上杉昇はなぜWANDSを去ったのか? 「世界が終るまでは…」に込めた別れと、歌い続けた35年

1990年代前半、「世界が終るまでは…」などのヒット曲で音楽チャートを席巻したバンド「WANDS」。91年にデビューしたこのバンドで、上杉昇さんはボーカルとして脚光を浴びた。だからこそ、デビューから6年後に決断した突然の脱退は、多くのファンに衝撃をもって受け止められた。2026年にデビュー35周年を迎える上杉さんが、なぜWANDSを去る決断に至ったのか。華やかな成功の裏で人知れず抱えていた葛藤と、歌い続ける現在の心境について語った。(全2回の2回目/前編から続く)
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■ロックと呼べない音楽は自分の“恥部”と思っていた
――数あるヒット曲の中でも、1992年リリースの中山美穂さんとコラボレーションした「世界中の誰よりきっと」は累計200万枚超と大ヒットし、「演奏 WANDS」として同年のNHK紅白歌合戦にも出場されました。
自分が世の中に知られるきっかけとなったのは、間違いなく美穂さんとの曲があったからです。一緒に歌ってくださって、恩人のように感じています。2024年12月に54歳で急逝されたときはびっくりしました。紅白のとき、主役はもちろん美穂さんで、僕はバックバンドの扱いだったので、「もしMCに振られたら助けてください」とお願いしていたんです。実際にMCに振られたときには助けてくださって。この歌だけでのお付き合いでしたが、芸能界の先輩として守ってくださったし、今でも非常に感謝しています。
ただ若かったあのころは、自分がやりたかった、ロックと呼べるようなものを表現できていないと、自分の恥部のように思ってしまっていました。この過去を払拭したいという思いがとても強かった。世間のイメージと僕自身の考えのギャップを消化しきれなかったんです。
――1994年リリースの「世界が終るまでは…」が最後のミリオンヒットとなり、これ以降、音楽性は変化していきました。
「世界中の誰よりきっと」の影響力もものすごく強くて、たとえば渋谷公会堂とか中野サンプラザとかで、ステージに出ていくと歓声が超音波みたいなんです。自分が追求していた音楽からすると、僕が望んでいた、想像していたものとは大きな開きがあった。
このイメージを塗り替えるには、同じフレーズを使ってロックといえるようなものを残すしかないと考えました。だから紅白から1年半後の「世界が終るまでは…」は、タイトルを先に決めたんです。それまでの、望んでいなかった僕を作り上げてきた「世界」を終わらせたかったから。

■「世界中の誰よりきっと」今では日本でも歌う
――その後、97年にWANDSを脱退されます。
「世界が終るまでは…」を出す直前の94年4月に、敬愛していたNIRVANA(ニルヴァーナ)のカート・コバーンが亡くなり、自死ともいわれました。そのとき、彼の曲や歌詞、悲鳴のような叫びが、妙にリアルに生々しく感じて、「何やってたんだろう、俺は」「自分のスピリットを何も残せていない」と。それが脱退を決めるきっかけでした。だから、カート・コバーンが亡くなっていなかったら、迷いながらもWANDSを続けていたんじゃないかなと思います。
――脱退後、WANDSのギタリストだった柴崎浩さんとal.ni.co(アルニコ)を結成されて以降は解放されたような思いがあったのでしょうか。
解放もあったかもしれませんが、それまで作り上げてきたものがあまりにも大きくて。それを払拭する作業がずっと続きました。“売れ線”音楽みたいなものの否定をずっとやっていましたし、それまでの長髪から、短髪、ひげ、太る、スキンヘッドと、自分のビジュアルを変えていったのも、イメージを固定されたくないという強い思いからでした。
――過去を払拭できたのはいつごろだったのでしょうか。
払拭できたとはいまだに思っていません。ただ、考え方には変化があって。アルニコの後、ソロバンドを経て、2006年に猫騙(ねこだまし)というバンドを始めたころです。猫騙で全国の小さなライブハウスを回っていたとき、ミラクルを信じている自分がいることに気づいたんです。自分が最高のパフォーマンスをすれば、おのずと人は集まってくるんじゃないかと。どこかでそう信じて、ひたすらライブを重ねていました。ライブハウスでいろんなバンドと対バンしても、負けたと思ったことが一度もなかった。だから自信がどんどんついていったし、「WANDSの上杉」ではなく、“本来の自分”が出せていたこのころは本当に楽しかった。表現者として生き生きとやれていたから。
――現在は中国をはじめ、海外での活動を精力的にこなされています。
今は過去を払拭するといったフェーズからはまた変化しました。これまで、たびたび海外からWANDS時代の曲を歌ってほしいというオファーをもらうこともありましたが、ためらいや抵抗を持っていて、すべて断ってきました。そんな中で、熱心に日本まで何度も直接会いに来てオファーをしてくださる方もいた。熱意におされ、一度きりのつもりで受けたんです。コロナ禍前のことでした。
実際に中国に行ってみると、自分の歌を聞きに来てくれた人の多さと、みんなが一斉に日本語で一緒に歌ってくれる姿に感動しました。そのころから、WANDSで自分がやってきたことをすべて否定するのではなく、苦しみながらも自分なりに頑張っていたという事実や、人に与えてきた影響を受け入れ、今を支えてくれているファンとのつながりへの感謝も芽生えてきた。30年以上歌ってこなかった「世界中の誰よりきっと」も、美穂さんや多くのファンへの感謝の気持ちが募り、今では日本でも歌うようになりました。

■WANDS時代の自分も、今の自分も本当
――疑問や不満を抱えながら才能を発揮されていたわけですね。今、どう振り返りますか。
難しい問題だと思います。僕自身でいえば、WANDS時代にあの世界観を書いていた自分も本当だし、今の自分も本当。本来、音楽は商売にするものではなく、芸術であって、誰かにわかってもらおうとして作るわけじゃない。こういうの好きでしょ?と作るのも聞き手に対して失礼だし、おごりがあると思うんです。それでも、僕にはそういう時期があって、今がある。だからどちらも自分の中にあって、答えは出せないですね。
――今年の年末にはデビュー35周年を迎えます。
振り返ると、ロックミュージックに翻弄された35年間で、過激な人生だったなと思いますね。望んではいましたが、いろんな意味での過激さが多かったというか。今は、昔のようにハードロックやヘビーメタルといった括りにこだわっていません。ただ純粋に、自分の声が生きる曲を歌いたいという思いが一番強いんです。来年は何かスペシャルなことができたらと考えています。50歳を超えて加齢には抗(あらが)いたいとは思いつつも、これからは“アンティーク”になっていくと思うので、ただのガラクタにならないように、自分に磨きをかけて、ファンの方々の期待に応え続けられたらいいなと思っています。
(構成/AERA編集部・秦正理)
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