新作が大コケ「細田守監督」バッシング過熱の背景

制作の日本テレビが「大苦戦のスタート」と表現, 過去のインタビューのスクリーンショット付きの投稿も, 親しみやすく、語りたくなる作品が「成功の王道」, 「いかに観客を巻き込んでいくか」がカギ

SNSでは不人気ぶりに触れる投稿が多発している『果てしなきスカーレット』(画像:YouTube「東宝MOVIEチャンネル」よりスクショ)

細田守監督の最新アニメ映画『果てしなきスカーレット』が不評だ。SNS上では批判的な論調とともに、「いちゃもん」にも感じられるようなバッシングも相次いでいる。

【画像】まさかの大コケ…?『TOKYOタクシー』などの後塵を拝した『果てしなきスカーレット』

なぜここまで「細田たたき」が活発化しているのか。その背景を考えると、SNS時代におけるエンタメ消費のパターンが見えてきた。

制作の日本テレビが「大苦戦のスタート」と表現

細田作品は2006年の『時をかける少女』や、『サマーウォーズ』(09年)、『おおかみこどもの雨と雪』(12年)、『バケモノの子』(15年)、『未来のミライ』(18年)と人気作を出し、直前作となる21年の『竜とそばかすの姫』は、最終的に興行収入66億円を記録した。

しかし、4年ぶりの新作となる『果てしなきスカーレット』は現状、それを上回る成績を残せていない。前作が公開から3日間で、興行収入約8.9億円、動員数約60万人を記録したのに対して、本作は約2.1億円、約13.6万人にとどまっている。

各社報道によると、制作に入っている日本テレビが12月1日に行った定例会見で、澤桂一取締役は「大苦戦のスタート」と表現し、その背景にはファンからの戸惑いや驚きがあったとの可能性を示した。あわせて、SNSでは好評がネガティブな意見にかき消されている、という見解を述べたという。

たしかにSNSでの反応を見てみると、批判的な声が中心だ。映画館では空席が目立っていた、といったレポートとともに、その不人気ぶりに触れる投稿が多発。かえって「ここまで酷評されているなら、むしろ見たくなる」といった反応さえ出ている。

制作の日本テレビが「大苦戦のスタート」と表現, 過去のインタビューのスクリーンショット付きの投稿も, 親しみやすく、語りたくなる作品が「成功の王道」, 「いかに観客を巻き込んでいくか」がカギ

観客動員では『TOKYOタクシー』(中央)などの後塵を拝した『果てしなきスカーレット』(右)。制作費の回収は難しいのでは…という声もチラホラ(写真:編集部撮影)

先に言っておくと、筆者はエンタメのプロではないため、作品そのものの比較や論評はできない。ただ、ネットメディア編集者として、これまで「エンタメコンテンツがSNSでどう受容されてきたのか」を見てきた立場としては、一日の長がある。

その経験から考えると、“細田たたき”をめぐっては「そもそも細田映画のマーケティング手法が、SNS時代に合っていなかったのではないか」という問いが浮かぶ。これまではヒットを連発してきたため、違和感が表面化してこなかった。しかし、ひとたび失速すると、それが目立ってきたのではないか。

SNS上では、違和感に対して「明確な回答」が求められる。それが論理的かどうかを別にして、ひとまずの見解を示す必要が出てくるのだが、現状では十分果たされていないように感じるのだ。

例えば、細田作品をめぐっては、「細田監督による脚本への関与度が、質を大きく左右している」という指摘が多々見られる。『時をかける少女』と『サマーウォーズ』は奥寺佐渡子さんによる脚本だったが、『おおかみこどもの雨と雪』では奥寺・細田の共同脚本に。『バケモノの子』は奥寺さんが「脚本協力」となり、「脚本」は細田監督のみに。そして『未来のミライ』以降は、奥寺さんのクレジットはなくなった。

過去のインタビューのスクリーンショット付きの投稿も

SNSの反応を見ていると、こうした脚本担当者の変遷が、「自分本位の作品作りになっているのでは」といったバッシングにつながっているように見える。また、「過去のインタビュー取材で、脚本軽視の発言をしていた」という、スクリーンショット付きの投稿も出回っている。

その他にも、細田作品は女性観に対して疑問の声も少なくない。「献身的な母性」や「母性的な力」を連想させる描写があるとして、そこから「女性を従来の役割に縛りつける」という批判や、「家父長制を美化している」という意見が出ているのだ。昨今主流になっているジェンダー観から逸脱しているとなれば、これまた違和感につながってしまう。

本来であれば、強大なコンテンツパワーで、これらの疑問を払拭できれば一番だろう。しかし、興行的にそれが難しいのであれば、やはり「自らの口で説明する」ほかない。しっかり真意が伝わらなければ、先入観だけをベースにした投稿が増えても当然だ。

