なぜ「信号待ち」が歓迎されるのか? 事故を約7割減らす仕組みが“わずか5%”にとどまってきた根本理由
安全を最優先する時間配分の転換
青信号で横断歩道を渡っているのに、曲がってきたクルマにはねられてしまう。こうした、歩行者に落ち度がないにもかかわらず犠牲者が出る事故は、交通安全を考えるうえで解消すべき重い課題であり続けてきた。その解決策として、いま改めて存在感を増しているのが「歩車分離式信号」だ。
【画像】1分でわかる「記事まとめ」
仕組みは至って明快で、交差点を行き来する車両と歩行者の時間を物理的に切りわける。具体的には、すべてのクルマを止めて歩行者が自由に渡れる「スクランブル方式」や、歩行者の横断中に同じ方向へ進む車両の右左折を認めない「右左折車両分離方式」などがある。
交差点の広さや交通の流れに合わせて、いくつかの制御方法が使いわけられている形だ。これは限られた交差点という場所で、限られた時間を誰が使うべきかを交通インフラ側で振りわける試みといえる。
日本の信号機は全国に約21万基あるが、歩車分離式が占める割合は2025年3月末の時点で1万416基。全体で見れば、わずか
「5%程度」
にすぎない。これまでの道路運用は、いかにクルマを滞らせず、移動の効率を高めるかに力点が置かれていた。車両と歩行者が同じタイミングで交差点に進入する形が当たり前だったのは、ある種、接触のリスクをのみ込んだうえでの効率優先の結果だったのかもしれない。
安全を守るという本来の目的に立ち返り、これまでの慣例をどう変えようとしているのか。その背景に迫ってみたい。
人対車両事故7割減の圧倒的成果

歩車分離信号のメリットとは(画像:小平市)
歩車分離式信号の整備が本格的な動きとなったのは、2002(平成14)年1月から半年間行われた全国モデル運用の結果がきっかけだった。警察庁が全国100か所の交差点を抽出して運用したところ、交通人身事故の発生件数は約4割減り、なかでも「人対車両」の事故は約7割も減少するという劇的な効果が確認されている。
交通安全の分野において、これほど鮮やかな改善率は珍しい。この確かなデータを受け、警察庁は2002(平成14)年9月に「歩車分離式信号に関する指針」をまとめ、各都道府県警察へ通知した。事故で失われるのは、命だけではない。
・医療費
・労働力
の喪失といった形で見えにくい社会的費用が発生し、地域経済に重い影を落とす。事故件数を抑え込むことは、インフラ側でリスクを管理し、社会全体の損失を食い止める投資としての側面も持っている。
これまで事故の多い地点や通学路を中心に導入が進んできたが、2025年1月31日、この指針が大幅に改められた。導入に向けたハードルを下げ、整備を後押しする内容となっている。具体的には、過去5年間で防止可能な事故が2件以上起きた場合や、死亡事故に至ったケースを検討条件として明記したほか、通学路での要件も緩められた。行政側が事故のリスクをこれまで以上に重く見て、安全を守るための判断基準を一段引き上げた格好だ。
地域住民の反応も追い風になっている。警察署協議会などを通じた調査では、
「7割以上」
の人が導入に賛成と答えた。信号待ちが長くなる不便さはあっても、事故を未然に防げるメリットの方が大きい。そう考える人々が多数派だということだろう。歩行者を車両との交錯から切り離すこの取り組みは、いまや社会が求める切実な要請として、その正当性を強めている。
渋滞悪化の先入観と円滑化の実態

