西田敏行さん その生い立ちと最期の1年

2024年10月17日、名俳優・西田敏行さんが76歳で亡くなった。その生い立ちと最期の1年を再現ドラマで紹介した。

西田さんは亡くなる約1年前、心臓の検査を受けており、医師からは「大動脈の弁が狭く、硬くなっています。弁の開きが悪くなると心臓に負担がかかり、心不全の症状が出やすくなります。人工の弁に替える手術をした方がいいでしょう」と告げられた。

この時、撮影開始前のドラマについて、マネージャーからはテレビ局に事情を話せば降板も理解してもらえると言われたが、西田さんは「ポスター撮影しちゃったでしょ。大丈夫、無理しないから」と答えた。手術は4か月後に延期され、ドラマ撮影を無事に終えた後、2024年2月に心臓の大動脈弁を人工弁に替える手術を行った。

西田さんにとって役者は幼い時からの夢だった。1947年11月4日、第一次ベビーブームの時代に福島県・郡山で生まれた西田さん。夫に先立たれた母・紀恵さんが東京で美容室を開き、生まれてしばらくして東京に移り住む。母は女手一つで西田さんを育てていたが、東京で知り合った男性から結婚を申し込まれる。しかし相手には西田さんと同い年の男の子がおりその子が跡取りになると思われ、母の姉・美代さんが「敏行ちゃん、私が育ててもいいかな?」と申し出た。

1953年6月、何も知らない西田さんは母と福島の郡山にやってきた。数日間、姉夫婦の家で過ごすだけだと思っていたがどれほど待っても母は戻ってこなかったのだ。苗字も変わり、西田姓に。姉夫婦には女の子がいたが生まれてすぐ伝染病により命を落としており、そのためか西田さんは病気にならないよう、姉夫婦に大事に育てられた。

この経験が、西田さんの代表作につながる。1980年に放送された「池中玄太80キロ」は初の主演ドラマ。西田さんが演じた池中玄太は新聞社に勤めるカメラマンで、3人の娘を持つシングルマザーと結婚するが、結婚後すぐに妻は亡くなってしまう。全く懐いていない3人の娘たちと暮らすことになった玄太は、子供たちに裕福な生活をさせてやれなくても、必死に子供たちと仲良くなろうとする。それはまさに幼い頃に自分が経験した姉夫婦の努力のように思えた。不器用だが正直に生きる熱い男の姿が多くの人の心に響き、西田さんは一躍人気俳優となった。

この天職とも言える俳優業を目指すようになったのも、実は姉夫婦のおかげ。西田さんは映画館によく連れて行ってもらっていた。

観てきた映画を友達に身振りを交えて、観ている人の心情までも描写し伝える。みんなから注目される、それがたまらなく嬉しかった。

俳優を本気で志し、高校は東京の学校へ進学。しかし福島なまりをバカにされる毎日。福島ではいつもみんなの中心で人気者だったが、東京ではそうはいかなかった。孤立していく中、なんとなく立ち寄った上野動物園で、西田さんの人生を変える運命の出会いが。

それは、動物園の中でどこか寂しげに空を見上げている1頭のゴリラ。名前はブルブル。アフリカから来たゴリラは、ずっと空を見つめていた。遠い故郷を見つめているようなブルブルに親近感が湧いたのだ。

そんな高校時代、西田さんは実の母と別れて以来初めて会った。その日を境に何度もブルブルの元に通い、そしてあることに気がついた。ブルブルは、寂しい時には寂しそうに、苛立っている時は激しく、感情のままに堂々と生きていた。それを見て「俺は何かカッコつけようとしてたのかも」と、自分らしく生きる西田さんが形成されていった。そのため、実の母が恋しい時は何度も会いに行った。しかし西田さんは育ての母への想いから、実の母を「お母さん」とは呼べなかったという。

高校卒業後、西田さんは23歳の時に劇団「青年座」に入団。1971年、舞台「写楽考」で主役に抜擢され高い評価を得る。その頃、寿子さんと出会う。1974年8月、西田さんが26歳の時に結婚。婚姻届を出したのは8月5日、育ての母の誕生日を選んだ。

1976年に長女、1977年に二女が相次いで誕生。その頃、家族揃ってCMにも出演。西田さんは典型的な「親バカ」だった。当時撮影していた「池中玄太80キロ」の劇中の娘と実の娘の年齢が近かったこともあり、実生活なのかドラマなのか分からなくなることもあった。ドラマの中で池中玄太が本気で娘を叱ると、実の長女と二女から「ねぇ、どうしてあんなに怒ったの?」と言われ、西田さん自身も、ドラマで娘役とのやりとりがあると、実生活でも同じようなセリフを口にしてしまい「あれ?なんかこの言葉どこかでも言ったような」と感じることがあった。

役者を愛し、家族を愛し、同じように愛し続けたのはふるさとの福島。東日本大震災で大打撃を受け落ち込む故郷のみんなのため、何度も訪れ励まし続けた。故郷・郡山の幼少期からの親友たちとは、昔のままの関係は変わらず、50歳を過ぎても頻繁に連絡を取り続けていた。

地元の仲間たちへ西田さんから届く連絡は、やがて体を気遣うメッセージが多くなったという。実は西田さんは55歳の時に心筋梗塞で緊急入院。その心筋梗塞から20年経って、心臓の大動脈弁を人工弁に替えたのだ。大好きな酒も控えるようになったが、仲間たちには弱気な姿は見せなかった。

2024年10月10日、西田さんが亡くなる1週間前。西田さんは事務所に顔を出し、「みんな、うなぎ食べたくない?」と提案してうなぎを頼んだ。そしてすぐに岸部一徳に連絡を取り、岸部が顔を出すと「焼き鳥とか、どう?おいしいところがあるんだよね。一徳さんを一回連れてってあげたかったんだよ」と、うなぎのことなどすっかり忘れて出かけ、岸部をはじめ気の合う俳優仲間を呼んで楽しい時間を過ごしていた。元気だった西田さんだが、これが最後の外食に。

亡くなる前日、西田さんはいつも通り体を動かし、翌日のナレーション録りの予定を確認し、いつも通り明日を迎えるはずだった。しかしその次の日、西田さんは自宅の部屋で亡くなっているのを発見された。心臓発作だった。

西田さんの事務所には、役者への道を後押ししてくれたブルブルの写真が今も飾ってある。そして2025年9月、地元・福島県郡山市では、母校の子供たちが西田さんの代表曲「もしもピアノが弾けたなら」を合唱した。

最期まで役者として生きた西田敏行さん。芝居、家族、ふるさと、そして何より西田敏行さんは「人」を愛し続けた。