猫を「それ」と呼び勝手に飼うことを決めて帰ってきた夫と、生きものを蹴り上げる息子と暮らす妻が下した決断
誰もが抱える悩みや痛み、孤独に寄り添う漫画『夜廻り猫』。涙の匂いを頼りに夜の街を歩く猫・遠藤平蔵が出会う、やさしく静かな物語の魅力を、FRaUwebにて紹介している。
この作品が長く愛され続けてきた理由のひとつは、描かれるテーマが決して非現実的なことではなく、日常で実際に起きうる出来事が描かれているからではないだろうか。
だからこそ読者は物語に共感し、自分自身と重ねながら『夜廻り猫』を手元に置き続けるのだろう。
今回、漫画『夜廻り猫』から取り上げたのは、熟年離婚の危機に直面した家族の物語。ある日突然、猫を連れて会社から帰宅した夫。猫が苦手だと妻が訴えても、夫は「それ飼うから」とだけ言い放つ――。
「それ」飼うから
猫の遠藤平蔵が涙の匂いをかぎつけたのは、とある家庭。そこには仕事から帰ってきた夫を玄関で迎える妻の姿があった。
夫は箱に入った猫を玄関に置きながら妻に言った。
「ああ疲れた! それ飼うから」
言いながらすでに、猫には視線を向けていない。
猫を“それ”と呼ぶそのひと言から、夫がこの小さな命にどんな感情を抱いているかがにじみ出ている。夫が世話をする気配も愛着も感じられない。
挙げ句の果てに、猫が苦手だと訴える妻に夫は声を荒らげる。
「上司がもらい手探してたんだ!」
世話をする気もなく、妻の意向すら確認せずに猫を連れ帰ってきた身勝手な夫に、条件反射のように『ごめんなさい』と謝る妻。これまでも理不尽なことを前にしても反論したことがなかったのではないだろうか。
結局、この猫を飼うことに。しかし、しつけが思うように進まないことに対して放った夫と息子の発言がきっかけとなって、一家に決定的ともいえる出来事が待ち受けていた――。
「家族」とは
妻は「猫の飼い方」の本を買い求め、世話を始めることに。猫に苦手意識を持っていたものの、次第に距離は縮まり、やがて猫は彼女の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らすように。すっかり心を許しているかのようだ。
猫との生活を送っていたある日のこと。同居する息子が大声で怒鳴りながら猫を蹴り上げ、自室から出てきた。
「死ね」
「俺のPCにゲロ吐きやがった」
妻である母は蹴らないでと叫ぶが、息子は聞く耳を持たない。そして夕食の席で、今度は夫が不満を口にする。
「トイレも覚えないんじゃ捨てるしかないだろ」
続いて息子。
「その辺じゃだめだ 帰ってくるから 保健所だよ」
「そんな! もう家族でしょ」

『夜廻り猫』©︎深谷かほる/講談社
彼らの心ない発言に妻は反論をするが、その声が届いた様子はなかった。その夜、妻はひとり、部屋のソファに座って膝の上で眠る猫を撫でている。
どこか寂しげな表情を浮かべながら…。
「もし そこなおまいさん泣いておられるな? 心で」
妻がぽつりと、つぶやく。
「それはね…家族ですもの」
夕食の場での妻の反論が受け入れられなかったのだろう。
「ピーター ごめんね」
猫に謝る妻。その表情だけでは彼女が何を思い、どんな決断をしたのかは、まだわからない。
母の反乱
翌朝だろうか、キッチンで困惑した息子が声を上げる。
「母さん どこまで捨てに行ったんだ メシないじゃん」
どうやら猫を捨てに行って時間がかかっていると思ったのだろう。自分たちの食事の用意がないことに息子は不満げだ。一方、その場にいた夫は、ふとテーブルの上に置かれた一枚の紙に気づく。そして、愕然とした。
それは記入済みの離婚届だったのだ。

『夜廻り猫』©︎深谷かほる/講談社
そう、妻はあの夜、静かに決断していた。
大切な「家族」をいとも簡単に処分しろという夫と息子とは、もう一緒にいられない、と。
猫を「それ」と呼び、妻の意向も聞かずに飼うことを決めた夫。
自分の所有物を汚されただけで、生きものを蹴り上げる息子。
それだけで、今まで妻がどんな扱いを受けてきたのかが、痛いほど伝わってくる。
猫への心ない仕打ちは、行動を起こすための最後の引き金に過ぎなかったのだろう。それまで積み重ねられてきた我慢が、ついに限界に達したのだ。
ようやく二人は気づく。
「オレらが捨てられた!?」
「おまえ一緒に謝れよ」
幸せのために選択肢を増やすこと
このあと、妻は一体どうしたのだろうか。
彼らを許し家に戻ったのか、それとも――。
離婚の理由は十人十色だ。家庭によってさまざまな事情がある。しかし熟年離婚の場合、長年にわたるすれ違いや会話の減少、これまで耐えてきた不満の積み重ねなどが原因となるケースは少なくないだろう。子どもの独立や夫の定年退職など、生活スタイルの変化をきっかけに離婚へと踏み切ることも多いのではないだろうか。しかし、専業主婦の場合、離婚がしたくても、その後の生活費が大きなハードルになって踏みとどまっている人は多いかもしれない。

『夜廻り猫』©︎深谷かほる/講談社
2008年に施行された「年金分割制度(3号分割)」という制度をご存じだろうか。これは、夫が厚生年金加入者の場合、扶養に入っていた配偶者を対象にしたもので、合意の必要なく厚生年金記録から自動的に50%分割できる制度だ。この制度によって熟年離婚へのハードルはだいぶ下がったのではないだろうか。
もし、この物語の女性がこの制度を知らなかったのだとしたら、平蔵がそっと教えてくれたらいいと願う。それは決して離婚を勧めるためではない。選択肢の一つとして知ってほしい、それだけだ。
人は誰もが幸せになる権利を持っている。
その権利を守るために、選択肢を増やすことは、決して悪いことではないのだから。

『夜廻り猫』©︎深谷かほる/講談社
深谷かほる
福島県出身。2015年10月、旧Twitterにて『夜廻り猫』の連載を開始。以後、毎夜のように更新を続け、読者の共感を得る。2017年「夜廻り猫」で第21回手塚治虫文化賞短編賞、第5回ブクログ大賞の漫画部門大賞を受賞。