「水戸に吸い取られる街」「商圏が貧弱」と言われていた…茨城県の企業城下町で「唯一の百貨店」が迎えた"残酷な結末"
前回では、日立市唯一の百貨店・ボンベルタ伊勢甚日立店が2005年に閉店するまでの経緯を追った。
【画像23枚】かつては茨城が誇る企業城下町だったが…百貨店が消滅、駅前はガラリ閑散とした「日立」の実態
日立製作所をはじめとする企業城下町の縮小が直接の引き金となり、百貨店は企業の発展とともに生まれ、企業の縮小とともに閉店した。
ただ、それだけでは説明しきれない疑問が残る。最盛期には人口20万人規模を誇った日立市で、なぜ百貨店を1店すら維持できなかったのか。人口が半分以下だった土浦市には3店が存在した一方、なぜ日立市では増えなかったのか。
その答えは、百貨店閉店より50年以上前から既に明らかになっていた。
①企業縮小だけでは説明できない閉店理由
1955年、日本学術振興会は『近代技術の社会的影響に関する実態調査』(日本人文科学会編)という報告書を刊行した。日本ユネスコ国内委員会の委託を受け、54年に実施された調査で、企業城下町・日立市の商業構造が詳細に分析されている。
報告書には、このような記載がある。
「日立市自体の購買力すら水戸、東京に吸収される傾向がみられる」
「東西を海と山ではさまれ、南北に長い自然的環境は向背地に恵まれず」
「日立市商業圏はすなわち日立市のみであるとさえいえる」
注目すべきなのは、この記録が54年、つまり日立が企業城下町として成長を続けていた時代のものだという点だ。百貨店閉店(05年)より50年以上前の時点で、日立の商業が抱える構造的な弱さはすでに分析されていた。
伊勢甚日立店に勤務していた元社員の井手よしひろ氏は、在職当時を「初めから無理な計画だったんだろうと思いながらやっていた」と振り返る。日立の商圏構造には限界があったことを、現場も感じ取っていたのかもしれない。

鹿島町にある伊勢甚の旧店舗。現在は駐車場として使われている(写真:筆者撮影)

てっぺんには伊勢甚のロゴマークが残っていた(写真:筆者撮影)
②顧客の6割が企業関係者だった
同じ調査には、日立市内の商店の顧客構成も記録されている。日鉱・日製関係者が57.4%、一般市民35.5%、農村関係7.1%。
日立の商業は、日立鉱山と日立製作所の従業員、その家族によって支えられていた。
特に、百貨店と相性の良い業種ほど企業依存は強かった。呉服67.2%、時計67.4%、玩具・運動具66.0%が企業関係者による購買だった。日常品ではなく、衣料品や贈答品、趣味性の高い買い回り品ほど、会社員需要への依存度が高かったといえる。
一方で、市外から顧客を呼び込めていたわけでもない。市外居住者の購入地区を見ると、日立市を選んだのは26.7%にとどまり、自町村(35.6%)や水戸(13.6%)へ流れていた。
日立の商業は、企業関係者の消費に依存する「閉じた商圏」だったのだ。
③地形・供給所・水戸という三重の制約
なぜ、こうした「閉じた商圏」が生まれたのか。54年の調査と後年の研究を合わせると、日立市の商業には3つの制約があったことが見えてくる。
1つ目は地形だ。日立市の可住地域は、西を阿武隈高地、東を太平洋に挟まれた東西2〜3km、南北20kmの細長い台地だ。常磐線が南北を貫く一方、東西からの流入経路は限られていた。海と山に挟まれた縦長の街には、外から人が入ってきにくい。
2つ目は、日立鉱山・日立製作所が運営していた従業員向けの「供給所」である。今でいう社内スーパーのようなもので、市価より1〜4割安い日用品が販売され、食料品にはさらに補助金も付いていた。70年代後半には県内で80店舗以上を展開し、市内消費の相当部分を吸収していたという。一般商店は価格競争で太刀打ちできず、呉服や時計など専門性の高い業種へ活路を求めざるを得なかった。
3つ目は、水戸市の存在だ。県庁所在地として人口規模も商業集積も大きい水戸は、戦前から日立周辺の購買力を引きつけてきた。52年の小売販売額を見ると、日立市の5987万9000円に対し、水戸市は8億306万5000円。日立は水戸の7.4%にとどまる。
井手氏は、「昔からみんな買い物といえば水戸。でも縦長の地形のせいで、水戸の百貨店へ向かう途中、手前のショッピングモールに流れることもあった」と振り返った。
日立は企業城下町として人口を抱えていた一方、商圏を外へ広げにくく、市外流出も止めにくい構造を抱えていた。

日立駅の改札を出ると正面には海が広がる(写真:筆者撮影)
④「ヘソのない都市」…市内でも4極に分散していた
もう一つ、日立市特有の事情があった。市内に4つの駅があり、それぞれが独立した商圏を形成していたことだ。
84年5月の業界誌『商業界』は、日立市についてこう記している。
「一市の中に四つの駅がある例というのは珍しいのではないだろうか。北から小木津、日立、常陸多賀、大甕(おおみか)の四つであり、それぞれが駅周辺に商店街を持っている」
商業施設の分散はすでに60年代から進んでおり、同誌は日立市を「ヘソのない都市」と表現した。
伊勢甚日立店の周辺には十字屋や亀宗があり、多賀エリアには多賀ショッピングセンターなど、市内各地で商業拠点が形成されていた。どこかが栄えれば、どこかが客を奪われるような状態だった。
実際、84年時点で日立市の地元吸収率は約70%にとどまり、約30%は市外へ流出していた。流出先は南の水戸、そして北の高萩市に出店したイトーヨーカ堂などだった。
外から顧客を呼び込みにくいうえ、同市内だけでも購買力が分散。ボンベルタ伊勢甚は、この「ヘソのない都市」の中心商業施設として営業していたのである。

平和通り。桜の名所で、春は多くの人で賑わう(写真:筆者撮影)

平日昼間は閑散としており、誰ともすれ違わなかった(写真:筆者撮影)

シャッターの下りた店もちらほら。レトロな街並みだ(写真:筆者撮影)
⑤50年経っても変わらなかった構造
85年開業のショッピングセンター「椎の広場アウリット」は、水戸へ流出する購買力を取り戻すための再開発だった。しかし、その流出は企業縮小が始まる以前から続いていた構造的な課題でもあった。大型ショッピングセンターを整備しても、商圏そのものを広げることはできなかったのだ。
「条件がそろってしまっていた。だから、誰がやっても厳しかったと思う」と井手氏は振り返る。
地形、供給所、水戸への流出、市内の分散。日立市の百貨店が1店しか根付かなかったのは偶然ではない。企業の縮小は、もともと存在していた「百貨店を支えにくい商業構造」を表面化させただけだったのだ。