働かず、酒を飲んで「戦争の自慢話」ばかりする姿を息子は恥じた 時代に取り残されていった「ありふれた」父 #戦争の記憶

■手のひら返しの戦後, ■繰り返した戦争話, ■「戦争ボケ」と呼ばれた父の最期, ■黒井との出会い

 戦後80年を経て、ようやく注目され始めた問題がある。「戦争トラウマ」だ。戦地に赴いた日本兵をはじめ、被害を受けた住民も心に大きな傷を負った。戦後、この傷は不眠や悪夢、アルコール依存、子どもの虐待といったかたちとなって現れた。そしてトラウマは、現代にも連鎖しているという。戦争が日本に深く刻みつけたトラウマの実相に迫る。(この記事は朝日新書『ルポ 戦争トラウマ』より抜粋、一部編集したものです。敬称略、年齢は2025年4月1日現在)

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■手のひら返しの戦後

 森倉んちのおやじさん、「戦争ボケ」だからな――。兄の友人がなにげなく放った一言が、森倉三男(71)の耳に、いまもこびりついている。

 どんな話の流れでその言葉が出たのかは、もう覚えていない。「悲しいとか、怒りとか、そういう感情じゃない。『恥』の意識だったね」と森倉は言う。

 父・可盛(かもり)は、1919年に北海道・知床半島の小さな町の開拓農家に生まれた。アジア・太平洋戦争が始まる前年に21歳で徴兵された。兵役に最も適し、名誉とされた「甲種合格」で、陸軍の航空整備兵となった。「こんな田舎から航空隊に入る者はなかなかいない。優秀な青年だ」とほめそやされ、家族も鼻が高かったと聞いている。

 出征の際は町を代表して駅前であいさつをし、万歳三唱で見送られた。厳しい訓練を経て、1943年4月に南方へ向けて出港する。その時期はちょうど、国民的人気があった山本五十六・連合艦隊司令長官が戦死した頃だ。アジア・太平洋戦争における日本軍の旗色は、日増しに悪くなっていた。

 

■手のひら返しの戦後, ■繰り返した戦争話, ■「戦争ボケ」と呼ばれた父の最期, ■黒井との出会い

 後に家族が取り寄せた軍歴によると、父はラバウル、ニューギニア、パラオ、セレベス(現・スラウェシ)など、南太平洋の激戦地を転々としたようだ。敗戦は仏領インドシナで迎え、翌年の1946年5月に復員した。戦地でマラリアに苦しみ、家にたどり着いた時は歩くのもやっとの状態だった。「復員兵には冷たい社会が待っていた。まるで、手のひらを返すようだったと思います」と森倉は推察する。

 

■繰り返した戦争話

 父は戦争前に工員をしていた経験を生かして、鉄工所を始めたものの倒産。その後は定職に就けず、農家の日雇いや、冬季の出稼ぎをするしかなかった。近所の木工所で働く母の稼ぎが、何とか家族7人の生活を支えた。暮らし向きはどんどん苦しくなった。

 思うようにいかない暮らしの中で、父の表情に、別人のように生気がみなぎる瞬間があった。「おい、いまから戦争の話をする。座れ」と子どもたちを集め、酒を飲みながら兵士時代の思い出に浸る時だ。土間の薪ストーブの上に置いた鍋から、蒸気がもうもうと上がり、焼酎の瓶を持った父の上気した顔がその中に浮かんでいたのを、森倉は鮮明に覚えている。

 戦闘機の機首部分にある機関銃の弾が、プロペラに当たらずに発射されるのはどんな仕組みか。自分がいかに操縦士に信頼された整備兵だったか。そんなことを、とうとうと話した。「俺がいないと、飛行機は飛び立たない」が父の口癖だった。酒を飲みながら得意げに語った。1週間に数度はあっただろうか。ひとたび始まると、1時間は続いた。寝ぼけ眼の子どもの注意力が少しでもそれようものなら、「真面目に聞け!」と烈火のごとく怒った。

 

 親戚の結婚式で酔って軍隊の自慢話を始めたこともあった。周囲にたしなめられたことに腹を立て、大暴れしたという。「自分が輝いていた戦争体験が受け入れられなかったり、軽んじられたりするのが、我慢ならなかったんでしょう」。森倉はそう話す。ちょうどその頃は、日本社会が高度成長期にさしかかっていた時期だ。戦争での苦労話など、見向きもされなくなっていた。父は時代に取り残されていった。

