アナログ写真で振り返る「成田と羽田」の歴史

成田空港出発カウンター(1986年4月7日、吉野純治撮影)
海外旅行ブームで賑わう90年代の成田空港
1980年代後半から90年年代の成田空港を写真で見ると、とにかく海外旅行客で賑わっている。
【写真47枚】1970年代から現在までの「成田と羽田」をアナログ写真で振り返る
成田空港の開港は1978年。写真が撮影された80年代後半当時は、成田空港に羽田から国際便が移転して10年前後という時期だ。
このバブル時代には、空前の海外旅行ブームになり、円高の影響も相まって海外旅行者数は増加。1990年に日本の海外旅行者数は1000万人超え、1995年には1500万人超えとなった。

成田空港、到着ロビーでごった返す帰国客(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港、外国ツアーの団体客(1987年11月11日、望月撮影)
成田のターミナル内の風景を見ると、浮かれ気分の海外旅行客や、テレビ・コマーシャルで「24時間働けますか?」と問いかけられ、ハードな海外出張にも耐えていたジャパニーズ・ビジネスマンの姿が見受けられる。

成田空港、帰国した背広組たち(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港ロビー(1985年3月)
スーツケースのデザインに時代を感じる
空港内の風景は昨今とそれほど違っていないようだが、海外旅行の必需品であるスーツケースのデザインだけは、今時、キャリーケースと呼ばれているものとまったく異なっているのには隔世の感がある。

成田空港、山積みされた海外旅行カバン(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港出発ロビー(1990年10月、本橋英明撮影)
海外旅行みやげの定番は「ジョニ赤」「ジョニ黒」
免税店のショッピングバッグには、「ジョニー・ウォーカー」や「LARK」といった、今や懐かしいブランド・マークが見られる。
昭和の頃まで海外旅行みやげと言えば、スコッチ・ウイスキー「ジョニー・ウォーカー」が人気だった。赤いラベルの「ジョニ赤」、黒いラベルの「ジョニ黒」があり、熟成年数が長くて高価な「ジョニ黒」の方が断然ありがたがられていたことを思い出す。

成田空港(1985年1月23日、吉野純治撮影)
90年代の“スチュワーデス”たち
90年代のJALの“スチュワーデス”の制服は、現在とはかなり異なるデザイン。80年代にスチュワーデスと一般的に呼ばれていた客室乗務員がCA=キャビンアテンダントと言われるようになったのは、90年代なかばから。
JALでは1996年からスチュワーデスという呼称を使わなくなり、ANAでは1987年から客室乗務員という呼称が使われるようになったのだそうだ。

JAL国際線の客室乗務員(1993年3月、吉野純治撮影)

JAL国際線の客室乗務員(1993年3月、吉野純治撮影)
1987年の成田空港の写真には、海外に修学旅行に行く高校生らしき団体も写っている。
この頃から私立の高校には、修学旅行に海外に行く例も見られるようになり、90年代に入ると国際感覚を養うことや、交流の機会を得るという目的で、ハワイ、アジア各地、アメリカ、場合によってはヨーロッパなどに出かける学校も増えていった。

成田空港、修学旅行で海外に行った高校生たち(1987年11月11日、望月撮影)
都心から離れた「成田」に国際空港ができた経緯
成田空港が「新国際東京空港」という名前で開港したのは1978年。それまで羽田に離着陸していた国際線は移転し、海外旅行や海外出張の際には、遠路はるばる成田まで飛行機に乗りに行かなければならないことになった。
開港当初の成田空港には、現在のようにJRの成田エクスプレスも京成スカイアクセスも、リムジンバスも直結している状態ではなく、空港の外での検問を経ないと構内に入れない状態が開港後も長く続き、世界主要国の空港と比べても、ただでさえ遠い上に、利便性に問題ありとされていた。
なぜ都心からかなりの遠隔地にある千葉県成田に新東京国際空港が建設されることになったのかは、今でも成田空港へと往復する多くの人々が持つ疑問だろう。それには複雑な経緯があった。
戦後日本で海外渡航が自由化されたのは1964年。前回の東京オリンピックが開催された年だった。その後、1970年にはジャンボジェットが就航。
こうして海外との間の大量輸送時代が始まるにあたり、近い将来に羽田空港のみでは増大する航空需要に対応できなくなるという予測のもと、新たな国際空港の建設が画策された。
東京オリンピックの2年後である1966年には、新東京国際空港の建設が閣議決定。
激しい反対運動…難航した成田空港の建設
当初、新たな国際空港の建設候補地には千葉県浦安市、富里市、八街市、茨城県霞ヶ浦、神奈川県金沢八景などが挙がっていたが、富里、八街での建設が内定したところ、地元で激烈な反対運動が起きて頓挫。
その後に建設候補地となったのが、千葉県成田市三里塚だった。
三里塚地区には当時、宮内庁の御料牧場があり、これを移転することで空港建設に必要な敷地の一部を確保できると考えられた。残りの敷地予定地には満州からの引揚者が定住していたが、土地収用を巡っては調整が難航した。
反対運動が激化することを恐れ、時の佐藤栄作内閣は、短期間のうちに成田での空港建設を閣議決定。
御料牧場は1969年に栃木県に移転。それ以外の農地に関しては、一部の地権者は移転に応じたが、反対を続けた農民もおり、反対運動は新左翼系の学生・市民運動とも連携しながら、長期化していった。
建設への抗議活動は、工事阻止行動のほか、用地を小口化して収用を困難にする「一坪共有地運動」などが展開された。一方、一部の過激派による暴力的手段も取られ、空港周辺では衝突が頻発した。
1978年3月には、開港直前に反対派が空港の管制塔を一時占拠・破壊して空港設備に大きな損害を与え、開港が約2カ月延期となる事件もあった。
東京都心から遠すぎる千葉県成田の新東京国際空港。その打開策として同年に設けられたのが、日本橋からも近く、首都高速道路の箱崎ジャンクションそばの、東京シティエアターミナルだった。
その構内には、各航空会社のカウンターが設けられ搭乗チェックインや、出国手続きも可能となった。ここでチエックインして、エアポートリムジンバスに乗れば、成田までの高速道路がいくら渋滞しても、絶対飛行機に乗り遅れることはないというシステムが構築された。
東京シティエアターミナルが果たした役割
1990年には地下鉄水天宮前駅が開業し、シティエアーターミナルは地下鉄駅とも直結。1989年に開業したロイヤルパークホテルとも直結して、この頃の箱崎は、まさに都心における海外へのアクセスゲートとなっていた。
しかし2002年には各航空会社のカウンターも、出国手続きも終了。現在は、成田空港、羽田空港行きのバスターミナルとして機能している。

