「そごうが出店辞退」「ヨーカドーもあえなく撤退」…苦節24年、330億円かけた施設が失敗した「茨城の商業都市」の哀しい顛末

かつて百貨店は「特別な場所」だった。家族と過ごす休日、背伸びをして選ぶ贈答品。屋上やレストラン街には、地域の憧れと活気が凝縮されていた。しかし今、多くの街からその姿が消えつつある――。本連載では、百貨店が消滅した街を歩きながら、「なぜ消えたのか?」を街ごとに分析していく。第4回は茨城県土浦市。1980年代、土浦駅前には百貨店と大型店が集積し、茨城県南の商業中心地として機能していた。しかしその一方で、商圏の縮小もすでに始まっていた。

前編では、駅前商業発展のピークである1987年時点で、すでに土浦商圏の縮小が進行していたことを見た。それでも土浦市は、モール505、土浦ニューウェイ、商業施設「URALA」といった駅前再開発を進めていく。

【画像35枚】なぜこれで駅前再生できると思った…人がほとんどいない廃墟モールまで生まれた「茨城の商業都市」の現状

にもかかわらず、なぜ土浦駅前は発展を維持できなくなったのか。後編では、駅前再開発と郊外化が同時進行した1990年代以降の変化を追う。

車社会の進展で、買い物客は郊外へ移った

かつて水運の街として発展した土浦は、自動車の普及に合わせて都市構造を変えていった。1934年には桜川を埋め立てて亀城通りを整備し、1967年には川口川を埋め立てて市営駐車場を整備。半世紀をかけて、駅前を「車で来店する商業地区」へ再構築していった。

実際、土浦市内の自家用車買物率は、1980年の46.3%から1985年には64.9%まで上昇している。わずか5年間で18.6ポイント上昇し、買い物客の移動手段は急速に自動車中心へ移っていた。

しかし1980年代以降、車の向かう先は駅前ではなく、郊外型ショッピングセンターへ変わっていく。

1981年には、駅から離れた荒川沖に「荒川沖ショッピングセンター」(売場面積9755平方メートル)が開業。1982年には真鍋新町に「土浦ピアタウン」(9358平方メートル)も開業した。どちらも、1987年開業のモール505(3784平方メートル)を上回る規模だった。

車で来店する買い物客にとって、駅前の限られた駐車場よりも、広い駐車場を備えた郊外型施設のほうが利用しやすい。

その流れを決定づけたのが、2009年開業のイオンモール土浦である。店舗面積は7万9682平方メートルで、モール505の約21倍。土浦駅から車で約10分の郊外に立地し、市内最大級の商業施設となった。

車社会の進展で、買い物客は郊外へ移った, URALAは商業施設から公共機能を担う建物へ変わった, 土浦はそれでも「つくばを取り込む駅」を目指していた, 「中核都市・土浦」という前提が変わった

桜橋跡。現在は道路だが、交差点の下には橋が埋まっている(写真:筆者撮影)

URALAは商業施設から公共機能を担う建物へ変わった

そうした郊外化が進行する中でも、土浦は駅前再開発を続けていた。その代表が、駅前再開発事業「URALA」である。1973年に構想が始まり、1997年に完成するまで24年がかかった、土浦市政の中でも長期にわたる事業だ。総事業費は約330億円に上る。

完成までの24年間で、URALAの中核に入る予定だった事業者は、少なくとも3回入れ替わっている。

車社会の進展で、買い物客は郊外へ移った, URALAは商業施設から公共機能を担う建物へ変わった, 土浦はそれでも「つくばを取り込む駅」を目指していた, 「中核都市・土浦」という前提が変わった

URALAに掲げられた看板には「土浦市役所」の文字が(写真:筆者撮影)

最初に予定されていたのは、百貨店の「そごう」だった。1985年のつくば科学万博と同時期に開業する計画だったが、各種の調整に時間を要して間に合わないと判断され、1985年12月にそごうは出店辞退を申し出ている。

これは、土浦商工会議所が駅前を「地盤沈下」と表現する約1年3カ月前のことだった。そごう辞退後、URALAの計画は組み直される。次に入居予定となったホテルも、1993年に撤退。1994年には住宅と広場が計画に追加された。

そして1997年、ようやく完成したURALAの中核テナントは、大型スーパーのイトーヨーカドーだった。売場面積は2万600平方メートル。駅前から移転してきた形で、当初の「百貨店中心」とは異なる構成になった。

