老いてきた夫の気づき。弱者になったことのない人は、無防備だからかえって危うい【小島慶子エッセイ】
エッセイスト・小島慶子さんが11年ぶりの夫婦同居の日々を綴ります。

老いてきた夫の気づき。弱者になったことのない人は、無防備だからかえって危うい【小島慶子エッセイ】
「女の人が日常的に大変な目に遭っていることを、俺はこの年までわかっていなかった」と夫が言った。もしかして自分が何事においても楽観的でいられるのは、女性が経験する抑圧や軋轢を経験せずに済んでいるからかもしれないと。自称・便所の100ワットこととにかく明るい楽天家が、ついに気づいたらしい。男であるがゆえに知らずに済んでいることがこの世にはたくさんあることに。そうだよ、この社会で女をやることがどれほど大変か、お前さん知らねえだろ。
私はアプリでタクシーを呼んだときにときどき待機場所などの確認で通話機能を使うのだが、あるときスピーカー通話にして運転手さんと話しているのを聞いた夫が仰天していた。あんな邪険な話し方をされたことは一度もないと言う。そりゃあ、でかいおっさん相手に舐めた口調で接客する人はいなかろう。しかし女の身には、そう珍しいことではないのだ。オリンピック以降、東京のドライバーさんは親切な人の割合が劇的に高くなったが、今でもたまに横柄な人はいる。「いやあんなのザラだし昔はもっと酷かった」と夫に言ったらえらく驚いていた。そこでまたつっけんどんな人にあたった際に途中で夫に代わってもらったら、すんなり相手の態度が変わって礼儀正しくなったので、これまた夫は驚いていた。夫が、自分が透明な高下駄を履いていることに気づいた瞬間である。私が裸足で地べたを歩いてガラス片で古傷だらけになっていることに、やっと気づいたようだ。「女は舐められやすいから、愛想の悪い男性店員やドライバーさんには腹から声を出して低音で話すようにしている」などと語る妻をこれまで何度も見てきたはずなのに、その新鮮な驚きぶりはなんだ。しかし、何ごとも体験してみなければわからないものだ。目から鱗が一枚落ちたのがきっかけとなってか、夫は自分にとっては特に怖いことも心配なこともない場面で、女性は不安になったり身構えたり用心したり、嫌な目にあっても耐えたりしなければならないことに想像が及ぶようになったようだ。50年早く気づくべきだったが、めでたい進歩である。
人を見上げずに済んできたからこそ気付けないこと
先日、ある組織で働く男性に「御社のハラスメント対策はどうですか」と尋ねたら「いや、僕の会社でハラスメントの話は聞いたことがないです。みんな仲良いですよ!」と答えた。それはあなたに見えていないだけかもしれないし、ハラスメント対策は職場が仲良しかどうかに関わらずちゃんとやらなきゃいかんだろ。もしこの人が上司だったら、ハラスメントの相談なんてできない。考えすぎだよ、もっと気を楽にねーとか言われて、自分に落ち度があるような気にさせられるだけだろう。彼は、同じ職場で立場の弱い女性が経験する嫌がらせや圧力には決して気付けないと思う。想像することすらないだろう。自分の経験がこの世のすべてだと考えがちなのが人の脳みそだからだ。
透明な高下駄を履いている人は、自分よりも背が低い人は生まれつき背が低いのだと思っている。そもそも足をつけている場所が違うことには思い及ばない。冷たい地べたを流れる血の匂いや、足を踏みつけられる痛みも知らない。なぜってこの社会は透明な高下駄を履いた人がたくさんいて、見渡す限り自分と同じぐらいの高さの頭が並んでいるからだ。目が行くのは自分よりも頭一つ抜き出た人たちばかり。悔しがったり闘争心を燃やしたり。その隙間にはたくさんの下駄なき人々がいるのだけど、埋もれてしまって目に入らない。
多分夫も、人生の大半をそういう世界で生きてきたはずだ。夫だけではない。ガタイがよく、運動が得意で、声が大きく、男性ばかりの環境に適応して生きてきた男性は「この世はたいていなんとかなる」という意識が強いだろう。あるいは高学歴で、名刺ジャンケンの勝者で、年収が大抵の人よりも高い男性ならやはり、おそれを知らない日常だろうと思う。
年に100回ぐらい、高身長で良かったと思う。172センチは日本人女性としては長身で、日本人男性の平均身長と同じくらいだ。中高年男性に限れば、平均身長よりもやや高い。人と話す時に相手を見上げる必要がないのは、見上げなければならない場合よりも心理的に負荷が少ないように思う。これまで私の身長が気に障った男性も少なからずいただろう。今でも男性に上からものを言われそうな時はグイと背筋を伸ばして「俺のほうがでかい」「俺は小さくねえ」と全身で電波を出すようにしている。私は男性の威圧的な態度を感じると、可愛がられる言動よりも舐められない言動を脊髄反射で選んでしまう癖がある。男尊女卑社会では全然生存確率が高まらない間違った選択なのだが、つい「俺のほうがでかい」をしたくなってしまうのだ。これは私が「でかいほうが偉い」という価値観に染まっていることの表れでもある。もちろん身長で人を判断するのは愚かなことだし、尊敬できる人で自分よりも小柄な人はたくさんいる。この「でかいほうが偉い」は、相手がその価値観に染まっているときにしか効力を発揮しない。私がグイと背筋を伸ばすのは、相手が身長ヒエラルキーに敏感だろうと思う場合のみである。そして多くの男性は「なんでもでかいほうが偉い」という強い呪いにかかっている。
もしも生物として夢が叶うなら、私は男女の体格差と筋力差をなくしてほしい。男性との体格や筋力の差がなければ、女性にとっての世界はどんなものになるだろうか。例えば玄関の扉を開けるとき、夜道を歩くとき、知らない街を旅するとき、どんな時でも、襲われたら負ける身体で生きるのは不安が大きい。もしも私に夫と同じ体格と筋力があれば、今ほど「やられたら勝てない」という危機感と共に生きなくてもいいはずだ。
しかし誰でも老いには勝てない。ようやく女性の生きづらさに気づいた夫には、「君もだんだんと弱者になるのだから用心したまえ」と言うようにしている。フィジカルな弱者になったことのない人は、無防備だからかえって危うい。もしも自分と異なる視点を知らぬままに高齢化し身体的・社会的な弱者になったら、自身の弱者性を受け入れることができずつらい思いをするかもしれない。そうなる前に、夫が「女性に見えている世界は、自分が見てきたものと全然違うらしい」と気づいて良かった。自力で気づいたのも良かった。それを素直に口にするのも素敵だ。学ぶのに遅すぎることはない。知とは、同じものが違って見える体験である。人が自ら気づきを得て、目を開かれるのは尊いことだ。私は夫と一緒に生きて、人は変わるということを知った。それを間近に見ることができて、本当に良かったと思う。