歩車分離信号によって通行に時間がかかるというイメージを持ちがちである(画像:八千代市)
歩車分離式信号の導入が思うように進まない背景には、
「渋滞が悪化する」
という根強い先入観がある。車両が通行できる青信号の時間が削られる以上、待ち時間の増加は避けられない。実際、警察庁の「平成15年版 警察白書」でも、一部の交差点でクルマの滞留が増える可能性が指摘されている。
もっとも、渋滞への影響が一律にマイナスに働くかといえば、必ずしもそうとはいい切れない。最新の指針が触れているように、歩行者が多い交差点では、右左折車両が横断する人波に遮られ、かえって処理能力が落ちている場合があるからだ。こうした場所では、歩車分離を行うことで全体の流れがスムーズになる余地が残されている。
歩行者と車両の時間を完全に切りわければ、ドライバーは不意の飛び出しなどを気にせず進行できる。従来の方式では、歩行者を避けながら進む車両が後続を妨げていたが、この不安定な要素を取り除けば、交通の流れはむしろ安定する。通過の予測が立てやすくなることは、インフラを運用する側にとっても効率の向上につながるはずだ。
もちろん、手放しで楽観できるわけでもない。2013(平成25)年の東京大学大学院による池袋駅周辺でのシミュレーションでは、自動車1台あたり
「4~10秒」
の待ち時間増加が推計されている。また、待ち時間が長すぎれば歩行者やドライバーの信号無視を招く恐れもあり、福岡県警察もこの点を課題に挙げている。渋滞の度合いは交通量や交差点の形に左右される。結局のところ、現場の状況に合わせた丁寧な見極めが求められているのだろう。
社会的損失を防ぐ交通弱者への投資

歩車分離信号は長期的なメリットがあるのか(画像:福岡県警察)
警察当局が待ち時間の増加という不利益をのみ込んでまで整備を進めるのは、目先の効率よりも、長期的な社会利益を重く見ているからだ。とりわけ焦点となっているのは、高齢者や子どもといった交通弱者の命をいかに守るかという点にある。
2024年のデータを見ると、交通事故で亡くなった65歳以上の高齢者は1513人にのぼり、全体の
「56.8%」
を占めている。しかも歩行中の死者のうち、道路を渡っている最中の事故が約7割という事実は、横断歩道の危うさを物語っている。車両と歩行者の時間を切り離すことは、事故を防ぐうえで極めて有効な手立てだ。これは個人の悲劇を減らすだけでなく、医療費や救急搬送、行政対応に費やされる膨大な公費の抑制にもつながる。
もっとも、すべての交差点に一律に導入すればいいというわけではない。東京大学大学院が池袋周辺の15か所を対象に行った試算では、全地点への導入は費用が便益を上回るという結果が出ている。これは交通量が極端に多く、待ち時間の影響が無視できない都市部特有の事情といえる。同研究でも、事故が多発する場所に絞った重点的な整備を提言しており、現在の「事故多発地点や通学路を優先して整備を進める」という国の方針とも平仄が合っている。
さらに一歩先を見据えれば、自動運転技術の普及も無視できない要素だ。自動運転システムにとって、クルマと歩行者が複雑に交差する場所の判断は負荷が高く、制御が難しくなる。あらかじめ行動する時間をわけておけば、機械にとっても周囲の状況を読み取りやすくなるだろう。
これは、将来の移動システムを社会へ受け入れるための地盤を固める作業とも受け取れる。移動の効率を削ってでも命を優先する姿勢は、これからの社会インフラが目指すべきひとつの姿を示しているのかもしれない。
自動運転社会を支える新標準の構築

自動運転イメージ(画像:写真AC)
警察庁が自動運転の早期実用化を後押しするなか、歩行者と車両の動きを時間で切りわける交差点は、システムが周囲の状況を読み取りやすい環境を生み出す。
これは将来の交通網を支える土台として大きな意味を持つ。実際、死亡事故が起きた場所での導入検討を義務づけたり、通学路での条件を緩めたりといった指針の変更が、整備を加速させる追い風となっている。
一連の動きは、移動の効率を多少削ってでも命を守るという、行政の明確な意思表示にほかならない。事故による経済的な損失を抑えながら、誰もが安心して通行できる場を作ることは、長い目で見れば社会全体の利益を膨らませるはずだ。
歩車分離式信号の広がりは、足元の安全を高めるだけでなく、新しい移動手段をスムーズに迎え入れる地実作りとしての側面も併せ持つ。安全な環境を作るためにかかるコストを、未来をより良くするための投資と捉える。そんな視点の転換が、いま求められている。