『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』レビュー 変化もドラマもない、あまりに無難な「スター・ウォーズ」

Disney+で『マンダロリアン』が始まった当時、「スター・ウォーズ」初の実写ドラマシリーズを特別なものにしていた要素のひとつは、旧三部作の持っていた驚きや高揚感を見事に呼び起こしつつ、帝国崩壊後の銀河を舞台に独自の道を切り開いていた点にあった。「マンドー」ことディン・ジャリンとその「息子」グローグーの劇場デビュー作であり、「スター・ウォーズ」の映画作品としては約7年ぶりの新作となる『スター・ウォーズ/マンダロリアン・アンド・グローグー』は、しかし、冒頭からほとんど即座に自己満足的なノスタルジーの反復へと陥り、そこから抜け出せないまま進んでいく。

「マンダロリアン・アンド・グローグー」の筋立ては極めて単純だ。賞金稼ぎのマンダロリアンとグローグーは、新共和国のウォード大佐(シガニー・ウィーバー)から、亡きジャバ・ザ・ハットの息子であるロッタ(ジェレミー・アレン・ホワイト)を連れ戻す任務を請け負う。依頼主はジャバのいとこにあたる双子のハットで、このキャラクターはドラマ『ボバ・フェット/The Book of Boba Fett』においてタトゥイーンの支配に失敗したものの、その後も権力掌握を進めようとしている。

形式上は『マンダロリアン』シーズン3の続きではあるものの、映画はその下地を実質的にまったく利用しておらず、その徹底ぶりにはこちらが困惑させられるほどだ。Disney+で3シーズンもかけ、「スター・ウォーズ」の世界の一角に固有のキャラクターや文化を築き上げてきたにもかかわらず、本作は意図的に、『マンダロリアン』を「聞いたことがあるだけ」の観客向けに作られているように見える。

おそらく、これは一般の観客にとって入りやすい導線となるだろうし、これまで映画シリーズにのみ触れてきた人々にとっても、マンダロリアンがグローグーの子守をしつつ鍛錬もしながら任務を遂行しようとする、いつもの流れを見るだけでも十分楽しいだろう。だが、この7年間カーボン冷凍されていなかった多くの「スター・ウォーズ」ファンにとっては、本作で起こる展開の大半が、すでにドラマシリーズで見てきた流れの繰り返しに感じられる。その結果、マンドーがヘルメットを外す瞬間や、グローグーがフォースを使う瞬間といった重要な場面にも、本作は悲しいほど新しい意味を付け加えられていない。

映画のタイトルにその名を冠する以上、グローグーにはもっと主体性があるものと思うだろう。だが、本作ではこれほど大きな存在感を持たされることで、グローグーのキャラクターとしての弱点がむしろ浮き彫りになっている。たしかに、ポッドレーサー並みの速度が出そうな乳母車で駆け抜ける場面など、グローグーが積極的にアクションに関わるシーンはある。しかしこの映画では、グローグーの衝動的な振る舞いに、ほとんど何の悪影響も伴わない。したがって、彼が毎回「かわいい悪ガキ」的な行動をとっては何の報いも受けずに済む姿を見せられても、そこに目新しさはほぼ感じられない。

ドラマシリーズにおいては、グローグーをディン・ジャリンの旅路を動かす軸として機能させることで、この問題をうまく回避していた。小さな緑色の生き物との関わりを通じて、賞金稼ぎであるディン・ジャリンに選択を迫り、変化を促していたからだ。だからこそ「マンダロリアン・アンド・グローグー」は、限られた手段しか持たないグローグーが世界とどう関わるのかを通じて、もっと創意工夫に富んだ物語を紡ぐ必要があった。しかし実際には、赤ん坊のような鳴き声や空腹のアピールで観客の気を引こうとする以上のものはほとんどない。

