46歳で欧州移住→夫と死別「73歳彼女の異国生活」

広子さん(73歳)の現在の暮らし, 壊れかけて、それでも続いた関係, 夫はずっと『第二のお母さん』を求めていた, 1年の闘病、そして“最期の言葉”, 「私はやっぱり異端児なんだな」, 夫の書いた日記を何度も読み返す

自宅の前で犬たちと。この家が広子さんの「居場所」だ(写真:筆者撮影)

50年連れ添ったイギリス人の夫を、肺がんで亡くしたハートレー広子さん(73歳)。

【クリックして写真を見る】広子さんが暮らすスペインの「素敵な豪邸」。もともとはサッカークラブオーナーの別荘だったという

夫を看取ってから、まもなく4年になる。水道も通っていなかった山あいの一軒家で夫を介護し、看取り、そしてひとりになった。

「夫を亡くし、1つの区切りを終えました。私は私で生きていかなきゃ」

そう静かに笑う広子さんの壮絶な過去と現在の暮らしに迫る。

前編の続きです)

広子さん(73歳)の現在の暮らし

広子さんが暮らすのは、スペイン北部の山あいの村。「本当にこの先に家があるのか」と不安になるほどの山道を進むと、ぽつんと一軒の家が現れる。

最寄りのスーパーまでは4km。犬2匹、猫2匹が同居人だ。

広子さんは毎朝8時くらいに起きて、犬猫に餌をやる。庭の手入れをし、芝刈り機が壊れれば自分でなんとかし、木が倒れれば知り合いに電話をする。すべてをひとりで回す生活にも、少しずつ慣れてきた。

ただ、――慣れることと、寂しくないことは別だ。

「『今日ね、スーパーの駐車場にかわいい猫がいたのよ』ってその一言を、帰ってきて話す相手がいないのがね……。『ねえねえ』って言って、『そう』って返してもらうだけでいい。人に電話するほどのことじゃないでしょう」

小さな会話の不在が、いちばん堪える。

広子さん(73歳)の現在の暮らし, 壊れかけて、それでも続いた関係, 夫はずっと『第二のお母さん』を求めていた, 1年の闘病、そして“最期の言葉”, 「私はやっぱり異端児なんだな」, 夫の書いた日記を何度も読み返す

広子さんの家へと続く道。県道からは見えない山の中にある(写真:筆者撮影)

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広子さんが暮らす山あいの素敵な豪邸。この家に水道が通ったのは2016年。それまでの17年間は雨水を使い、料理用の水は湧き水を汲みに行っていた(写真:筆者撮影)

壊れかけて、それでも続いた関係

広子さんがスペインに渡ったのは1999年。46歳の頃だ。

夫はその3年前にスペインへ渡っていた。友人を頼りに生活の基盤を築いていたが、3年に及ぶ遠距離の日々は、ふたりの生活リズムを別のものにするには十分だった。

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スペイン移住後のふたり。広子さん54歳、夫スチュワートさん61歳の頃(写真:ハートレー広子さん提供)

イギリスでは博士課程を修め、日本でも大学教授として敬われた夫は、この土地ではただの「外国人」になった。ブリティッシュスーツを着ても、誰も振り返らない。博士号をぶら下げて歩くわけにもいかない。築いてきたものが一切通用しない。その苛立ちは暴言となって、すべて広子さんに向かった。

広子さんにも逃げ場はなかった。スペイン語は「ブエノスディアス(おはよう)」くらいしかわからない。気持ちを打ち明けられる相手もいなかった。更年期も重なっていた。

「毎日ね、なんで私ここにいるんだろう、何やってんだろうって考えていました。あの人は1人で生活できるし、私が死んだとしても、悲しいよって半年くらいは泣くかもしれないけど、適当に新しい相手も見つかるでしょ。なんで生きてるんだろうって」

うつ状態が続き耐えられなくなった広子さんは一度、家を出ている。その頃、同じ村に住むスペイン人の友人が保証人になってくれ、車で30分ほどのサンタンデール市内にアパートを借りた。その住所は夫に告げなかった。

「6カ月間、離れて暮らしました。その時は、すごく自由になった気分でした」

それでも毎朝、携帯電話が鳴った。「なんで毎朝かけてくんの、って思ったけどね」と広子さんは笑う。

離婚は本気で考えていた。それでも、踏み切れなかった。同じ村の友人がカウンセリングも勧めてくれた。夫も応じ、ふたりで通い始めた。劇的な変化があったわけではない。ただ、第三者の前で言葉にすることで、お互い少しずつ自分自身が見えてきた。

「後から考えると、根底には、人間として好きな気持ちが残っていた。表面ではすごく喧嘩してたけど、やっぱりお互いに、この人しかいないって思ってたのかな。ほんとに嫌ならね、毎朝電話してきて、車出してとか言ってくる必要ないじゃない。歩くなりすればいいんだから。私もついついお世話を焼いてしまっていたし」

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リビングルームの壁には半世紀にわたる結婚生活の写真が並ぶ(写真:筆者撮影)

夫はずっと『第二のお母さん』を求めていた

夫の体に異変が出始めたのは、スペインに来てしばらくしてからだった。

もともと体が強いタイプではなかった。怪我が増え、やがて大きな脳梗塞を経験する。後遺症はなかったが、その後も大腿骨を2度骨折。手術をしても完全には回復せず、車椅子生活になった。

車への乗せ降ろし、庭への移動……そのすべてを、広子さんが担った。車椅子を車に積み、降ろし、夫を乗せ、また降ろす。坂道は車椅子を押す力では登れないから、車を坂の下まで持ってきて、夫を乗せて上まで運ぶ。腰が悲鳴を上げた。

