日本特有の「書物愛玩」50年や60年では“電子”に取って代わらないと確信するワケ

電子本が「書物としての本」に取って代わることはないと、林望さんが確信する理由とは? 伝統と他国との比較から見る“書物”の原点――。『書物を楽しむ あえて今、紙の本を読む理由』(朝日新書)より一部を抜粋してお届けする。
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■大きな字を読む伝統
紙の書物にはそれ自体の美しさがあります。
西欧の諸国に比べて、日本の書物は美しく凝った装訂のものが多い。しかし欧米圏の書店で並んでいる新刊書はペーパーバックが主です。そうして、開きにくいザラ紙のようなページを開くと、そこにはアルファベットがシラミのように小さい字でぎっしりと印刷されている。「こんなのをよく読むなあ、西洋人は」と、私はいつも思うのです。
我が日本について言えば、昔の岩波文庫なぞはずいぶんと字が小さかったけれど、今はどんどん字が大きくなっている。それはかならずしも今の人の目が悪くなったからというだけではなくて、私に言わせると本の作り方が先祖返りをしているのです。
というのも、日本は昔から大きな字で本を読む国でしたから。
江戸時代までさかのぼると、小さい字で書かれた本はごくごく少ない。みんな、ひと文字がだいたい1センチ角くらいの大きさで印刷されていました。だから、1ページあたりに収まる情報量がすごく少ないのです。けれどもそれを、じっくりと字の形なんかを味わいながら、読んでいく、それも多くは朗々と朗読する伝統がありました。
この伝統の、もう一つの根幹に、美しい字形で書くことを愛するということがあります。
和文ならば、連綿と流れていく草仮名の世界。漢詩文なら、筆写体、宋朝体、明朝体などの美しくデザインされた漢字の味わい、それを目にすることも、また読書の楽しみの一つであったかと思います。
ごくおおまかに見れば、室町時代以前の印刷は、多く木版で、その内容は仏教の経典や教義書でした。それらは図版1のように大きな字でゆったりと印刷されています。また漢詩文の本なども、図版2のように、堂々とした大きな字で印刷されています。あるいは仮名文であればほとんどは流麗な草仮名の筆記体で印刷されたものですが、それも一字が一センチ角ほどもあるのが通常です。今の本のように小さな字は技術的に木版印刷には適さないし、また昔の読書は、きちんと座って書見台に本をのせて読むというのが本格ですから、本と目の距離も今とは比べ物にならないくらい、遠く離して読むのが当然でした。いきおい、小さな字では読みにくいので敬遠されます。
そんなこともあって、昔の日本人の読書というのは、大きな字を、姿勢正しく、遠くから見て、音読する、というのが標準であったのです。これ、考えてみると近眼にもなりにくく、姿勢も正しく保たれるし、ほんらい読書はそういうスタイルですべきものだなあと思ったりもします。

■文字の美しさを愛(め)でる
いっぽうまた、昔の人が『古今集』『源氏物語』などいろいろな文学作品を美しく筆写したものの、その1ページを切り取って、表装して掛け軸とする、というようなことも多くあります。
つまり書物の「字の美しさ」そのものが芸術であり、鑑賞に堪える素材として尊ばれたということです。そんなこともまた、書物愛玩の一つの形でした。
それに対して、そもそも中国には、書物に関していえば、写本というものの価値を認める伝統がありません。書物は印刷されたときに初めて存在価値を持つ、そう考えるのが中国の伝統だったのです。
いっぽうで、王羲之(おうぎし)とか顔真卿(がんしんけい)などの名筆家の筆文字を彫った石碑などを拓本に作って、それを掛軸や額にして鑑賞玩味するという伝統はもちろんありましたが、こと書物ということになると、印刷されていない写本というものは不完全な未完のものという考え方があって、あまり価値を認めない、それが中国の伝統の一つでした。
つまり、写本から校訂を重ねて定本をつくり、それを正確に印刷して初めて書物は価値を持つ、そう考えるのが中国の文化でありました。つまり写本というものは、絵画でいうところの「下描き」であって、「タブロー」ではないのです。完成した作品として世に出すときは、必ず版木で刷った刊本として出てきます。
古書の世界でも、中国では写本は一般に安くて価値的に下に見られ、高いのはきちんとした刊本です。日本は反対で、写本が高い。なぜかというと、写本として麗しく書かれた筆跡それ自体が、一つの美術的鑑賞の対象になっているからです。とくに中世以前の写本ともなると、非常に高い価値を与えられている、それが日本の伝統です。この「手書きの筆跡」を美的に尊重する伝統のしからしむるところに、短冊だとか色紙に和歌を書く技が発達し、また物語や歌集などの1ページを切り取って美しく装幀(そうとう)して床の間に飾るというような趣向が重んじられるのでもありました。
このことは、取りも直さず、一つ一つの文字を、美術的な意味でも、目で味わいながら読んでいく伝統があるからです。
日本という国はとても特殊な国で、アメリカのようになんでも電子化しようとどんなにがんばっても、日本人は「笛吹けど踊らず」で、踊っているのは漫画を読む人ばかり、それが我が国の伝統なのです。
だから、電子本が「書物としての本」に取って代わることはないと、私は確信しています。千年以上もある長い文化的伝統の中で培われてきた「書物の力」は、50年や60年でそうそう変わらないにちがいない、それは私の確信に近い。
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