一方のディン・ジャリンも、グローグーの秘めたる能力や、彼がマンダロリアンの理念を理解しているかどうかを見誤ることがまったくないため、予測不能な行動をとる相棒に合わせて作戦変更を迫られたとしても、大抵は「簡単なプランBへの切り替え」程度で済んでしまう。結果として、ディン・ジャリン役のペドロ・パスカルも、マンダロリアン特有の冷静さから外れた演技をする機会をほとんど与えられていない。映画が始まった時点から、2人はすでに非常に有能で、お互いを深く理解している。ジョン・ファヴロー、デイヴ・フィローニ、ノア・クロアが手がけた脚本は、その均衡を崩すことにまったく興味がないように見える。これは「スター・ウォーズ」史上最も対立や葛藤を避けた作品であり、そのことは、本作がシリーズ史上最も退屈な映画に感じられることと無関係には思えない。

ドラマの面がほぼ機能していない以上、観客はスペースファンタジーとしてのスペクタクルに期待することになる。だが、アクションも散漫だ。劇中で最もエキサイティングなのは、マンドーとロッタが「デジャリック・マッチ」で共闘する場面だろう。その名が示すとおり、これはミレニアム・ファルコンにも搭載されていたボードゲーム「デジャリック」のモンスターたちが実物として現れ、闘技場で実際に戦うというものだ。『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』で描かれたジオノーシスの闘技場を思わせるものでもあるが、本作のアクションにおける最大の弱点が露呈するのもまた、この場面においてである。

マンドーは本来、近接戦闘の中で真価を発揮するタイプのキャラクターだ。しかし本作では、その戦闘シーンがどうにも見づらい。本作は、狭い空間でマンドーをCGのクリーチャーやドロイドと戦わせる構図を好んで多用しているのだが、ジョン・ファヴロー監督の演出は、スタントダブルのブレンダン・ウェインとラティーフ・クラウダーが体現するマンドーの機転や容赦のなさを、十分に際立たせられていない。

シリーズの音楽を手がけてきたルドウィグ・ゴランソンには見せ場がいくつかあり、シンセサイザーを強調したバージョンのテーマ曲は実にかっこいい。しかし、第3幕で本当に勢いが必要になる場面では、ゴランソンの音楽も映画に十分な活力を与えきれていない。

新共和国のウォード大佐役を演じるシガニー・ウィーバー。(C)2026 Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved.

今後、本作に対して広く語られる批判が、「ドラマシリーズを無理やり短く切り詰めたような作品」あるいは「長すぎる1エピソード」といったものになるのはおそらく避けられないように思える。だがここで、そうした指摘に少し文脈を補っておくことは重要だろう。『マンダロリアン』のシーズン4にもなり得たであろう内容の「見どころだけ」を抜き出して映画化することが、なぜ根本的にうまくいかないのか、という点についてだ。

『マンダロリアン』の各シーズンは全8話構成で、7〜8時間かけて物語を展開できる余裕があった。加えて、各エピソードごとにテンポやジャンルの色を変えたり、あるいは物語上の出来事がキャラクターにもたらす長期的な変化の度合いを調整したりもできる。だが、映画に与えられる時間はせいぜい2時間程度だ(本作は2時間12分)。そこでは、物語の勢いや緊張感をどう積み上げ、どう持続させるかについて、はるかに高い集中力と規律が求められる。

構成の面から見ると、「マンダロリアン・アンド・グローグー」は、ドラマシリーズ的な語りと映画的な語りのあいだで終始引き裂かれている。冒頭から場当たり的にエピソードをつないでいくような展開が続き、しかも劇中で起こる出来事のどれにも、決定的な変化として残そうという意思が感じられない。オープニングでは、雪に覆われた惑星で帝国軍の残党を追うマンドーとグローグーが描かれるが、これはマンドーが廊下を進みながらストームトルーパーを片付ける様子を数分見せるもので、その後の本筋とは完全に切り離されている。

それぞれのシーンもまた、ただ任務の次の段階へ進むためだけに存在しているように見える。それは同時に、ファヴローとフィローニが今後もこのサブシリーズを続ける場合に備え、取り返しのつかない変化をできる限り起こすまいとしているようでもあった。マンドーとグローグーの2人を主役に据えた映画、という一大イベントに対するアプローチとしては、これは実際には大きな誤りであるように感じられる。

