銀座の「KK線」廃止が示す高速道路の"世代交代"

日本の戦後高度経済成長と同時に進んだモータリゼーション。その更新の時代が訪れている(写真:1964年6月10日、東洋経済写真部撮影)
東京初の高速道路、KK線
先月4月5日20時、都心の新橋(汐留)-銀座-京橋をつなぐ無料の高速道路、KK線(東京高速道路)が廃止となった。
【写真13枚】1960年代の東京、高速道路のある風景はこんな感じ。貴重な空撮アナログ写真も紹介
その4月5日には同時に、首都高速道路の八重洲線も長期通行止めとなり、今後、日本橋付近の高速道路の地下化工事が進められる。完成予定は約10年後だそうだ。
日本の戦後高度経済成長と同時に進んだモータリゼーションから50年以上が過ぎ、自動車専用道路として建設された都心の高速道路も老朽化。その再生と更新の時代が訪れている。

数寄屋橋交差点付近のKK線。写真右は中央区立泰明小学校。その後ろは、数寄屋橋阪急の入っていた東芝ビル。都電の車両も見える(写真:1967年1月13日、東洋経済写真部撮影)
廃止されたKK線は、今後、歩行者用の空間として生まれ変わることが決まっている。ニューヨーク、マンハッタンで、廃線となった高架線路を公園とした「ハイライン」のように、遊歩道、公共空間となり、今年11月に開催される聴覚障害者の国際スポーツ大会「デフリンピック」のマラソンコースにもなる予定だ。今後、KK線の周辺で再開発されるビルともつながり、この地区の空中回廊としての役割も果たしていくようになるらしい。
東京初の高速道路だった
このKK線の建設工事が始まったのは、1953(昭和28)年のこと。戦後復興の意味もあり、銀座地区を取り囲む形で、汐留川、外堀、京橋川の一部を埋め立ててビル状の高速道路を建設するというプロジェクトとして計画された。
1959年には土橋(新橋駅付近)-城辺橋(外堀通り沿いの銀座一丁目)間を一方通行で供用開始し、66年に蓬莱橋(汐留付近)-新京橋(京橋付近)の全長約2キロが開通。64年には首都高速羽田方面と、73年には首都高速道路の八重洲線とも接続した。
つまりKK線は、首都高速道路の最初の開通(1962年、京橋~芝浦間)より3年以上も早く開通した、東京初の高速道路だったということになる。
KK線は、ビル上を道路とする構造で建設され、その道路下の銀座インズ、銀座ナイン、西銀座デパートなどのショッピング・飲食店街などの賃貸収益で運営され、この点で通行料で運営されている首都高速道路とは異なる組織であった。

東海道新幹線が東京駅を発車して有楽町、日比谷付近を走り抜ける際に、車窓から見える高速道路はKK線(写真:1967年1月13日、東洋経済写真部撮影)
東海道新幹線の開通は64年10月1日で、東京オリンピック開会の直前だったが、東京駅に通じる新幹線の高架線路の用地を都心で獲得するのは大変な難事業で、一時は単線で突破することまでが検討されたとか。
懐かしい団子鼻の0系車両が走る脇のKK線では、車の数もまばらに見える。
国鉄線路の右側に見えるIMPERIAL HOTELの建物は、54年に建てられた帝国ホテルの新館。当時は、この建物の西側(日比谷公園側)にはまだフランク・ロイド・ライト設計のライト館と呼ばれた本館建物が存在していた。
この新館は、70年代末に営業終了。83年に超高層のインペリアルタワーに建て替えられたが、その建物も昨年6月に閉館し、今後再開発予定だという。
1964年東京オリンピックに備えた建設計画
首都高速道路公団が発足したのは、1959(昭和34)年6月17日のこと。
当時都内では自動車台数が膨張を重ね、100万台を突破。
その一方で、公団設立の直前である5月26日には第18回オリンピック大会が東京で開催されることが決定していた。
大会に向けて、都心部の環状道路と、都心から外周へと向かう8本の放射線道路で構成される自動車専用道路網を整備する計画案が策定され、それを実現するために設立されたのが首都高速道路公団だったのだ。
まず、公団が果たすべき使命とされたのは、1964年に開催されるこの東京オリンピックに備え、大会開催に直接関連する首都高速1号線、2号線、3号線、4号線とその分岐線、合計30.7キロを優先的に建設することだった。

(写真:1964年6月10日、東洋経済写真部撮影)

(写真:1964年6月10日、東洋経済写真部撮影)
1962(昭和37)年12月には、1号線の「京橋~新富町〜汐留〜芝浦間」が部分開通。
上の写真は、芝浦の浜崎橋ジャンクション付近の建設風景で、都心から羽田方面へと向かう1号線はすでに供用されているが、浜崎橋ジャンクションから芝公園区間は未だ建設中である。
周辺には鈴与倉庫の建物や船溜まりなどの港湾風景や、上の写真の左上部には浜離宮が見える。このあたりは隅田川の河口にも近く、遠方に見える勝鬨橋は、1970(昭和45)年まで、船舶の通行のために日に何度か開閉していた。

