マリリン・モンローと肩を並べた女優、ジェーン・マンスフィールド:成功と凋落、悲劇の死まで
1950年代のハリウッドを席巻

マリリン・モンローと比較されることもあるジェーン・マンスフィールドは、1950年代にハリウッドを席巻した女優のひとりだ。モンローは1926年生まれで36歳で亡くなり、ジェーンはその7年後に生まれ、34歳でこの世を去った。
抜群のプロポーション

「みんな私のスリーサイズ、102-53-89に興味があるだけよ」とジェーンははっきりといっている。輝くばかりの金髪と魅力あふれる豊満な体つきでで、マンスフィールドは50年代ハリウッドのシンボルになった。
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ジェーンの髪はブルネット

当時の自然な成り行きとして、「おつむの足りないグラマラスな金髪美女」というレッテルを貼られたが、これはジェーン・マンスフィールドの実像からはかなり離れている。ジェーンはもともと黒髪であり、知能指数は163もあったのだ。
才能豊かな少女

ジェーン・マンスフィールドの本名はヴェラ・ジェーン・パーマー、ニュージャージー州とテキサス州で育った。12歳のときにはすでにピアノ、バイオリン、ビオラを弾きこなし、5つの言語を流暢に話すことができたという。
身体的にも早熟

幼い頃から才気煥発だったジェーンは、身体的にも早熟だった。賢い彼女は若いうちから、自身の身体が周囲の人々に及ぼすその催眠的な魅力に気が付いていた。
17歳で最初の結婚

ジェーンは17歳のときにポール・マンスフィールドと結婚し、妊娠する。マンスフィールドは夫の姓で、のちに離婚した後もジェーンはこの姓を使い続けることになる。夫婦は1954年、彼女が20歳のときにロサンゼルスに引っ越した。
美人コンテストに出場

ジェーン・マンスフィールドはエンタメ界へのデビューを目指してロサンゼルスのさまざまな美人コンテストに出場し、賞を総なめにした。女優として映画へのデビューも時間の問題だった。
ブロンドに染める

映画界にデビューするにあたり、マンスフィールドはもっとも確実と思われる方法を選んだ。それは髪をプラチナブロンドに染め、マリリン・モンローの向こうを張るということだった。マリリンは当代きっての人気女優であり、二人は後々まで比較されることになる。
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3度の結婚

1956年、23歳のとき、彼女はポール・マンスフィールドと離婚する。彼女はそれから2度の結婚を経験する。最初は俳優のミッキー・ハージティ(1955年度アマチュア部門のミスター・ユニヴァース)、次は映画監督のマット・シンバーである。
5人の子供

あわせて3度の結婚で、ジェーン・マンスフィールドは5人の子供を授かった。そのうち最も有名でかつ唯一の娘は、マリシュカ・ハージティである。マリシュカ・ハージティは女優で、1999年から現在まで放送されている米刑事ドラマ『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』に出演している。
浮気性の女優

ジェーンはたびたび浮気をしたとされるが、とりわけよく知られているのはケネディ兄弟(ロバート、ジョン)との浮気である。この不倫により、当時の『ワシントン・ポスト』が論じるところでは、マリリン・モンローとの共通点がまたひとつ増えた。
『女はそれを我慢できない』(1956年)

女優として最初の重要な役を得た作品は、『女はそれを我慢できない』(1956年)で、本作でジェーンは金髪美人を演じた。もっともジェーンは、その一年前の『理由なき反抗』(1955年)に出演する可能性もあった。同作の監督、ニコラス・レイと関係があったのだが、こちらはナタリー・ウッドに役を奪われることになった。
ゴールデングローブ賞を受賞

つづいてフォックス社と契約を結び、1957年に『よろめき休暇』に出演してケイリー・グラントと共演した。同じ年、『気まぐれバス』の演技でゴールデングローブ賞有望若手女優賞を獲得した。
ソフィア・ローレンとの邂逅

同年、ジェーン・マンスフィールドとソフィア・ローレンは歴史的な写真におさまる。パラマウント社が開いた晩餐会で、同社と契約を交わしイタリアから出てきたソフィア・ローレンは、マンスフィールドの深い襟ぐりをまじまじとのぞきこむ。この写真にまつわるエピソードはハリウッドの語り草となった。
時代の転換

だが、ハリウッドも時代が移り、ピンナップ向きの美女という50年代ハリウッド女優のイメージはすでに人気を失いつつあった。時代はオードリー・ヘプバーンのような、小柄ではつらつとしたタイプを求めていた。
時代遅れの存在に

ジェーン・マンスフィールドはそれまでのハリウッド的シンボルの座から転落し、前時代を象徴する存在となってしまった。まだ30歳になったばかりだったが、60年代のハリウッドではすでに時代遅れの女優というイメージをなかなか払しょくすることができなかった。
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ビートルズとナイトクラブで

ところで、ジェーンは1964年にビートルズと対面を果たしている。それはビートルズにとって初めてのアメリカ旅行で、彼らはジェーン・マンスフィールドとナイトクラブで過ごしており、当時の歴史的写真が残っている。
ハリウッドから忘れ去られる

ともあれ60年代は、ジェーン・マンスフィールドの衰退期となった。さらに飲酒問題や悪化を辿る健康状態が重なり、ハリウッドは彼女のことなどすっかり忘れてしまったかのようだった。
晩年はナイトクラブや低予算映画に

ジェーンは晩年の数年間をラスベガスのナイトクラブに出演したり、低予算のヨーロッパ映画に出たりして過ごした。輝かしい過去は、それほど昔のことではないのに、あまりにも早く、そして決定的に過ぎ去っていた。
自動車事故で死亡

1967年6月29日、ジェーンは自動車事故で命を落とした。事故は午前2時30分ごろ、ルイジアナ州のハイウェイで起きた。
同乗者たち

車の前部座席にはジェーン・マンスフィールドとほかに大人が2人乗っており、後部座席には彼女の3人の子供が乗っていた。うちひとりはマリシュカ・ハージティだった。
前方のトレーラーにめりこむ

そのとき、前を走る大型トレーラーが急に減速し、それによりジェーン・マンスフィールドらの車はその後部に激突してしまったのだ。前部座席の3人は死亡したが、後部座席の子供たちは軽傷で済んだ。
「マンスフィールド・バー」

この事故により、交通ルールが見直され、大型トレーラーの下部にバーを取り付けることが義務付けられるようになった。このバーは別名「マンスフィールド・バー」として知られている。
34歳の死

このようにして、ハリウッドを一時的にせよ席巻した女優は、大型トレーラーに取り付けられる金属のバーにその名を留めるようになった。ハリウッドをめぐる数奇なエピソードのひとつである。
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ハートの墓碑

ジェーン・マンスフィールドの遺体は出生地のペンシルベニア州の墓地に眠っている。その墓碑はハート型にかたどられている。みじかくも衝撃的な彼女の人生は、その死から50年以上経ったいまも、人々の胸をあつくしている。
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