「サ店も雀荘もパチ屋も飲み屋もない」と嘆きの声…開学からわずか21年で消滅「青学・厚木キャンパス」はなぜ作られたのか

少子化が進んだことで、大学キャンパスを移転・再編し、学部・学科の新設・再編を絡める動きが相次いでいる。そんななか、気になるのは「キャンパスがなくなった街」だ。
連載「街とキャンパス」。初回は青山学院大学の厚木キャンパス(1982年4月~2003年3月)を取り上げる。おしゃれイメージの強い青学が、なぜ遠方の厚木にキャンパスを構えていたのか。

「こんな殺風景な場所に青学があったのか」

【画像9枚】マジでこんな所に青学があったのか…人通り皆無で閑散「青学・厚木キャンパス」跡地の様子

ここは神奈川県厚木市森の里青山1番1号。日産自動車の研究所「NATC(日産先進技術開発センター)」がある場所だ。周囲も企業の研究所や学校が中心の研究都市で、訪れた日が土曜日だったのもあるのか、車も人通りもほとんどなかった。

切り開かれたばかりのニュータウンにポツネンと佇んでいた青学

1982年4月に開学してから2003年3月に撤退するまでの21年間、ここには青山学院大学の厚木キャンパスがあった。教養課程を学ぶ全学部の1、2年生(理工学部は1年生のみ)、約6000人が通ったキャンパスだ。

森の里は、厚木市西部の丘陵部を切り開いて開発されたニュータウンである。開発前はほとんど建物はなく、大部分が森林でその合間に水田が広がっていた。

その森の里に最初に建ったのが、青学の厚木キャンパスだった。開学時の写真は圧巻だ。丹沢の山々を背景に、ただ唯一、青学がある。他には何もない。

開学して2年後、雑誌『平凡パンチ』(1984年 1/16号)のキャンパス紹介記事では「サ店がない雀荘がない、パチンコ屋も飲み屋もない……。(中略)あ、そうだ、本屋もなかったぞ」と、厚木キャンパス周辺に何もないことに驚いている。

「青学よ、おまえはなぜ、厚木くんだりの、寂しい枯木立の中にひとりポツネンと建っているのだ。おまえの売り物であったポップでライトな雰囲気はどこに行ってしまったのだ」というくだりは、当時、世間が厚木キャンパスに抱いた感想を端的に表しているのではないかと思う。

切り開かれたばかりのニュータウンにポツネンと佇んでいた青学, 渋滞、混雑……、困難を極めたバス通学, 何年にもわたって粘り強く交渉を重ねたバスの増発, 実現しなかった厚木モノレール構想, 郊外に“追い出された”キャンパス

1985年3月より、青学の厚木キャンパスの住所表記が「森の里青山」になる。青学が撤退した後も住所表記は変わらない(写真:筆者撮影)

この周囲に“何もない”が故の問題が、開学後すぐから噴出する。主に食堂と交通の問題だ。

4月10日の入学式は青山キャンパスで行われたので問題なく終えられたが、「(前略)十二日の履修指導日から混乱が発生した。学生食堂は一〇〇〇席あったが、近くに飲食店がないことで学生が集中したこと、部活動の勧誘のために上級生が厚木に来訪したこと、券売機の故障などが重なり、食事を摂れない学生が生じた。講義は十五日から始まったが、その日の夕方は大雨に加え、バスの運行状況も悪かった。長蛇の列を作りながら雨に打たれた学生が大勢いた」(『青山学院一五〇年史 通史編Ⅱ』)と散々だ。

食堂に関しては、翌5月には急遽、座席数を300増やし、翌年3月頃までには3300席まで増築している。しかし、当初より3倍以上に増やしたものの、食堂の席不足問題は慢性的にあったという。周囲に何もないため、学生は授業の合間などは食堂にいるしかなかったのだ。その結果、席を確保しようとサークルや部活単位の席取りが横行していたという。

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以前は青学がセミナーハウスとして使っていた建物。もともとは「青山学院厚木セミナーハウス」だったプレートの一部を「NATC」に変えてあるらしい(写真:筆者撮影)

渋滞、混雑……、困難を極めたバス通学

交通の問題はさらに深刻だった。厚木キャンパスは、小田急の本厚木駅から神奈川中央交通のバスで25分ほどかかる。しかし、交通渋滞に巻き込まれると40〜50分、ひどい時は1時間かかることもあったという。開学当初はバスの本数も十分ではなかったようで、通学の不便さはひとしおだったようだ。

1982年11月18日の『読売新聞』によると「(前略)厚木周辺の下宿、間借り組が十三%で、あとは東京、横浜方面からの通学組」で、片道2時間以上かけて通学してくる学生も多かった。1限の授業に間に合わせるために友達の下宿先に前泊していたといった声もある。

何年にもわたって粘り強く交渉を重ねたバスの増発

開学前から、青学は何度も神奈中に足を運び、バスの増発を再三にわたってお願いしている。ただ、1年目は森の里には青学しかなく、宅地販売も数年先に予定されていたせいか、大幅な増便には対応してもらえなかったようだ。

しかし、何年にもわたって粘り強く交渉を重ね、「バス輸送については、正門内にバス発着所を新設し、二年目以降にバスの増発を図るなどの対策を早急に行った。さらに一九八七年一〇月から愛甲石田駅北口広場開設に伴い、同駅からのバスが運行できるようにするなど、さまざまな対策を順次打ち出していった」(『青山学院大学五十年史』)。