 

■「戦争ボケ」と呼ばれた父の最期

 戦場での悲惨な経験も、酔った父の話の中に見え隠れすることがあった。南方での戦いは、圧倒的な物量の米軍に対し「話にならなかった」と言い、何とか飛行機を整備して操縦士を乗せて空に上げても、何倍もの数の米軍機に追い回され、撃ち落とされた、と吐露した。空襲されてジャングルに逃げ込んだ父の戦友は、猛烈な爆撃の後で全身バラバラになり、高い木にぶら下がっていた。下ろすのに苦労したんだと、語ったこともあった。

 貧しい生活の中で、森倉は10歳の頃に養子に出された。中学卒業までその家庭で暮らしたが、虐げられる生活に耐えきれず逃げ帰ってきた。数年ぶりに再会した父は、酒が手放せなくなっていた。朝から晩まで酒を飲んで酔っ払い、何をするでもなく家で過ごし、ときには母に当たり散らした。戦前はスーツにサングラス姿で写真に収まるほどおしゃれだったのに、服装にも無頓着になっていた。「生きることに執着しなくなっている」と森倉は感じた。

 「戦争ボケ」と言われたのは、この頃だ。人口数千の小さな町では、噂はすぐに広まる。「働きもせず、戦争の自慢話ばかりするアル中の男」への世間の目は冷たかった。「みじめだったね」と森倉は振り返る。進学を機に親元を離れ、関東に移り住んだ。

 20歳の頃、父が亡くなったという知らせが届いた。いつものように酔っ払った状態でストーブに灯油を入れようとしてこぼし、火が燃え移ったらしい。酒浸りの生活で足腰も弱くなっており、逃げ切れなかったのだ。

 戦争の自慢話、アルコール中毒、極貧生活、そして荒れた生活の末の不慮の死――。父にまつわる出来事は、森倉の中では断片的に存在していた。しかし、一連のものとして、理解しようとは思っていなかった。それは父が、森倉が大好きだった母を苦しめた存在でしかなかったからだ。

 

■手のひら返しの戦後, ■繰り返した戦争話, ■「戦争ボケ」と呼ばれた父の最期, ■黒井との出会い

■黒井との出会い

 2020年、森倉はインターネットでたまたま目にしたサイトに吸い寄せられた。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」(現・PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会)とあった。「戦争で心が壊れてしまった元日本兵の父のことを語り合う」とうたっていた。「ああ、そうだ、これだったんだ」。森倉は父の姿を思い浮かべた。

 すぐに連絡をとり、サイトの管理人に会いに行った。その管理人が、黒井秋夫だった。この頃は、黒井が会を立ち上げてすでに2年が経っていたが、世間から反応はなく、黒井の「孤独な闘い」が続いていた時期だ。森倉は黒井を訪ね、黒井が自宅の庭に建てた6畳ほどの「交流館」で、ひざをつき合わせて、お互いの父のことや自身の家族の歴史について語り合った。いつの間にか日が傾いていた。

 「私たちの家族のように、戦後光が当てられてこなかった物語を社会問題として取り上げようとしていた。黒井さんのその意志の強靱さを、感じました」と森倉は言う。その後も数回、黒井を訪ね、情報交換を続けた。

 森倉が黒井に触発される一方、森倉の存在も、黒井の背中を押した。「一緒にやりましょうと、初めて声をかけてくれた人だった。ああ、俺のやろうとしていることは間違いじゃなかった、やっと同じ経験をした人に出会えた、という気持ちでした」と黒井は振り返る。

 黒井の地道な活動は少しずつ実を結んでいった。森倉が黒井を訪ねた2年後の2022年夏に東京都武蔵村山市のホールで開かれた証言集会には、約250人が足を運んだ。兵士とトラウマの関係について調べている研究者らも参加する中、森倉は壇上でマイクを握った。「父は、人間的な正直さは失われませんでしたが、戦争ですっかり変わってしまいました。心に『戦争の芯』ができていたんです。ありふれた1事例です」。森倉は「ありふれた」という言葉に、「同じ家族はたくさんいたんだ」という思いを込めた。