東京シティエアターミナル(1985年8月、吉野純治撮影)

海外旅行者でにぎわう東京シティエアターミナル(1981年5月21日、高橋孫一郎撮影)

東京シティエアターミナル(1981年9月3日)

東京シティエアターミナル(1981年9月3日)
こうして、千葉県成田に開港した新東京国際空港は、開港までに多くの苦難に遭い、その後も滑走路やターミナルの増設、アクセスの改善などを経て、国際空港としての機能性と利便性を整えてきた。
1978年の開港以前の建設計画では、A、B、Cと3本の滑走路を建設する予定だったが、開港時点ではA滑走路1本、旅客ターミナルビル1棟という状態でのスタートとなった。
その後、かなり間を置いて2009年にB滑走路の供用開始。今年5月からはC滑走路の新設工事が始まり、供用開始の予定は2029年だという。
成田空港を取り囲む状況もずいぶんと変化してきた。一方では、東京都心への利便性の高い羽田空港が国際化され、羽田へとシフトチェンジする航空会社も増えて、成田空港の先行きは不明瞭な時代を迎えている。
一方、羽田空港は?
東京の国際空港の座を成田に明け渡した羽田は、沖合展開事業と新ターミナルの建設などを経て、2010年には再び、国際線定期便の就航を開始。
1978年の成田への国際線の移転で、国内便の空港となった羽田は、増え続ける国内航空便の需要に追いつくべく、その後、沖合展開事業を進め、1988年には、新A滑走路の供用が開始。1993年には、現在の第1旅客ターミナル「ビッグバード」が完成している。
それ以前、1991年の日本航空搭乗カウンターの様子を見ると、まだデジタル化されていなかったこの時代、押し寄せる乗客に対応する係員はかなり忙しそうだ。

日本航空搭乗カウンター(1991年10月18日、本橋英明撮影)
羽田沖合から、駐機している国内線各社の機影を見ると、尾翼には、JALは長年見慣れた鶴丸マーク。そして、全日空には懐かしいダヴィンチ・マーク。TDA(東亜国内航空)は1988年に日本エアシステムに社名変更し、後に日本航空に経営統合された。

羽田空港(1984年7月、吉野純治撮影)

羽田空港(1984年、吉野純治撮影)
2空港の歴史に、日本の国際化の道のりを見る
羽田空港が再び国際化されて15年。2020年には都心上空を飛ぶ国際線到着便の新航路も採用され始め、国際空港としての羽田の存在感は高まってきている。
しかし、成田発の便のみが就航している海外の都市の数は、羽田発の2倍近く。
またLCCを利用するには、専用ターミナルのある成田に行くしかない。
その、成田の新東京国際空港は、2024年の民営化を機に成田国際空港に改名。再来年の2028年には開港50年を迎える。
その間の羽田、成田の国際空港としての歴史は、まさに日本の国際化の道のりそのものだと言えそうだ。

成田空港第2ターミナル(1993年3月)

成田空港、搭乗手続きをする旅客たち(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港第2ターミナル(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港第2ターミナル(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港、出発ロビーで

成田空港(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港第2ターミナル(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港出発ロビー、海外ツアーの団体客(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港出発ロビー
成田空港出発ロビー、搭乗手続きをうける乗客(1987年11月11日、望月撮影)
成田空港(1993年、吉野純治撮影)

成田空港、荷物チェック(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港、到着ロビー(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港第2ターミナル(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港、手荷物(出発ロビーで)(1987年11月11日、望月撮影)

成田空港、 到着ロビーで(1987年11月11日、望月撮影)

JAL国際線の客室乗務員(1993年3月、吉野純治撮影)

JAL国際線スチュワーデス

成田空港(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港第2ターミナル(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港(1993年3月、吉野純治撮影)

成田空港

成田空港、旅疲れ(到着ロビーで)(1987年11月11日、望月撮影)

羽田空港(1984年、吉野純治撮影)

羽田空港(1978年6月)

羽田空港(1984年2月7日)

ビッグバード新羽田空港(1994年5月13日、梅谷秀司撮影)

ビッグバード新羽田空港(1994年5月13日、梅谷秀司撮影)

ビッグバード新羽田空港(1994年5月13日、梅谷秀司撮影)

ビッグバード新羽田空港