紫式部の夫・藤原宣孝の知られざる素顔、天皇に叱られても弁解しない「適当な生き方」とは?

勧修寺宸殿 写真/倉本 一宏

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。

*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分​)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が発売中です。

紫式部とは父と娘ほどの年齢差があった

 紫式部(むらさきしきぶ/藤式部[とうしきぶ])の夫として有名ではあるが、その実像は知られていない藤原宣孝(のぶたか)の一面について紹介しよう。

 宣孝は、藤原北家高藤(たかふじ)流で、権中納言藤原為輔(ためすけ)の子とて生まれた。母は藤原北家魚名(うおな)流の参議藤原守義(もりよし)の女。生年は不詳だが、紫式部とは父と娘ほどの年齢差があった(一男の隆光が紫式部とほぼ同年)。

制作/アトリエ・プラン

 宣孝は右大臣定方の曽孫という名門で、また有能な官人であり、賀茂祭の舞人をしばしば務めるなど、雅な一面も持っていた。長保(ちょうほう)元年(九九九)の賀茂臨時祭調楽では神楽の人長(舞人の長)を務め、「甚だ絶妙である」との評も得ている(『権記(ごんき)』)。『藤原宣孝記(ふじわらののぶたかき)』という日記も記録している(『家記書目備考(かきしょくもくびこう)』)。『西宮記(さいきゅうき)』『祈雨日記(きうにっき)』に天元(てんげん)五年(九八二)から長保二年(一〇〇〇)までの逸文六条が残されているが、いずれも右衛門権佐として、著釱政(囚人に釱を付け、検非違使が鞭打つまねをした公事)、神泉苑の祈雨御修法、市政(著釱政)といった公事を丁寧に記録しているものである。

 その一方では、派手で明朗闊達、悪く言えば放埒な性格でもあったようである。永観(えいかん)二年(九八四)の賀茂臨時祭については後に述べることとして、寛和(かんな)元年(九八五)に丹生社に祈雨使として発遣された際には大和国の人の為に小舎人および従者を陵轢され、そのためか殿上人の簡を削られて昇殿を止められ、官も追われそうになっている(『大斎院前御集(だいさいいんさきのぎょしゅう)』)。この時は文名の高い大斎院選子(せんし)内親王の女房たちから慰めの歌を贈られるなど、その人気のほどが知られる。

 正暦(しょうりゃく)元年(九九〇)にも、「きっとまさか『身なりを悪くして参詣せよ』と御嶽の蔵王権現はけっしておっしゃるまい」などと言って隆光とともに、「紫のとても濃い指貫に白い狩襖、山吹色のひどく大げさな派手な色の衣」といった装束で金峯山詣をおこなったことが、『枕草子(まくらのそうし)』第一一五段「あはれなるもの」に描かれている。なお、私はこの「金峯山詣」が本当に山上ヶ岳(標高一七一九m)の山頂まで登り、金剛蔵王が湧出したという御在所に参拝したのか、いささか疑問に思っている。

 さて、今回紹介するのは『小右記(しょうゆうき)』に記録された、永観二年の失敗についてである。

 永観二年十一月二十七日条には、

丑剋、儀が終わった。侍従(藤原)斉信(ただのぶ)・(源)時叙(ときのぶ)・蔵人左衛門尉(藤原)宣孝(のぶたか)は、御禊の間、御馬を牽かなかった。天皇の機嫌は、宜しくなかった。おっしゃって云ったことには、「今日、御馬を牽かなかった男は、神楽の座に伺候させてはならない」ということだ。そこですぐにそのことを命じ、その座に伺候させなかった。また、おっしゃって云ったことには、「後日、召問するように」ということだ。暁方、退出した。

とあり、賀茂臨時祭に際して、御馬を牽く役を務めずに花山天皇の機嫌を損ね、神楽の座から追却されて、後日、召問するよう命じられたというものである。まあ、真冬に馬を牽くなんて、考えただけでも寒そうなのであるが(永観二年十一月二十七日はユリウス暦で十二月二十一日)、それにしても役を割りあてられたら、きちんと務めるのが官人としての義務であろう。

 そして二日後の永観二年十一月二十九日条には、

小雨であった。御物忌とはいっても、内裏に参った。宣孝を陣の腋の辺りに召し、御馬を牽かなかったことを問うた。まったく弁解することは無かった。御物忌であったので、奏聞することができなかった。院に参った。候宿した。陪膳の役を奉仕した。

