強烈な放射能でカメラが破壊され…回顧ルポ・東日本大震災「津波で見渡す限り更地」記者が目にした惨状

東日本大震災直後の宮城県南三陸町の様子。’11年3月撮影
目の前には生々しい光景が広がっていた。グニャグニャに折れ曲がった数十本の鉄筋、外部にさらけ出された黒焦げの内壁、間断なく立ちのぼる無気味な白い煙……。本誌記者が見た、爆発事故を起こした直後の福島第一原発(福島県双葉郡)の惨状だ。
3月11日で、2万人以上の死者・行方不明者を出した東日本大震災の発生から15年が経つ。現在でも、被災地が完全に復旧したとはとても言い難い未曽有の災害だ。記者は震災発生直後に、たびたび被災地を取材。目にした巨大な津波のツメ痕や原発事故の様子を回顧したい――。
東日本大震災が起きてから数週間後、記者が向かったのは福島県南相馬市だ。幹線道路から住宅街に入ると最大震度7を記録した揺れにより多くの建物が被害を受けていたが、言葉を失ったのは海側にある地域とを隔てる土手の上にあがった時だった。見渡す限りの更地……。高さ数mの津波が襲い、建物も車も、そして人間も押し流してしまったのである。難を逃れた近隣住民は、当時こう語っていた。
「近くの施設に写真が掲示されているのですが、最初何が写っているのかわかりませんでした。海水を含んだ膨らんだ身体……。津波の被害に遭われた方々のご遺体の写真です。ご遺体の身元を遺族の方が確認するために掲示されていました」
「車より速いスピードで津波が」

東日本大震災の巨大津波で宮城県気仙沼市の市街中心部に打ち上げられた約380tの「第三龍神丸」。’11年3月撮影
岩手県釜石市で、津波の恐ろしさを語ったのは70代の男性Aさんだ。当時、すさまじい揺れに驚き自宅から外に出たAさん。しばらくすると海岸のほうからゴゴゴゴゴと恐ろしい地鳴りがし、空を覆うほどの高さの巨大津波が電柱や木をなぎ倒しながら迫ってきたという。
「車より速いスピードで津波が近づいてきます。妻と私は逃げる余裕もなく、アッという間に津波にのみ込まれてしまいました。すさまじい勢いで流され、水面から顔を出すのがやっとです。『もうダメだ。このまま死んでしまうのか』。
そう思った時、目の前に近所の見覚えのある家の2階の窓が見えました。私は必死に窓枠につかまり屋内に入ったんです。しかし濁流の中には、まだ妻がいます。無我夢中で周囲を探すと、流されている人々の中に畳につかまっている妻を発見しました。私は室内にあったバスタオルをロープ代わりに、近づいてきた妻へ向かって投げたんです」
幸いAさんの奥さんはロープをつかむことができ、室内へ引っ張られた。
「窮地を脱した私たちでしたが、恐怖と寒さでしゃべることもできません。しばらくは無言で、ただブルブルと震えていました」
Aさん夫婦は身体を温めるため、ズブ濡れの服を脱ぎ全裸で抱き合った。身体が温まると、タンスの中にあった若い女性の服を着て水が引くのを待つ。避難所に指定された中学校の体育館に向かい、ようやく一安心したのは夕方になってからだった。
「カメラが急に動かなくなった……」

原発20km圏内。防護服とマスクでご遺体の捜索をする警視庁機動隊。’11年3月撮影
記者は原発事故の惨状も目にした。それが冒頭で紹介した場面である。
福島第一原発(以下、イチエフ)が爆発事故を起こしてからしばらくして。記者は原発作業員の協力を得てカメラマンとともに現地へ向かった。目撃したのは、イチエフの正門から南に10分ほど歩いた小高い丘から望む、震災発生から4日後に水素爆発を起こした4号機原子炉建屋の無残な様子だ。
眼前に広がる光景に茫然としていると、突如、異変が起きる。隣でシャッターを押していたカメラマンが、いぶかしげにつぶやいた。
「おかしい。カメラが急に動かなくなった……」
カメラをのぞき込むと、撮った画像がモニターに写らない。近くに停めていた車に戻り確認すると、カメラ本体は復旧したもののメモリーカードに保存されていた画像はすべて失われていた。何が起こったのだろう。当時取材した専門家はこう説明している。
「原発から放出される強烈な放射能の影響で、カメラが破壊されたのでしょう。人間は0.4~0.8ミクロンの波長の光しか感じませんが、放射能は0.4ミクロン以下の目に見えない光です。当然、カメラは光を写します。人間が感じなくても、放射能のすさまじい光で画像が消え去り、メモリーカードがおかしくなってしまったのかもしれません」
事故直後イチエフで働いていた作業員は、内部の様子についてこう証言していた。
「グニャリと曲がった4号機の鉄筋の直径は20㎝近くあります。そんな太い鉄の棒が、何十本も飴細工のように曲がってしまうほど爆発の威力がすさまじかったのでしょう。
地上もひどい状況です。1号機近くには敷地内を移動するためのバスの停留所があるのですが、その前に高さ10mはあると思われる重油タンクが吹き飛ばされ、黒焦げになって道を塞いでいました。重量200tのクレーン車もグシャグシャに壊れ、そこら中に消火用のホースが散乱していた。戦場のような光景です」
あれから15年――。月日が経ったとはいえ、大地震や津波、原発事故の記憶を薄れさせてはならないだろう。当時の体験は、きっと後世の人々に役立つはずだから。

事故直後の3号機原子炉建屋の様子。大量のガレキを重機が撤去している(’11年、東京電力提供)

巨大地震と火災、津波で太平洋沿岸の東北地方の都市が甚大な被害を被った。’11年3月撮影

海岸線から撮ったイチエフ。敷地内に津波で流された車やガレキが溜まっている。右上に見えるのは爆発した原子炉建屋。’11年4月撮影

イチエフ近くも道路が陥没するなど大きな被害が……。’11年4月撮影

震災直後のイチエフ付近の様子。’11年4月撮影

門の外部から原発内を撮影する記者。’11年4月撮影