「この物語は『欲の話』なんです」脚本家・森下佳子が振り返る、『べらぼう』を通して描きたかったこと【いよいよ本日最終回!】
前篇では、吉原を描く覚悟やオリジナルキャラクターたちの運命について語ってもらった。後篇では、蔦重・てい・歌麿の三角関係に潜む創作への欲望、親に捨てられた記憶が生む蔦重の自己肯定感の低さ、そして「血脈vs文化」という一橋治済(生田斗真)と蔦重の対比について。森下氏自身の創作観も交えながら、この物語の核心に迫る。
蔦重・てい・歌麿の三角関係に込めた思い

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第42回「招かれざる客」の場面カット。(C)NHK
――蔦重とてい(橋本愛)、歌麿(染谷将太)の三角関係も印象的でした。つよ(高岡早紀)やていは歌麿の思いに気づいているのに、蔦重だけが気づかない。そんな中、歌麿は蔦重に「俺のほしいものは何ひとつくれねえんだ」という切ない思いを抱き、一度は決別します。この三角関係にどんな思いを込めましたか。
森下佳子(以下、森下) 世の中、言えない思いの方が実は多いんじゃないかなと思っているので、私はごく普通のことを書いたつもりです。周りが先に気づくことに関しても、割とそんなもんじゃないかなって。歌麿は明和の大火の時と、成人してから、2回蔦重に命を救われている。そういう特別な存在だからこそ、蔦重とていが結ばれた夜、隣の部屋で「よかったな蔦重」と言いながら布団をかぶって。あの時、「生まれ変わるなら女がいいからさ」と言わせたのは、もし自分が女だったら蔦重の隣にもっと当たり前のようにいられる道もあったかもという思いですよね。それで画号を「千代女」にした。……という仕立てですけどね。私の勝手な。
――周りは気づいているのに、蔦重だけが気づかない。それは瀬川(小芝風花)との恋についてもそうでしたが。蔦重は、そうした鈍感さの一方で、世の中の動きには鋭く敏感で、商売人として、人の欲望や気持ちを読むことには長けています。その鈍感さと繊細さのバランスが面白いですよね。
森下 多分、蔦重は自分のことを誰かが好きだとは、あまり思ってないんじゃないですかね。というか、自分が行動するときにそこを織り込まないというか。相手にどう思われてようが、自分が好きなものに対しては好きという思いで近づくし、その人に良くしてあげようと思うけど、自分が好かれてるかどうには無関心なんじゃないかなと。だから、自分に向けられた感情には鈍感で。
――蔦重の関心は、内側(自分自身)に向いていなくて、常に外側(他者や文化、世の中)に向いている人だからですか。
森下 ちょっと悲しいことを言えば、やっぱり親にも捨てられたと思って生きてきてるわけだし、自分のことを世の中の人が無条件で好きなわけないって思っているところもあるんじゃないですかね。だからそこをアテにしないというか。
――蔦重の周りにはいつもたくさんの人がいるし、名編集者で、人を乗せるのもうまい。それに、遠慮なく作家陣にダメ出しするし、ガンガン人に突っ込んで行きますよね。
森下 それは仕事だから。仕事だったりその付き合いに目的があればいけるんですよ。目標に向かって走れば言いわけだから。私もそうなんですよ。基本「世の中の人は私に基本無関心、もしくは嫌いであろう」という前提で生きてます。
――え!! それはどうしてですか。
森下 そのほうが「好き」って言ってもらえたらすんごいラッキーだと思えるし、「嫌い」って言われても「いたっけ?」って言われても「まぁ、そうか。だよね」で済むし、ダメージ少なくて良くないですか? ま、でも、こういうことはどうしようもなく「原体験による」みたいなとこありますのですね。私の自己肯定感が低いのはあまり気にしないでください。50も過ぎるともはやその低さを自分の一部として愛でる域に入ってますから。そうですね。そこを蔦重にちょっと載っけちゃったかもな。すいません。だいぶ話が本題から逸れちゃいましたね。大丈夫ですか(笑)?
この物語は欲の話なんです

