ピンク・レディー前夜の増田惠子(68)が抱えていた苦悩…「3歳で父を失い、養女に」「高校生で、“素人っぽくない”と不合格に…」

左:歌手・増田惠子さん、右:近田春夫さん。
ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズ、「おんな友達との会話」。
2人目のゲストは、ピンク・レディーのケイとして、70年代後半に「UFO」「サウスポー」などのメガヒットを連発し、戦後芸能史に一時代を画した増田惠子さん。2026年は、ピンク・レディーのデビューから50周年、ソロデビューから45周年というダブルアニバーサリーの年に当たるんだとか。実は、近田さんとは、意外な深い縁があったようで……。
実はデビューが同時期の2人!

増田惠子さん。
近田 僕ら、実はデビューが同時期なんですよね。
増田 そうなんですよね!
近田 近田春夫&ハルヲフォンが実質的なファーストシングル「シンデレラ」をリリースしたのが1976年6月で……。
増田 ピンク・レディーが「ペッパー警部」でデビューしたのが同じ年の8月。
近田 同期って、誰がいたか覚えてる?
増田 まずは、「嫁に来ないか」の新沼謙治さん。謙ちゃんは、いまだに酔っぱらうと電話かけてきますよ(笑)。そして、「弟よ」の内藤やす子さん、「東京娘」の桜たまこちゃんに、芦川よしみちゃんは今でも大親友。三木聖子ちゃん、朝田のぼる君、角川博さん……仲良しです。
近田 ロックバンドって、当時は本当に少なかったんだけど、僕らの同期には、どおくまんの漫画を映画化して大ヒットした『嗚呼!!花の応援団』の主題歌を歌ったグループ、異邦人がいましたね。「ちょんわちょんわ!」ってやつね(笑)。
増田 はいはい、覚えてます。
近田 僕は、デビュー当時、20代半ばだったんだけど、あの頃、その年代から芸能界入りするっていうのは結構年齢がいっていた印象があるんだよね。
増田 ええ。私だって、高校を卒業したその年にデビューしたんですけど、もう、おばさんっていう気持ちがありました。
近田 まだ20歳にもなってないのに?
増田 だって、あの頃の新人歌手は、みんな堀越学園あたりに通いながら、14歳とか15歳とか、中学生でデビューするのが当たり前だったじゃないですか。
近田 そうか。森昌子・桜田淳子・山口百恵の3人は“花の中三トリオ”って呼ばれてたもんね。
増田 だから、「スター誕生!」を経てデビューが決まった時は、やっとここまで来れたという風にホッとしたことを覚えています。何だか、高校を出て、芸能界に就職が決まったっていう感覚がありましたね。
近田 そうだろうね。ということで、僕が初めてピンク・レディーの姿を目にしたのは、NHKのオーディションだったのよ。あれは、今に至るも、人生において数少ない自慢の出来事の一つだね(笑)。
「大人に決められるよりも、自分で決めようと思った」(増田)
増田 あの頃、NHKでも民放でも、プロの歌手がテレビ番組に出演するには、放送局の行うオーディションを通過する必要があったんですよね。
近田 恐らくもう、今はなくなっちゃったと思うんだけど、不思議な風習だったよね。NHKの時は、審査員に藤山一郎先生がいらっしゃったんですよ。ただでさえ、バンドってことでちょっと畑違いだったから、緊張したのを覚えてるよ。その後も、ピンク・レディーの2人とは、いろんな各民放のオーディションで一緒になりました。
増田 もう50年も前の話になるんですね(笑)。
近田 このあたりで、ケイちゃんの生い立ちをさかのぼりたいと思います。
増田 私は静岡で3人兄姉の末っ子として生まれたんですが、3歳の時に、父が交通事故で亡くなってしまったんです。6歳上の兄と3歳上の姉を抱える母は、働かなくちゃならないから、私は、平日は焼津にあった母の姉夫婦の家に預けられていました。
近田 昔はさ、保育園なんかもあまり整備されてなかったから、結構そういう境遇の子が多かったよね。