 という記事がある。召問されても弁解することが無かったというのも、宣孝のいい加減な性格を表わしているかのようである。

 そのまた二日後の十二月一日、宣孝の処分が下された。『小右記』永観二年十二月一日条には、

早朝、院(円融[えんゆう]上皇)から退出した。内裏に参った。(藤原)宣孝の事を奏上した次いでに、重ねて(藤原)斉信と(源)時叙の事を申した。「これは昇殿ではない者です。また、特に所職ではありません。勘責が有るとはいっても、これを如何しましょう。また、この両人は、年齢がはなはだ若いのです。自然に過怠したものでしょうか。その他の一、二の者は、そうではあってはならないとはいっても、また、御馬を牽きませんでした。近代、通例となっています。又々、仰せ事を承って、これを問い糺すことにします」と。花山(かざん)天皇がおっしゃって云ったことには、「両人を特に仰せ誡めるように。また、父の丞相(源雅信[まさのぶ])と納言(藤原為光[ためみつ])に伝えるように。宣孝については、特に誡めて免すように」ということだ。すぐに宣孝を召し遣わした。

とある。藤原斉信と源時叙の二人は、年齢がはなはだ若いから自然と過怠したのであろうということで、実資は不問に付そうと花山天皇に奏上したのであるが、花山は二人を訓戒するよう命じている。なお、斉信は太政大臣為光(ためみつ)の子で、後に道長(みちなが)の側近として大納言まで上っている。時叙は宇多源氏の左大臣雅信(まさのぶ)の子、ということは道長の嫡妻である倫子(りんし)の弟ということになる。こちらは二年後に出家して寂源(じゃくげん)と称した。

 さて、宣孝の方は、御馬を牽かなかったとはいっても、近代ではそれが通例となっているとのことで、実資は、こちらは天皇の仰せ事を承って、これを問い糺すことにすると奏上した。もう宣孝は立派な大人で蔵人なのであるから、このような違例は許さないという峻厳な態度である。ところが、こちらについて、花山は、「宣孝については、特に誡めて免すように」と、これを宥免している。放埒な宣孝は、花山とうまが合ったのであろうか。

 その後、宣孝は長保元年(九九九)に宇佐奉幣使を命じられ、十一月二十七日に発遣されている(『日本紀略(にほんきりゃく)』『権記』)。宣孝は翌長保二年(一〇〇〇)二月に帰京し、道長に馬二疋を献上したりしている(『御堂関白記(みどうかんぱくき)』)。

 しかし、それは九州からはじまった疫病流行の最中であった。帰京後の宣孝は四月一日に平野臨時祭勅使を務め(『御堂関白記』『権記』)、七月二十七日の相撲の召合に参列し、九月五日に山城国が進上した葛野郡の図帳に封を加え、十月十五日の殿上の楽にも召されているから(『権記』)、ただちに宇佐使と疫病を結びつけるわけにはいかないが、何らかの影響があった可能性も捨てきれない。

 長保三年(一〇〇一)になっても、正月二日に一条に屠蘇を供した際に後取(天皇が飲んだ余りを飲む役)を務めるなど、宣孝は忙しい日々を送っていた。ところが二月五日に、宣孝は春日祭使代官の替わりとして道長から呼び出されたものの、「痔病が発動」して不参であった(『権記』)。二箇月後に死を迎えることから考えて、現在の痔疾患にとどまらない重病、下血を伴う内臓疾患であった可能性が高い。

 そして四月二十五日、宣孝は死去した(『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』)。紫式部は結婚後わずか二年半ほどで寡婦となってしまったのである。『紫式部日記(むらさきしきぶにっき)』には、後の述懐として、「夫を亡くして将来の頼みもないのは、ほんとうに思い慰める方法すらもありませんが、しかしせめて寂しさのあまりに心すさんで自棄的なふるまいをする身だとだけは、思いますまい」という記述が見える。

 なお、宣孝の子孫は勧修寺流の嫡流となり、院政期に為房(ためふさ)・顕隆(あきたか)父子が白河(しらかわ)院の近臣として権勢を振るってから繁栄した。弁官を歴任して蔵人頭に補され、上皇や摂関に近仕して実務を執る家柄を形成した。特に顕隆は白河法皇の「寵愛」を受けて政策の決定にも関わり、「天下の政は、この人の言に有る」(『中右記(ちゅうゆうき)』)と非難され、後世には「夜の関白」と称されたともいう(『今鏡(いまかがみ)』)。

 為隆・顕隆(葉室(はむろ)家の祖)の二流はその後も栄え、為隆孫の経房(つねふさ)が源頼朝(よりとも)の信任を得て活躍して以来、その子孫が繁栄して数家に分かれ、吉田(よしだ)・甘露寺(かんろじ)・坊城(ぼうじょう)・万里小路(までのこうじ)などを称した。また、南北朝時代の内大臣経顕(つねあき)以来、嫡流は勧修寺家を称した。

 また、『葉黄記(ようこうき)』(葉室定嗣[さだつぐ])、『吉記(きっき)』(吉田経房)、『親長卿記(ちかながきょうき)』(甘露寺親長[ちかなが])、『宣胤卿記(のぶたねきょうき)』(中御門宣胤[のぶたね])、『晴豊公記(はれとよこうき)』(勧修寺晴豊[はれとよ])などを記録する「日記の家」でもあった。

『続 平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)

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