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第46回「曽我祭の変」の場面カット。(C)NHK
――蔦重が絵師たちの絵にどうしても納得いかず、ダメ出しを続ける中で、歌麿をていさんが呼び戻しに行く――1度離れてしまった蔦重と歌麿を結びつけたのが、ていさんだという展開にも熱いものがありました。あの場面にはどんな思いを込めていたのでしょうか。
森下 あの三人を結び付けるのは、最後は創作物じゃないですかと思ったんです。ていさんも本屋だから、本屋として創作物を愛する思いが何より強くあって、結局そこに負けるんですよ。その為にはこのややこしい人間関係を続けていこうと。歌麿も結局、そこで戻る。もう嫌だと思っても、結局作品を作りたいから戻っちゃうっていうところがどうしてもあって、そこはやっぱりモノづくりする人の性ですよね。そういう意味で全て創作に負けていくんだと思います。
物書きや絵師ってほとんどそうでしょ。結局どんなに愛した人のことも、どんなに揉めた人のことも「飯の種や」って思って描くわけじゃないですか。全て創作に回してますよね。

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第25回「灰の雨降る日本橋」の場面カット。(C)NHK
――おていさんが歌麿を呼び戻しに行ったときに漏らした本音「見たい。二人の男の業と情、因果の果てに生み出される絵というものを、観てみたく存じます。私も本屋の端くれ。サガというものでございましょうか」には、森下さん自身の創作への思いものっているのでしょうか。
森下 作り手じゃなくて、読み手、受け取り手としても、私のゲロ出しの本心ですよね。だって、見たいじゃない? そういうものは、みんな好きじゃないですか。画家が最後に描いた絵は必ずポストカードになっていたりする。それは買いたいって思うじゃないですか。人が命を削ったものをみんな見たいっていう、ある意味いやらしい欲望っていうんですかね。ファンや受け取り手の方にもそうした思いはある方、結構いらっしゃるんじゃないですかね。
――一橋治済(生田斗真)が自分の子までも傀儡として権力を握っていったように、権力者が家・一族の繁栄のために次々に子を作り、子孫を増やそうとするのは、“血脈”をつないでいく「欲」ですよね。その対比として、(平賀)源内先生(安田顕)や蔦重、おていさん、歌麿など、自分が見たいもの・作りたいものを作り、伝え、広め、後の世にまで残していく「文化」としての「欲」として描かれているんですね。
森下 確かに! そうだそうだ忘れてた。この物語は「欲の話」だよねっていうのは最初にこの話を作る時にみんなで確認し合った事なんですよ。そこは第1回のナレーションの部分でも出していただいたんですが、結局、欲の話なんです。いろんな人の欲が絡み合って、それが時代を作っていく。
――治済は血脈で残そうとした。でも、血だって、結局どこまで続くかわからないですし、文化や創作物は、時代を超えて残っていくものを作ることができる。
今、私たちが歌麿の絵を見て、蔦重が出した本を知って、春町の黄表紙を読むことができるのは、血脈じゃなく、文化で残っているということですもんね。作り手の欲と、読みたい人たちの欲、いろんな欲が時代を超えてどんどん残っていったり、広まっていくのが大きな対比になっていると思うと、グッときます。
笑いって、やっぱり人を救うものだと思うんです。

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第41回「歌麿筆美人大首絵」の場面カット。(C)NHK
――ところで、笑いを届けることの意味についても、この作品の大きなテーマだったかと思います。最後に、笑いに対する思いをお聞かせ下さい。
森下 笑いって、やっぱり人を救うものだと思うんです。蔦重がずっと追いかけてきたのは、人を笑わせること、楽しませること。それはどんなに辛い時代でも、人々に希望を与えるものだったんじゃないかなと。この作品においては、天明の大飢饉があって、打ちこわしがあって、本当に大変な時代だった。でもそういう時代だからこそ、笑いが必要だった。源内が言った「書をもって世を耕し、この日の本をもっともっと豊かな国にするんだよ」という言葉が、ずっとこの物語の底に流れています。蔦重はそれを受け継いで、黄表紙や洒落本で人を笑わせようとした。それは単なる娯楽じゃなくて、人を生かす力だったんじゃないかなと思います。

大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』脚本家・森下佳子イラスト。