(写真:1964年6月10日、東洋経済写真部撮影)
上の写真は1号線。高速道路に並行して、東京モノレールの高架も見える。右手は京浜運河。

(写真:1964年6月10日、東洋経済写真部撮影)
上の写真では、高速道路の周りに広がる水辺が、運河ではなく海のよう。遠方に見えるのは羽田空港のようだ。当時の羽田付近は未だ江戸前の漁場であり、隣り合う大森地区では海苔の養殖も行われていた。
失われた、江戸以来の水都・東京の風景
高速道路の建設のためには、そうした漁業権の補償のほか、海沿いの軟弱地盤地域での土木工事、空港近くでは、海老取川の川底を沈埋函工法で渡るトンネル工事、森ケ崎では船の航路を橋梁で渡るなど、数々の困難を克服する必要があった。
オリンピックに際して、海外からの玄関口となる羽田空港と都心をつなぐ羽田線の建設は特に重要視されたものだったが、湾岸部の芝浦〜勝島〜鈴ヶ森は63年、そして、鈴ヶ森〜平和島空港西は64年8月2日に開通。
そして、浜崎橋ジャンクションから芝公園、渋谷駅付近の区間はオリンピック開会の9日前の10月1日開通というギリギリのスケジュールでなんとか完成した。
その首都高速1号羽田線も、開通から50年以上を経て老朽化。現在、東品川桟橋や鮫洲埋立部などでの更新事業が行われている。

(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)
上の写真は、1964年8月2日に部分開通した中央環状線の神田橋ジャンクション付近。首都高は神田橋から東京駅付近で国鉄線路上を越え、常盤橋地区を経て、さらに日本橋上を越え、江戸橋ジャンクションへ至る。
この区間の高速道路は、日本橋川の上に建設されている。オリンピック開会までに、都心と会場をつなぐ高速道路を完成させることが最重要課題であったため、高速道路のほとんどは用地買収の必要のない運河や水路、川の上や、それらを埋め立てた場所に建設され、これにより、江戸以来の水都・東京の風景は失われた。
日本橋の”風景復活”は2035年ごろを予定
そうしたオリンピック開催と高度経済成長の勢いに呑まれて、江戸東京の中心にあり、この都市のランドマークであるお江戸日本橋の上が高速道路で塞がれることになったわけだが、この風景はその後数十年にわたり、東京一恥ずかしい風景として語り継がれることになる。
そして2005(平成17)年の小泉純一郎政権下、この日本橋上に空を取り戻すプロジェクトが立ち上がったが、巨額の費用負担やリーマンショックなどがネックになり、一旦頓挫。
しかしその後、首都高の更新プロジェクトが立ち上がり、日本橋、常盤橋地区の都市再開発が進められることで、実現の運びとなった。
この4月5日に八重洲線が長期通行止めとなり、今後、神田橋から江戸橋間の地下化工事が進められていく。2035年頃、約70年前の天空を塞がれていない日本橋風景が復活することになるはずだ。

(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)

(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)

(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)
こちらは、日本橋からも近い、証券街である兜町付近。現在の前の代の、旧東京証券取引所の円形の建物が懐かしい。この近くの首都高江戸橋ジャンクションは1963年に開通。これは首都高速道路初の分岐部だった。
後に江戸橋ジャンクションは、首都高6号線とも川の上で接続し、その地下を通る地下鉄1号線=都営浅草線とも同時に施工しなければならないという難工事区間だった。
写真では、証券取引所付近にはまだ楓川の水面を認めることができて、鎧橋も見えるが、今後この楓川の上には、箱崎、駒形、向島につながる首都高6号線が建設される。

(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)
赤坂付近の谷町インターチェンジは、首都高の都心における重要拠点であり、首都高速のランドマークともなっていると言える地点だが、60年代の空撮写真では、周辺に緑地や小さな家屋が目立つ。現在は赤坂アークヒルズや泉ガーデン、麻布台ヒルズや東京ミッドタウンなど、大規模開発や超高層建築が並び立つ地域になっている。
この谷町ジャンクションは、首都高速都心環状線と渋谷方面に至る3号線がつながる分岐点として1967年に竣工。

(写真:1967年9月16日、東洋経済写真部撮影)
そして、こちらは4号新宿線が皇居外堀沿いを走る赤坂見附交差点付近。
中央下の樹木の茂る場所は豊川稲荷。中央の建設中の高層ビルは鹿島建設の本社ビルだ。この頃はまだ赤坂プリンスホテルや、ホテルニューオータニにも、超高層の建物はなく、紀尾井町付近は緑に覆われ、かつてのお屋敷街の風情を偲ぶことができる。
未来都市のようにも見えた1960年代東京
東京都心で高速道路の建設が始まった1960年代。それは、メガロポリスの大動脈を象徴するインフラとして輝いて見えていたことが想像できる。
その時代の空撮写真を見ると、低層建築に覆われた都心を高速道路が蛇行する風景は未来都市のようでもあり、1972年のソビエト映画「惑星ソラリス」に、東京の首都高の風景が未来都市として映しだされたのは、それを証明する出来事のようにも思える。
約60年前に、当時の日本の技術と根性を全力結集して作られた首都東京の高速道路。その背景には高度経済成長という時代の勢いと、東京オリンピック大会実現という使命が存在していたが、今また、人々が日々経済活動を行う過密な都心の只中で、都心再開発と老朽化した高速道路の更新が進んでいる。
“あの頃”のような熱気と未来への希望は感じられないが、テレビ番組「プロジェクトX」で取り上げられてきたような、日本の技術と底力は未だ衰えていないのだと信じることはできそうだ。