49歳で第1子、資格試験10年→7歳差妻と結婚の経緯

今回取材に協力してくれた剱持さん(61歳)。「今はとても幸せ」と話す(撮影:梅谷秀司)
“学歴至上主義”の父のもとで育った

息子さんと楽しい休日を過ごす剱持さん(写真:剱持さん提供)
剱持雅宣さん(61歳)は現在、自身の運営する結婚相談所で婚活カウンセラーとして活動している。
【写真あり】49歳でパパになった剱持さん。小学生の息子さんとの休日のようす
今から13年前に7歳下の妻と結婚し、その1年後に第1子となる長男をもうけた。「今はとても幸せ」と話す剱持さんだが、「父は今でいう『毒親』でした。父の教育のせいで僕の人生はおかしくなってしまった」。
まずは剱持さんの「アラフィフでパパになるまで」の人生を振り返る。
父は早稲田大学卒業後、独学で身につけた英語力を活かし、40代でクーパース&ライブランド(現PwC)に総務部長として転職。晩年は経営コンサルタントとして大成し、数年前に亡くなった。
その影響は剱持さんの人生にあまりにも強く作用し続けた。どのような子ども時代を送ったのだろうか。
剱持さんは男3兄弟の長男として生まれた。父は昭和9年生まれのいわゆる「昭和一桁の男」。支配的なところがあり、特に教育に関しては自分の意見を押し通すタイプだった。
「父は、僕たちが幼い頃から『まず国立の旧七帝大を目指すのは当たり前で、そこに行けなかった人が早稲田・慶応にいく。それが標準だ』と繰り返し言い続けていました。だから僕もそれが当たり前だと思って育ちました」
剱持さんは幼い頃からスポーツも勉強も得意で、父が思い描いた道を歩むことに何の疑いも持たなかった。しかし中学3年生の受験シーズンの頃から、突如崩れ落ちるように人生が変わっていくことになる。
突然、原因不明の血尿が出るようになったのだ。
「トマトジュースのように真っ赤な尿が出て、しばらくすると治る。そういう状態が続きました。すごく怖かった」
大きな専門の病院でも検査を繰り返し、名医にも診てもらったが結局原因ははっきりとしなかった。医師は「成長期に見られるものであり、体が成長しきれば症状も止まるはずだ」と診断。実際に24〜25歳ごろには完全に症状は出なくなった。
しかしそれまでの間、この病は少年の心に常に暗い影を落とし続けた。
高校で心が折れ「人生を投げ出した」
治療のために時間も精神も削られた結果、もともと目指していた進学校は諦め、近隣の新設校に進んだ。その学校は現在は東大合格者も輩出する名門校だが、当時は新設校のため“名門”というわけではなかった。そのため、父は息子が選んだ進路に納得できず、不満や批判の言葉を浴びせ続けた。
「だから高校2年生のとき、僕はもう人生をバーンと投げ出しちゃったんです」
父親に対する不満と、まったく改善しない体調。さらに「オスグッド・シュラッター病(10〜15歳頃の活発な発育期の男子に多く発生する、膝の脛骨が出っ張って痛むという骨軟骨炎)」を発症し、スポーツに打ち込むことさえも難しくなってしまった。
ストレスが重なる状況に耐えきれなくなった剱持さんは、一切勉強をしなくなった。
「赤点を取って喜んでいたんです」。それが、当時唯一できる小さな反抗だった。
一方で、「母はずっと僕の味方をしてくれていました」。偏った価値観を振りかざす夫と対立して喧嘩になることもあったという。しかし父は一切耳を貸すことはなかった。
高校卒業後は自宅から通いやすい成蹊大学に進学。大学生活は「とにかく授業に出なかった」。アルバイトやバンド活動に明け暮れる日々を過ごした。
「大学4年のとき、内定先に出す『卒業見込み証明書』を大学にもらいに行ったら、単位が足りず発行してもらえなかった」くらい単位はギリギリだった。
無事卒業し、新卒で富士フイルムのグループ会社に就職。ただ、剱持さんは早々に退職する道を選んだ。

会社員時代の剱持さん(写真:剱持さん提供)
理由は「会計士を目指すため」。20代後半から30代前半のおよそ10年間、専門学校に通いながら、派遣やアルバイトでいくつもの職場を転々としながら生計を立てていた。
なぜ、突然会計士を目指すことにしたのだろうか。
「これも、完全に父の影響ですね。父は世界6大会計事務所の1つで活躍したこともあり、『会計士の資格はいい』と常に聞かされていたんです。学歴の代わりに父の認める資格を取って、資格で自分を飾りたかったんだと思います。『会計士に受かればバラ色の人生が待っている』と思っていましたが、結局試験には受かりませんでした。簿記1級くらいは取りましたけどね」
この頃、女性との出会いもゼロではなかったが「会計士に受かってからじゃないと家庭は持てない」と、自分にブレーキをかけていたという。
「当時は『資格勉強が恋人だったんだ』って、今は妻に話しています」と笑って話す。
「人事部への異動」が転機に
30代も後半になり、派遣やバイトと資格勉強を両立する生活に一旦区切りをつけた。地元メーカーの経理部門に採用されたが、入社早々、人事部に異動することになった。
「もともとは会計の知識を活かしたくて経理に入ったので、それを聞いたときは『ふざけるなよ、経理をやらせてくれよ』と正直思いました。でも、そこからはずっと人事畑です。僕は数字より人と接するほうが好きで、向いていることに気づきました」
順調な会社員生活を送っていた剱持さんだったが、2008年に起きたリーマンショックの影響で剱持さんの会社も経営危機に陥った。多くの社員が会社を去り、剱持さんも不本意な異動を命じられたことで転職を決意。
「もともと英語が得意で、当時のTOEICで880点くらいは持っていたんです。会社の状況を鑑みて『思い切って英語力を活かせる仕事に変えてみよう』と転職することにしました」
しかし、この決断は後に「失敗だった」と剱持さんは語った。
「転職先は、プライベートジェット機の運航支援を行う会社でした。僕は事務職でしたが、来日した海外セレブの出迎えを手伝うこともありました。ジョニー・デップやニコラス・ケイジ、ハリソン・フォードなどのアテンドをしたこともあります。
面白い業務ではあるんですが、凄まじくブラックな労働環境だったんです。長時間労働が常態化していて、早朝から夜中まで拘束されるような日々が続きました。やはり限界になって、辞めることにしました」
婚活パーティーで妻と出会う
同じ頃、40代半ばに差し掛かり「結婚したい。家庭を持ちたい。親のためではなく、自分のためにしなくてはいけない」と思うようになった剱持さん。
さっそく結婚相談所に登録して何人かと会ったが、「ピン」とくる出会いはなかった。加えて、大手結婚相談所のシステマチックな雰囲気にも違和感があり、アットホームな仲人型の結婚相談所に入会し直した。
そんな折、母親に紹介された婚活パーティーに参加したところ、現在の妻と出会うことができた。
「妻の趣味の欄に『観賞魚』と書かれていたことが印象に残っています。僕も釣りをしますし、その話で盛り上がりました」
ようやく運命の相手に出会えたと思った矢先、東日本大震災が起きた。会う約束も一旦延期になったが交際は続き、2012年11月に結婚。自身は48歳の時だった。
後編『49歳で第一子、60歳で"結婚相談所"を開業した理由』では、第一子が生まれた時のこと、60歳で結婚相談所を開設した理由などに迫る。

(写真:剱持さん提供)