しかし、そのイトーヨーカドーも2013年に撤退。空いた区画には、2015年から土浦市役所が移転した。

百貨店を核にした再開発として始まったURALAは、計画期間中に「ホテル」「住宅」「大型スーパー」へと中核機能を変え、完成から16年後には市役所を抱える建物になった。

これは土浦だけに限られた現象ではない。近年の地方都市では、百貨店や大型商業施設の跡地に、市役所、図書館、パスポートセンターなどの公共機能を入れる事例が増えている。栃木市役所や富山市役所はその例だ。商業だけでは維持が難しくなった中心市街地に、行政機能や生活機能を集め、来街目的を作るためである。

URALAもその流れに位置づけられる。土浦駅前は、買い物客を集める商業拠点から、市役所や医療、学習、居住機能を含む生活拠点へ役割を変えていった。

車社会の進展で、買い物客は郊外へ移った, URALAは商業施設から公共機能を担う建物へ変わった, 土浦はそれでも「つくばを取り込む駅」を目指していた, 「中核都市・土浦」という前提が変わった

駅直結の「URALA」。市役所のほかにスーパーやダイソーも入居している(写真:筆者撮影)

車社会の進展で、買い物客は郊外へ移った, URALAは商業施設から公共機能を担う建物へ変わった, 土浦はそれでも「つくばを取り込む駅」を目指していた, 「中核都市・土浦」という前提が変わった

駅前に公的機能があると、帰宅動線の中で買い物や行政手続きを済ませられて便利だ(写真:筆者撮影)

土浦はそれでも「つくばを取り込む駅」を目指していた

一方で、土浦は駅前の役割を行政・生活機能へ変えながらも、「県南の中核都市」としての位置づけを簡単には手放していなかった。

URALAの計画変更が続いていた1996年、土浦市は「土浦市総合計画第5次基本構想後期基本計画」を策定する。この計画書には、土浦の将来戦略として、次のような記述がある。

「常磐線土浦駅と筑波研究学園都市間の新交通システムについて、関係機関との協力のもとに早期導入を促進する」

新交通システムとは、従来型の鉄道とは異なる中量輸送機関を指す。AGTやモノレール、リニアモーターカーなどが含まれ、東京の「ゆりかもめ」や横浜の「シーサイドライン」が代表例である。

土浦市は、土浦駅とつくば市の研究学園都市を結ぶ新交通システムを整備し、つくばや周辺住民を土浦駅前へ呼び込もうとしていた。1996年の段階でも、土浦は「つくばと物理的につながれば、駅前商業は維持できる」と考えていたのである。

だが、この構想は実現しなかった。2005年に開通したのは、土浦を経由しない別の鉄道だった。つくばエクスプレス(TX)は、つくば駅から秋葉原駅を直接結び、土浦をバイパスする形でつくばを首都圏に接続した。

こうして、つくばの住民が土浦駅を経由して東京に向かう必要はなくなった。土浦が描いた「つくばを取り込む駅」という構想は、実現しないまま前提を失ったのだ。

千葉大学大学院の小林秀樹教授は、2015年に『住宅』誌に寄せた論考で、茨城県南地域は「つくば市の一人勝ち」になったと指摘している。つくばは普通のベッドタウンではなく、「職住近接の国際科学都市」と位置づけられている。つくばは、土浦を経由しなくても独自に成立する都市になっていた。

車社会の進展で、買い物客は郊外へ移った, URALAは商業施設から公共機能を担う建物へ変わった, 土浦はそれでも「つくばを取り込む駅」を目指していた, 「中核都市・土浦」という前提が変わった

市役所内に置かれていたのぼり。TX土浦延伸への思いが強いことがわかる(写真:筆者撮影)

「中核都市・土浦」という前提が変わった

1989年から始まる百貨店閉店の連鎖は、こうした都市構造の変化の中で起きていた。

もっとも、土浦市そのものが急激に人口減少したわけではない。1980年以降、市全体の人口は大幅には減少していない。土浦で起きていたのは「消費都市の消滅」ではなく、「都市機能の移動」だった。

それでも土浦が駅前投資をやめなかったのは、商業集積で水戸を上回り、半径25キロ圏・人口30万人の商圏を持っていた「茨城県南の中核都市」という自己像を手放せなかったからかもしれない。

だがその前提は、1990年代以降の郊外化と2005年のTX開通で崩れていく。買い物客は郊外モールへ、つくばの住民はTXで東京へ向かい、土浦駅前を経由する理由は失われていった。

土浦の駅前商業が消えたのは、市が衰退したからではない。中核都市としての前提が崩れていく中で、最後までやめられなかった駅前投資が、空回りし続けた結果である。