「1年ほど続けて、このままだと私のほうが先に体を壊してしまうんじゃないか、と不安でした」

「振り返れば、彼はずっと『第二のお母さん』を求めていたのかもしれない。一人息子として母親に何でもしてもらって育って、結婚してからは私がいたでしょう。私自身も世話を焼いてしまうタイプだったから」

その構図が、介護によって否応なく表面に出た。

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半世紀の結婚生活を振り返る広子さん(写真:筆者撮影)

だが、この頃から夫は変わり始めた。

「何をしても『ありがとう』って言うようになりました。ありがとう、ありがとう、ありがとうって。角が取れるってこういうことなんだなと思いました」

「俺にはもうお前しかいないんだよな」

そう口にするようになったのは、亡くなる2年ほど前だった。

広子さんにも、複雑な感情はあった。

「正直ね、『あたしがいないと動けないでしょ、あなた』って思ってるところはありました」

優しさだけではない。意地もある。長年の鬱憤もある。それでも毎日、車椅子を押した。

1年の闘病、そして“最期の言葉”

亡くなる1年前、肺がんが見つかった。夫は驚くほど冷静だった。

「わかってるよ、っていう感じで。動じなかったですね」

治療は免疫療法を選択した。放射線治療はすでに大量の薬を飲んでいる体には負担が大きすぎると、広子さんが医師に相談して決めた。

通院のたび、看護師に優しく声をかけられるのが嬉しそうだったという。

「どう? 大丈夫? お茶とか欲しい?」といった、いたれりつくせりの対応に、夫は通院を楽しみにすらしていた。

「私はそんなふうに『大丈夫?』なんて言ってなかったから」と広子さんは苦笑する。

それでも、夫は最後まで「大丈夫」と言い続けた。痛みも弱音も、ほとんど口にしなかった。

2022年8月11日。暑い日だった。

夕方、呼吸が苦しいと言い出し、救急車を呼んだ。だが、しばらくすると落ち着いた。「ちょっと早まったかしら」と思うほどだった。

それでも念のため病院へ向かうことにした。救急車に夫を乗せる。自分は帰りの足がなくなるから、車で後を追うことにした。

「じゃあね、あとで行くから」

そう言うと、夫は手を振って一言。

「バーイ」

これが、最後の言葉だった。

病院に着いたときには、すでに意識はなく、肺は機能していなかった。救急車より20分ほど遅れて到着した広子さんに、医師が選択を迫った。延命治療をするか、しないか。

「延命はしないでください。でも、痛みだけは取ってください」

処置のあと、意識は戻らなかった。友人たちが駆けつけたが、もう話すことはできなかった。そのまま、静かに息を引き取った。76歳だった。

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彼らしい最期だったなと思います、と広子さん(写真:筆者撮影)

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夫の書斎。愛用のはんてんや車椅子がそのまま残されている(写真:筆者撮影)

夫を見送った家で、広子さんはいまもひとりで暮らし続けている。

夫が亡くなり、暮らしはさらにシンプルになった。春には裏の竹林からタケノコを掘り、夏にはミョウガを収穫する。たまに友人を家に招いて日本料理を振る舞うのが、ささやかな楽しみだ。嵐の日には木が倒れないかと、友人が電話をくれる。ひとりだが、孤立はしていない。

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山あいの一軒家のキッチン。窓の向こうには緑が広がる(写真:筆者撮影)

「私はやっぱり異端児なんだな」

日本に帰ろうとは思わないのか、尋ねてみた。

「今はこの子たち(犬猫)もいるし、考えてないですね」

広子さんには日本に2人の姉がいる。姪も甥も実家の近くに住んでいる。

「出てきた時は、自分がそんなに異端児だとは思わなかった。でも、長く離れて暮らしてみると、私はやっぱり異端児なんだな、って日本に戻ると感じます」

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犬たちと一緒に台所に立つ広子さん(写真:筆者撮影)

ただ、不安がないわけではない。同年代の友人が大きな病気で倒れたとき、それまで自立していたその人が娘に頼る姿を目の当たりにした。

「あと10年は頑張れると思う。でもそのあとは……って、考えることはあります」

それでも、窓を開ければ山と空が広がるこの家を離れる気にはなれないという。

「ここにいる方が、圧倒的に楽なの」

暮らしを支える経済的な基盤もある。月々の生活費は約20万円。家の維持費はかかるが、医療費はスペインの公的医療でカバーされる。夫の闘病中も、治療費の自己負担はなかった。

収入は父親から相続したマンションの家賃と、日本で働いていた分の年金。唯一の贅沢は、日本米を食べていること。

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山あいの一軒家で、すべてをひとりで回す日々が続く(写真:筆者撮影)

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広子さんに集まってくる犬猫たち(写真:筆者撮影)

夫の書いた日記を何度も読み返す

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友人を招いて日本料理を振る舞うのが夫婦の楽しみだった。広子さん61歳、夫スチュワートさん68歳の頃(写真:ハートレー広子さん提供)

取材に行った日、夫が旅先でつけていた日記を見せてもらった。広子さんの名前が出てくる箇所がいくつかある。

あるページに、星印がついていた。以前、夫婦で泊まったバンコクのホテルの話だ。人懐っこい太った猫がいて、いつも同じ場所で寝そべっていたという。夫はひとり旅でそのホテルを再び訪れたらしい。星印の横に、こう書かれていた。

<☆広子に言うこと。あの時の太った猫はね、まだあそこで寝てるよ>

ただそれだけのこと。たわいもない、小さな報告。でもそれを、帰ってきて広子さんに話したかったのだ。広子さんはその日記を何度も読み返しているという。

「ねえねえ」と言う相手は、もういない。でも、居間の写真の中の夫は、あの頃と同じ顔で今もそこにいる。

今日も広子さんは、その写真に話しかける。