ドラマシリーズの主要キャストがほぼ全員脇へ追いやられている(満足感の薄いカメオ出演が少しある程度)のも不可解だが、映画に多少の活気を与えている脇役も存在する。シガニー・ウィーバー演じるウォード大佐は、マンドーにミッションを与え、その出来を評価するためだけに存在しているようなキャラクターだ。しかし、若手たちと一緒にXウイングへ飛び乗って戦場に突っ込む姿が容易に想像できる鋼鉄の指揮官役を求めるなら、その場にいるだけでクールなウィーバー以上の人選はなかなかない。

ジェレミー・アレン・ホワイトが声を演じるロッタ・ザ・ハット。(C)2026 LUCASFILM LTD. & TM. ALL RIGHTS RESERVED.

一方、ジェレミー・アレン・ホワイトが声を演じるロッタ・ザ・ハットは、本作で唯一まともな奥行きを持ったキャラクターになっている。彼はジャヌ卿(ジョニー・コイン)というギャングに剣闘士として所有されているが、本人はその状況をそこまで苦にしていない。彼は、犯罪王であったジャバの息子として見られるのではなく、自分の実力で血に飢えた観衆から認められることを喜んでいるのだ。

ホワイトの自然体で抑制の効いた演技、グローグーに対する繊細な接し方、そしてファヴローが「鍛え抜かれたハット族」の戦い方を見せるために用意したアイデアのおかげで、ロッタは画面に出てくるたび歓迎したくなる存在になっている。ただし、映画の序盤では、ジャバとロッタ、そしてマンドーとグローグーという2組の父子関係を対比する意図も示唆されるが、ロッタが物語の中心から外れていくにつれ、そのテーマも放棄されてしまう。

アニメシリーズ『スター・ウォーズ 反乱者たち』の主要キャラクターだったゼブ(スティーヴ・ブラム)も、マンドーの臨時パイロットおよび新共和国との連絡役として映画に登場する。2人の軽口の応酬にはそれなりの楽しさがあるものの、ゼブというキャラクター自体は、物語に本格的に関わる重要人物として扱われているのか、それとも単にアニメシリーズのファンに向けたカメオ出演なのか、どこか中途半端な立ち位置に留まっている。そして、本作の取り込もうとしている一般観客層が、彼の登場にそれほど沸き立つとも思えない。

小さなグローグーと、もっと小さなアンゼラン。(C)2026 Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved.

そんな「マンダロリアン・アンド・グローグー」で唯一の輝かしい功績、唯一安定してスリルを提供してくれる部分、そして裏を返せば、この映画がいかに「スター・ウォーズ」の豊かな世界観を活かせていないかを示す最良の例――それが、中盤でマンドーの宇宙船レイザー・クレストを改造しに現れる、小柄なアンゼランたちだ。『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』に登場したバブ・フリックと同じ種族の彼らは、その後のアクションの大半に同行するのだが、ここで断言しよう。この映画に関して、私が来週になっても愛着を持って覚えていられるのは、きっと彼らだけだ。

それは単に、彼らのぶつぶつしゃべる声が可笑しく、また彼らに命を吹き込むパペットの表現が見事だからではない。アンゼランの存在を通じて、私たちは時折、無個性に均されたマンドーの視点から離れ、地面から30センチにも満たない高さで働く腕利き職人たちの世界を垣間見ることができるのだ。彼らには自前の小型宇宙船があり、その中ではグローグーでさえ巨人のように見える。その絵面自体がとにかく笑えるのだが、それ以上に、本作で数少ない効果的な演出として、「グローグーが(少しずつ)成長し、自立し始めている」ことを実感させてくれる。

だが……「スカイウォーカーの夜明け」に出てきた変なしゃべり方のクリーチャーたちが、「マンダロリアン・アンド・グローグー」という名の映画で最良の要素になってしまっていることに嫌な予感がするなら、本作にはその不安を払拭してくれる材料はほとんどないと言っておこう。