あらゆるコンテンツは「受け手の感受性」に委ねられる。受け手の感想はSNSの普及によって、可視化され、増幅するようになった。ユーザー同士が“違和感”で共鳴しあえば、「才能が枯れた」といった主観的なバッシングにつながりがちになる。

作品の主導権は、いまや作り手ではなく、受け手が握っている。もはや「作家のやりたいようにやる」時代ではない。「いいものを作ればいい」ではなく、「しっかり届く」ことが重要なのだ。

マーケティングでは、自社が作りたい製品を市場へ送り出す「プロダクトアウト」と、消費者ニーズに合った製品を開発する「マーケットイン」といった考え方がよく使われる。コンテンツである以上、作家の独自性は必要だ。そのため、制作段階では前者の発想は欠かせないのだが、こと流通面においては、後者寄りの「市場に合った届け方」を、あわせて意識する必要がある。

親しみやすく、語りたくなる作品が「成功の王道」

その点、うまくバランスを取れていると感じるのが、新海誠監督のアニメーション作品だ。『君の名は。』(16年)、『天気の子』(19年)、『すずめの戸締まり』(22年)といった大ヒットを飛ばしているが、いずれも作品そのものに加えて、「どう観客が受け取るか」を意識しているように思える。

これらの作品が、なぜ受容されるのか。そこには「リアルな日常と地続き」である感覚があるように思える。実在する商品が、そのままの名称で登場する。いつもの車窓が、駅前が、そのまま描かれている。「自分も同じ世界観の中にいる」と感じることで、作品にのめりこみ、さらに好きになっていく。

別に「観客にこびろ」と言っているわけではない。そうした下心が見えれば、あまのじゃくなネットユーザーは、一気にバッシングを始めるだろう。また、別世界を舞台にしたファンタジーを否定するわけでもない。

しかし、“聖地巡礼”が一大産業になっている日本においては、圧倒的に親しみやすい、かつ語りたくなる作品に仕立てることは、もはや「成功の王道」になっていると言っても過言ではないだろう。

いかに親近感を根付かせるか。その“販促ツール”としてのSNSもまた、今では欠かすことができない。これについても、新海監督は日頃から投稿を行い、Xでは100万フォロワーを得ているのに対して、細田監督は表立ってSNS活動を行っていない。

いまや「SNSの有無」は、コンテンツビジネスにおいて必要不可欠だ。「一般ユーザーとの親近感を構築できる場」のみならず、いざという時に「自らの見解を示す場」としても有用だ。まさに今回のような状況下では、生の声を届けるツールとして、あるに越したことはない存在である。

加えて、見解を示すのは、「いざという時」が来る前でもいい。人々の心情を先回りして、予防線を張ることもできるのだ。例えば、24年1月1日夜、『すずめの戸締まり』のBS放送を前に、新海監督はXで「本作品には東日本大震災に関わる描写があり、緊急地震速報の警告音(架空のものではありますが)が流れるシーンもあります」といった注意喚起を行った。

この投稿の数時間前、石川県では能登半島地震が発生していた。

制作の日本テレビが「大苦戦のスタート」と表現, 過去のインタビューのスクリーンショット付きの投稿も, 親しみやすく、語りたくなる作品が「成功の王道」, 「いかに観客を巻き込んでいくか」がカギ

「すずめの戸締まり」公開時に、事前に注意喚起のポストを行う新海誠監督(画像:新海誠 Xよりスクショ)

それを受けての投稿であり、「災害からの回復を願う気持ちで制作した物語ではありますが、本日放送されることで気分を害される方、心が傷つけられてしまう方もいらっしゃることと想像します」などと、被災地へ思いを寄せる内容であったため、温かいリプライが多く届いた。

「いかに観客を巻き込んでいくか」がカギ

ネット空間には「本人が見ていない・反応しないのであれば、何を言ってもいい」のような心理が確実にある。また「SNSにおける風評には、SNS上で立ち向かうべきだ」との価値観も根強い。「匿名のヤツらが何か言ってるよ」程度の認識でいると、判断を見誤ってしまう。

エンタメには、制作者が意図して生み出した「余白」に対して、いかに受け手が想像力を働かせて、そこを埋めるかの楽しみがある。しかし、最近のエンタメ消費は「いかに観客を巻き込んでいくか」が、ひとつのカギとなっている。

そこで消費者が関われる要素がなければ、「作り手のエゴ」として敬遠されてしまう。コンテンツ産業も、いまや生産者の権威性だけで通用する時代でなく、流通まで考える必要が出てきた。そうした背景を考えてみると、『果てしなきスカーレット』の不振は、ある程度予想された展開だったと感じられるのだ。