映画『地獄の黙示録』:傑作の裏に潜む狂気
本当の地獄をみた『地獄の黙示録』

当初、『地獄の黙示録』(1980年)は、控え目な実験的作品になるはずだった。予算は200万ドル(約3億1000万円)で、16ミリフィルムを使用して、ベトナム戦争をカリフォルニアで撮影する。わずかな兵士と手持ちカメラだけで撮る作品。しかし、フランシスコ・フォード・コッポラ監督の手にかかると、この企画は制御不能なまでに膨れ上がった。予算も正気も、灼熱の太陽の下で溶けていった。
フィリピンのジャングルで撮影

撮影地としてフィリピンが選ばれた。ジャングル、川、そして熱帯気候は、アメリカでは得られないものを提供してくれた。本物の密林、猛烈な湿気、そして手つかずの大自然。しかし、これらが何を意味するのか、誰も想像していなかった。
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16週間の予定が238日間の地獄へ

短期間で終わるはずだった撮影は、238日にも及ぶ苦難の旅へと変貌した。すべてが制御不能に陥った。予算は膨れ上がり、忍耐も限界に達した。この映画が日の目を見ることはあるのかと疑問視する声さえ上がり始めた。
ジャングルで燃え尽きた予算

『地獄の黙示録』(1980年)の予算は、当初1200万ドル(約18億6000万円)と決められていた。『バラエティ』誌によれば、台風などによる遅延、役者やスタッフたちの健康状態などが重なり撮影が底なし沼と化し、最終的な製作費は3100万ドル(約48億500万円)を超えたという。コッポラは自身の資産を抵当に入れ、プロジェクトの崩壊を防ぐためにポケットマネーから700万ドル(約10億8500万円)以上を投じた。
主役の交代と、その先に広がる混沌

当初、ウィラード大尉はハーヴェイ・カイテルが演じる予定だった。しかし撮影開始から数週間後に「役に合わない」という理由で解雇され、撮影済みのフィルムは破棄されることになった。最終的にマーティン・シーンが選ばれたが、そこから悲劇が始まった。
マーティン・シーンがジャングルで心臓発作

撮影中、シーンは心臓発作に見舞われた。報道によれば、彼は瀕死の状態で歩き続け、バスに拾われて病院へ搬送されたという。神父から終油の秘跡を受けるほど深刻な状況だった。これは映画のどの過酷なシーンよりも暗い現実だった。
フィリピン軍のヘリコプター

戦争シーンの撮影にはフィリピン軍のヘリコプターが使用された。しかし、パイロットは暴動鎮圧やゲリラ戦といった事態が起こればすぐに出動しなければならなかった。つまり、いつ撮影現場を放棄してもおかしくない状況だった。
台風が直撃

撮影開始から2か月後、台風がセットや大道具、そして作業の大半を破壊した。特殊効果の準備もバックアップもなかったため、撮影は最初からやり直しとなった。雨、密林、湿気……ただでさえ過酷な映画制作は、正真正銘の地獄と化した。
精神の崩壊

混沌は気候や技術的な問題だけにとどまらなかった。違法薬物、不眠、高まる緊張感。スタッフの多くは、自分たちが前線の兵士であるかのように感じ始めた。『ヴァニティ・フェア』誌によれば、監督のコッポラ自身も「我々はジャングルにいて、徐々に気が狂っていった」と明かしているという。
カーツ大佐

カーツ大佐役のマーロン・ブランドは、太り過ぎた状態で、何の準備もせずに撮影現場に現れた。コッポラ監督は「健康状態の優れない身体」というカーツ大佐の設定を大幅に調整し、多くのカットを薄暗がりの中で撮影しなければならなかった。
小型飛行機に乗せられたトラ

俳優のフレデリック・フォレストは、ドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』(1991年)の中でこう告白した:「人生であれほど怖い思いをしたことはなかった」
『地獄の黙示録』の撮影中、彼とマーティン・シーンは、飢えて怒り狂った本物のトラと対峙しなければならなかったのだ。
このトラは小型飛行機で運んだという。パニックに陥った乗組員は操縦席に閉じこもった。コッポラ監督の妻エレノアによれば、パイロットは「窓から飛び降りて、虎が檻に入れられるまで離陸を拒否した」という。
『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』

エレノアは制作中の混沌とした状況を密かに撮影していた。数年後、それはドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』として結実し、多くの関係者が忘れたがっていた撮影現場の真実を明らかにした。
ベトナムにおけるアメリカ人と同じ

パルム・ドールを受賞したカンヌ国際映画祭で、コッポラはこう語った:「この映画はベトナムにおけるアメリカ人を反映している。我々はジャングルの真ん中にいた。人数が多すぎた。金がありすぎた。機材がありすぎた。だからこそ少しずつ正気を失っていったのだ」
大惨事となった空爆シーン

『ワルキューレの騎行』のリズムに乗せた有名な空爆シーンは、実際には大惨事だった。海上を飛ぶ8機のヘリコプター、制御された爆発、走るエキストラ……しかし、すべてが制御不能になった。炎が大道具や倉庫を焼き尽くし、エレノアが撮影していたドキュメンタリー映像の一部も消失した。『ハリウッド・リポーター』誌によると、損害額は5万ドル(約775万円)と見積もられ、数十人のエキストラが撮影続行が不可能となりロサンゼルスへ帰されたという。
フィリピンの厳しい気候

フィリピンの気候は単なる背景ではなく、登場人物の一つだった。耐え難い湿気、膝まで埋まる泥、害虫、病気、そして息苦しい暑さ。そこに華やかさはなく、あるのは日々の生存競争だけだった。
主役たちを失いかけた撮影現場

健康問題による離脱、解雇、物流の混乱の中で、制作チームは主演俳優たちを失う寸前だった。シーンやブランド、さらにはエキストラの一部が撮影現場から逃げ出そうとしたのだ。映画が完成したのは奇跡であり、コッポラの自滅的ともいえる執念のおかげだった。
状況により書き直される脚本

当初の脚本は、変幻自在の粘土と化した。状況が悪化するにつれて、ストーリー、セリフ、シーンはその場で書き直された。確定事項など何もなく、すべては泥と汗と書き直しの連続だった。特にブランドが関わるところでは。
地獄から生まれた傑作

それでも、1979年に映画が公開されると、旋風を巻き起こした。カンヌでパルム・ドールを受賞し、その後、アカデミー賞では撮影賞や音響賞といった技術部門を受賞した。地獄のような撮影現場は、結果として映画史に残る傑作を生みだしたのだ。
終わらない撮影という地獄

撮影があまりに遅れ、トラブルが続出したため、関係者の間では「地獄の黙示録(Apocalypse Now)」をもじって「いつになったら黙示録(Apocalypse When)」と冗談が囁かれるほどだった。それは皮肉であり、純粋な恐怖と諦めでもあった。
その後の映画に大きな影響を与えた作品

最終的に、この地獄のような混沌のすべてが、ひとつの映画として結実した。『地獄の黙示録』は、その後の戦争映画、そして映画全体の撮り方に大きな影響を与えると同時に、映画史に残る傑作となった。
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