近田春夫さん。
増田 姉夫婦の家には、子どもがいなかったんですね。それで、土曜になると実家に帰り、日曜には焼津に戻るという生活を送っていました。
近田 単身赴任みたいな感じだったのね。
増田 その後、小学校に上がるタイミングで、戸籍だったか住民票だったかの都合から、一旦は家族のところに帰ることになったんだけど、私が戻ってもお母さんは仕事できるのかなあとか、伯父さんと伯母さんが寂しい思いするだろうなあとか思って、私、実家に戻るはずだった前の晩に、自分でおじさんとおばさんの家の子になるって決めたんです。そして、養女になった。
近田 物心ついて間もないっていうのに、重大な決断を下したね。
増田 大人に決められるよりも、自分で決めようと思ったんです。
「ミーとは10分間の休み時間にコーラスの練習を重ねて」(増田)
近田 ケイちゃんが、歌手になりたいと思い立った最初のきっかけは何だったの?
増田 はっきりとは覚えてないんですけど、物心ついた時からテレビの歌番組が好きだったから、意味も分からないまま大人の恋愛の歌を3、4歳から歌って、近所の大人たちに「ケイちゃん、もう1曲歌って」と褒められてました。
近田 すでに、熱烈なアンコールを求められてたのね(笑)。
増田 6歳の時、幼稚園の先生がオルガンを弾きながら合唱の練習をさせてくれるたび、私の歌を「ケイちゃんは本当に歌がうまいわねぇ」と言ってくれたことも大きかった。こんなにきれいで素敵な先生が褒めてくれるんだから、絶対私は歌手になるんだって心に決めたんです。
近田 こうして、見事にその夢を叶えたわけね。そもそも、ピンク・レディーを結成するいきさつって?
増田 ミーとは、中3の時、必須クラブの演劇部で一緒になったんです。その後、2人揃って演劇が盛んな常葉高等学校(現・常葉大学附属常葉高等学校)に進学。クラスは別だったんですけど、10分間の休み時間には、2つの教室の中間点で待ち合わせして、そこでコーラスの練習を重ねてました。

デビューまでの貴重なお話を惜しみなく話してくださる増田さん。
近田 努力家だったのね。
増田 そして、ヤマハが主催したオーディションにソロで応募したところ、2人とも合格したんです。
近田 ちなみに、その時は何を歌ったの?
増田 私は、ペドロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」と朱里エイコさんの「恋の衝撃」。ミーは麻丘めぐみさんの「わたしの彼は左きき」だったかな。
近田 全然タイプの違う曲だね(笑)。
増田 そう。ピンク・レディーって、2人の声質が全然違うんですよ。
近田 言われてみればそうだ。アンサンブルが見事だから、今まで気づかなかった。
増田 ミーの声は、高音ですごく澄んでて可愛くって、私の声は、それより低くて倍音がある。その組み合わせに可能性を感じたヤマハのスタッフが、2人をデュオに仕立てて「クッキー」と命名したんです。
「鼻持ちならない高校生でした(笑)」(増田)
近田 デュオとしては、どんな曲を練習してたの?
増田 「サルビアの花」でした。
近田 ああ、元ジャックスの早川義夫の曲だね。ちょっと意外だな。
増田 それが、最初は声質が異なるから全然ハモれなくって。ものすごく練習した結果、やっと納得のいくハーモニーを紡ぎ出すことができました。そして、「恋のレッスン」というオリジナル曲をいただき、ヤマハのポピュラーソングコンテストの地区予選に出場したんです。

