2重櫓としては巨大で俺様感がある
東御門は正面がやや濠の中に張り出すタイプの枡形で、三方を渡櫓が囲む。すぐ隣に巽櫓があるので、防禦システムとしては金沢城の石川門に似ているが、こちらの方が圧倒的にスケールが大きい。復元された渡櫓は内部を見学できるので、守備する城兵の目線で枡形を見ることができて、うれしい。

木造復元された二ノ丸東御門。枡形自体が堡塁として機能することがわかる
何より、壮大な3重の連郭式平城が、大きな都市のど真ん中にドーンと鎮座していて、静岡駅から歩いて10分ちょっとというのがうれしい。明治の陸軍が本丸をつぶしてしまったのは惜しいといえば惜しいけれども、ここの歩兵第34聯隊は日露戦争にあっては遼陽の戦いで主力となり、第1大隊長だった橘周太少佐(戦死により中佐に特進)の奮戦ぶりは語りぐさとなった。こうした出来事だって、駿府城に刻まれた歴史なのである。

二ノ丸に建つ歩兵第34聯隊の碑。手前の碑には唱歌「橘中佐」の歌詞「遼陽城頭夜はたけて…」が刻まれている
長大な二ノ丸・三ノ丸の濠端を歩く。お昼どきともなると、県庁や市役所、近くの会社の人たちが濠端をランニングしていて、エスパルスのユニを着て走っている人も多い。なるほど、静岡ってサッカー王国なんだなあ。
そんな平和な情景もまた、静岡という土地に刻まれる歴史の一つではないか。

三ノ丸に残る大手門の枡形。県庁(背後のビル)へは今も大手門枡形から入る
[参考図書]枡形虎口や横矢掛りといった縄張のセオリーに興味のある方、拙著『パーツから考える戦国城郭論』(ワン・パブリッシング)をご一読下さい。城を「ウェポンシステム」として解き明かす一冊です。

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