「産むなら去れ」か。東大の女性院生が痛感した、博士学生追い詰める“見えない壁”

博士キャリアと妊娠・出産の両立には、さまざまな壁があります。(画像はイメージです)
「日本では結婚後に姓の変更が求められ、女性科学者に大きな影響を及ぼしている」
2025年7月、イギリスの有名科学誌『Nature』に掲載された記事が、国内外で大きな波紋を呼んだ。日本には世界で唯一「結婚した夫婦が同じ姓を名乗らなければならない」法律が存在する。その結果ほとんどの女性が結婚と同時に姓を変えているが、それが研究者としてのキャリアに深刻な影響を与えているという調査結果が明らかになったからだ。
論文の著者名が変わることで、論文業績を連続して紐づけることが困難になったり、研究助成や学会発表で旧姓と戸籍名の不一致による混乱が起きたりと、「不平等な制度が生み出す不利益」を女性の科学者たちが経験していることが、改めて問題提起された。
だが、アカデミアにおけるジェンダーギャップの問題はそれだけだろうか。
私は日本の女子校で中学から大学卒業まで10年以上学んできた。もちろん、リーダーに女性がいることが当たり前の環境だった。しかし修士で東京大学の大学院に進学し、入学式の壇上に並ぶ教授たちを見たとき、まるで別世界に来てしまったように感じられた。舞台上に女性の教授の姿は、ほとんどなかったのである。これは偶然ではない。この光景を作るような格差を生み出す構造があるのだと、直感した。
私は現在、文理の間に位置するような学際的な研究をしている。ありがたいことに、自分の問いを深めたいと思えるテーマに出会い、博士進学を志すようになった。
だが、このまま将来の生活を思い描くと、必ず立ち止まってしまう部分がある。研究を続けながら、子どもを育てることはできるのか? ということだ。
不安定すぎる博士キャリア

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まず日本では、基本的に修士課程や博士課程の学生には、給与が出るわけではない。むしろ授業料を支払いながら、生活費は自力で確保する必要がある。
日本学生支援機構(JASSO)をはじめとした奨学金を利用する学生も多いが、幸運にも日本学術振興会の「特別研究員(DC)」に採用されれば、月額20万円ほどの生活費相当の研究奨励金を受け取りながら研究に専念できる(一般的に採択率は2割弱程度)。
また、年間240万円を支給する東京都立大学の「知のみやこプロジェクト」のように独自の博士支援がある大学も増えており、支援が広がっている。
DCや大学の支援対象に選ばれなかった学生は、教員の研究をサポートするリサーチアシスタントや、大学講義のサポート役であるティーチング・アシスタント、さらには学内の事務バイトなどで生計を立てているケースも聞く。中には、学外のアルバイトでなんとか食いつないでいる人もいるのが現状だ。ただ、いずれにせよ自分の研究時間を奪うことにもなる。
博士課程を修了すると、次のステップは「ポスドク(博士研究員)」と呼ばれる任期付き研究職になる。ポスドクの立場では、給与は出るものの多くは1〜3年の契約で、契約の度に職場も転々とすることが多い。研究者として生きていくためには、この「ポスドク時代」を数年かけて乗り越えた上で、ようやく大学などの任期のない常勤ポストに応募するというのが一般的だ。
しかし、そのポストの数も限られており、誰もが辿りつけるわけではない。現実には、30代の大半を「非正規で不安定な雇用」のなかで過ごすケースも多い。
「妊娠出産どうする?」のリアル
そんな厳しい博士課程に進もうと考えたとき、ふと頭をよぎったことがある。
「子どもを持ちたいと思ったら、私はどうすればいいのだろうか」
私には事実婚のパートナーがいる。妊娠や出産を考える時期が、博士課程やポスドクといったキャリアの初期段階と、ほぼ重なっている。
では、そうした状況の中で、どのような制度的な補助があるのか? 博士課程やポスドクでも、産休や育休は取得できるのか?そんな、あまりに当たり前で切実な問いに対して、私は答えを持っていなかった。そしてもっと深刻なことに、その問いを、気軽に聞ける人も周囲にはいなかった。
私は一人で調べ始め、ようやく見えてきたのは、「そもそも制度が博士過程で出産することを想定していない」という事実だった。
博士課程における支援の現状を見ると、出産・育児期の学生に対し、在籍期間の延長を認める「長期履修制度」を導入している場合もある。しかし、経済的な支援には限界がある。
たとえば前出のDCに採択された場合、女性は出産を理由に採用期間を産前6週間・産後8週間中断することができ、この期間は「女性研究者の出産に伴うキャリア継続支援金」として1日あたり1万円(最大98万円)が支給される。
しかし、育児休業給付金に相当する独自の制度は設けられていないのが実情だ。一方で、所属する研究機関で雇用保険に加入している場合は、育児休業給付金が支給される可能性がある。
男性研究者には、育児に特化した独自の経済的支援制度はないものの、育児による研究中断からの復帰を目的とした科研費や「特別研究員-RPD」など性別に関係なく利用できる支援事業がある。
学振でさえこのような状況であることを考えれば、採用されていない博士課程の学生に対する経済的な支援体制がさらに不十分であることは明白だ。
保育園や教員、研究資金など多数の壁

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博士課程に在籍中に妊娠が判明したとしよう。まず直面するのは、「制度がこうしたケースを想定していない」という現実だ。大学によっては妊娠・出産に伴う休学は認められているが、その間、奨学金が打ち切られる可能性がある。中には「休学=支給停止」と明記されている制度もある。
さらに、育児をしながら研究を続けるには、保育環境が不可欠だ。しかし、「博士課程=学生」という扱いゆえに、保育園入園の加点が得られず、預け先が確保できないケースもあると聞く。研究に戻りたくても、預け先がないという声は少なくない。
それでも研究を続けようとするなら、所属する研究室の文化や指導教員の理解に、大きく左右される。たとえば、子育て中でもオンライン参加を認めるゼミや、柔軟に対応してくれる教員がいる研究室では、継続が可能かもしれない。一方で、保育園のお迎えの時間に被っていたり、ゼミが対面を前提としていたりする場合、「ここにいていいのか?」という疑問が頭によぎってしまうのではないだろうか。
「ならば、出産はポスドクになってから」という声もあるかもしれない。だがポスドクは、数年の任期付き雇用が多く、出産・育児による研究の中断は、「業績の空白」としてキャリアに響く。競争的な研究資金やポジション獲得の場面で、「成果を出せなかった人」として扱われてしまうリスクは現実に存在する。
これからも研究を続けたいと考えている者としては、「理解ある指導教員に出会えたかどうか」「たまたま保育園に入れたかどうか」「たまたま経済支援が継続されたかどうか」そうした偶然に恵まれなければ、研究と育児の両立は成立しにくいように思えてしまう。壁が多すぎて、「産むことがキャリア上のデメリットになる」という感覚になっても仕方がないような状況になっているのではないだろうか?