厚木キャンパスに通った青学生にとって「愛甲ダッシュ」は懐かしい言葉だ。愛甲石田駅からのバスは所要時間が15分ほどで渋滞も少なく、本厚木駅からのバスと比べて早く着くと、利用する学生が多かった。しかし、本数が少なかったため、愛甲石田駅で電車を降りた学生が、バス停までダッシュして我先に乗車しようとする状況が生まれた。これが「愛甲ダッシュ」だ。

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愛甲石田駅(左下の星マーク)のほうが本厚木駅(右上の星マーク)からよりも、バスで渋滞に巻き込まれることが少なかった。いずれにせよ、最寄り駅からかなり距離があることがわかる(画像:編集部作成)

駅からタクシーに相乗りして通学する学生も相当数いたという。厚木担当副学長を務めていた貫達人氏によると「これはバス輸送に関心をもっている大学としては大いに助かりました。(中略)五千数百人分はバスを用意しなければならぬと考えていたのですが、実際には四千人を上下する程度になったことは、タクシー利用者には気の毒ながら、バスの配車には余裕ができたことになります」(『青山学報』203号 2003年3月「厚木開学の頃」)とある。

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現在の愛甲石田駅北口バス乗り場。「愛甲ダッシュ」で一般の利用者に迷惑をかけないように、当時は乗車整列をさせるスタッフが配置されていたという(写真:筆者撮影)

実現しなかった厚木モノレール構想

しかし、そもそも開学前から交通アクセスに問題があることはわかっていたのでは? 森の里は本厚木駅から直線距離で5キロも離れた場所にあり、駅から徒歩で通える範囲ではない。

実は当時、厚木市にはモノレール構想があったのだ。森の里への青学誘致にあたって、モノレール構想がセールスポイントの一つであったことは容易に想像できる。実際、青学が森の里の土地を購入した翌年の1981年から、厚木市は日本モノレール協会に調査を委託している。青学としては、数年のうちにモノレールができると期待していたのだろう。

しかし、モノレールは実現しなかった。

1988年の「'88都市モノレールセミナー」の講演において、当時の厚木市都市政策室長が、1984年にモノレールは乗車需要、採算面において困難という結論が出たと話している。その代わりとして、予算が安く工期も短いガイドウェイバスを検討しているが、導入する街路の狭さがネックになっていると歯切れが悪い(『モノレール』NO.66 1989年3月「衛星都市の交通問題ー厚木市の交通問題の現状と将来構想ー」)。

1991年に当時の青学の副学長だった日向寺純雄氏は、「開学当初モノレール構想がありましたが、現時点では県レベルでも市レベルでも、私の知るかぎり、具体的な進展はないようです」と記している(『青山学報』154号 1991年7月「厚木キャンパス十年ーさらなる発展のためにー」)。モノレール計画の実現のために、強力な推進運動が必要と日向寺氏は続けているが、正直、その段階では諦めムードが強かったのではないか。

1970年代後半から1980年代前半にかけて、新しい交通手段としてさまざまな地域でモノレールが検討されていた。しかし、その多くは予算などの問題で頓挫した。厚木市のモノレールもその一つだったのだ。

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森の里唯一のスーパー。開学2年目からは、当初、禁止されていた車通学も条件付きで許可されたが、許可のない学生が近隣施設の駐車場を使うなど問題が発生し、条件は年々緩和されていった(写真:筆者撮影)

郊外に“追い出された”キャンパス

そもそもなぜ、青学は厚木という郊外にキャンパスを作ったのか?

1960年から1989年に死去するまでの約30年間、青山学院の中で「院長・学長、あるいは院長・理事長として大きな影響力」(『青山学院大学五十年史』)を持った大木金次郎氏は、「(前略)キャンパスが郊外に出ていくのは、出ていくのではなく、追い出されていくのだと言っても良いと思う」(『東京人』1988年3月「青山学院厚木キャンパス事始」)と述べている。

その背景にあるのは1959年に制定された「工場等制限法」だ。工場等とあるが、大学も規制の対象になっていて、首都圏の都心部では床面積1500m²以上の工場や大学の新設・増設が禁止された。

高度経済成長期には都市部の人口が急速に増え、交通混雑や住宅不足などの問題が起こっていた。つまり、国は工場や学校を「人口集中を招く施設」とみなし、新設を制限したのだ。大木氏は「工場と学校を一緒に規制の対象にするほど日本の政治家は未だ程度が低いのである」(『東京人』1988年3月「青山学院厚木キャンパス事始」)と怒りをあらわにしている。

大木氏が「追い出されていく」と表現するのも気持ちはわかる。というのも、1960年代に拡大路線をとった青学は、1970年代に入ってから、学生一人当たり10m²という大学設置基準に、校地面積が満たない状況が続いていて、ことあるごとに文部省から指導を受けているのだ。

1973年1月の一部学部の定員変更の申請時は「校地が不足しているので拡張すること」という条件がつけられ、同11月の大学院の専攻設置申請の際にも「校地が不足しているので購入計画を具体化するよう指示があった」という。しかし、工場等制限法で都市部にはキャンパスが作れない。郊外に校地を求めるしかなかったのだ。

続く後編では、大木氏の鶴の一声で始まった青学・厚木キャンパスの校地探しの様子や、にもかかわらずわずか10年で青学の課題となった経緯などをお伝えしている。