同じ時代を駆け抜けた2人。
近田 ポピュラーソングコンテスト、いわゆるポプコンだね。ヤマハ所属で、しかもクッキーって名前ってことは、やっぱりフォークっぽい音楽性だったの?
増田 いえいえ。ヴォーカルスクールでのレッスンって、普通はピアノに合わせて歌うじゃないですか。でも、浜松のそのスクールでは、先生がジャカジャカかき鳴らすアコギに合わせ、「ハッ! ハッ!」みたいにソウルフルに歌ってました。
近田 じゃあ、ピンク・レディーのサウンドはすでに胚胎してたってわけね。
増田 ポプコンで「あの2人、一体何だ?」と注目を浴びて存在を認められ、もう少しでデビューできそうなところまで行ったんです。高校在学時の2年間ほどは、ヤマハのステレオなんかの新商品と一緒にトラックに揺られ、アルバイトでいろんなところに出かけましたよ。そこで、カラオケで3曲歌うんです。
近田 俺も、同じ頃、パイオニアのステレオの宣伝に行きましたよ(笑)。
増田 今でも覚えてるけど、初めてもらったギャラは3,000円でした。まだデビューもしてないから、誰も私たちのことなんて知らないのに、サングラスかけて、衣装ケースとメイクボックス持って移動してね。鼻持ちならない高校生でした(笑)。
高校生の頃から3時間睡眠で…
近田 結局、ヤマハからはデビューしなかったんだよね。
増田 ええ、デビューできませんでした。それで、高3の時に、「君こそスターだ!」に応募して、出場にこぎ着けるんです。
近田 フジテレビで放送されてたオーディション番組だよね。
増田 当時のクッキーって、見た目が後のピンク・レディーそのままだったんです。腕も脚も露出してガンガン歌って踊ってたら、素人っぽくないだの新鮮さが感じられないだの、コテンパンに酷評されちゃって、不合格の憂き目を見ました。

凛とした立ち姿の増田惠子さん。
近田 あらあら。
増田 その頃は高校の卒業が迫っていて、路頭に迷いかねなかった。ミーも私も、進学するつもりも就職するつもりもありませんでしたから。ある日、校内放送で「根本と増田、校長室に来なさい」と呼び出されたんです。
近田 えーと、根本というのは、ミーちゃんの名字だよね。
増田 そう。そして、校長先生から「人生はそんなに甘くない。まずは進学なり就職なりしてから歌手の夢を追えばいいだろう」と諭された。それに対し、私が「でもね、先生。二兎を追う者は一兎をも得ずとも言うでしょう」と反論した時の校長先生の辟易した顔といったら……(笑)。
近田 ちなみに、ケイちゃんの歌手志望に関して、ご家族はどんな反応だったの?
増田 伯母は、私が歌手になることには否定的だったんですよ。最初にヤマハのオーディションに通ってからも、「何が何でも高校だけは卒業しなさい」と口酸っぱく言ってたぐらいで。
近田 昔の人はそう言うのが当たり前だったよね。親心ゆえの心配だと思うよ。
増田 だから私、高校生の頃から3時間以上寝てなかったんですよ。とにかく教科書の内容を丸暗記して、しっかり試験の点数を取ってましたから。
近田 ピンク・レディー時代はろくに睡眠が取れなかったとよく耳にしたけど、高校の時点ですでに慣れっこだったんだ(笑)。
増田 それに対し、母は、私の夢を応援してくれたんです。幼い頃の私に寂しい思いをさせてしまったという気持ちがあったんでしょうね。浜松のレッスンに毎週通うための交通費も、ステージ衣装のお金も、母が全部出してくれました。
近田 2人とも、それぞれの形でケイちゃんのことを愛してたんだよ。
増田 そのおかげで今の自分があるんだと、心から感謝しています。
近田 そして、高校の卒業間際、2人は、ついに運命を決めた「スター誕生!」にチャレンジすることになるんだよね。
増田惠子(ますだ・けいこ)
1957年静岡市生まれ。中学校の同級生であったミー(根本美鶴代)とクッキーという名のデュオを結成し、「スター誕生!」に出場、決戦大会で合格を果たす。1976年、ピンク・レディーとして「ペッパー警部」でデビュー。「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」など大ヒットを連発し、「UFO」では1978年の日本レコード大賞を受賞する。解散後の1981年、中島みゆき作詞・作曲の「すずめ」でソロデビューし、40万枚のヒットを果たす。再始動したピンク・レディーとしても、活動を続けている。2月6日(金)には、有楽町マリオン別館7F「I’M A SHOW」にて「増田惠子・ソロデビュー45th anniversary concert I Love Singing スペシャル! ~ソロシングル、カバー、そしてピンク・レディー」を開催予定。
近田春夫(ちかだ・はるお)
1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、半世紀を超えるキャリアを総覧する『未体験白書』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。