「バスが数分遅れた」「わがまま過ぎる」 なぜネット民は“障害者”を執拗に叩くのか? 合理的配慮が“被害者意識”にすり替わる根本理由! 三島由紀夫の言説から考える
6万いいねが照らす社会的分断
2025年5月12日、作家・三島由紀夫(1925~1970年)の著作『不道徳教育講座』(1959年)の一節がX(旧ツイッター)で注目を集めた。「いいね」は6万件を超えた。話題になったのは、「弱い者をいじめるべし」という過激な評論だった。
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三島は、戦後日本を代表する作家・劇作家・評論家である。繊細な文体と強い美意識を持ち、多くの文学作品を発表した。代表作に『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』などがある。これらの作品によって、国内外で高い評価を得た。
一方で、戦後民主主義への批判や、伝統的な価値観への回帰を強く訴えた。言論だけでなく、身体を通じた実践にも踏み込んだ。1970年には自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデター未遂事件を起こし、その直後に自決した。以後、その思想と行動は、文学・政治・哲学の領域で多面的に論じられ続けている。
今回の「弱い者をいじめるべし」という一文だけを見ると、暴論にしか思えない。しかし文脈を追うと、三島が批判しているのは真の弱者ではない。弱さを演出し、それを使って他人を支配しようとする人間こそが標的だった。
この再評価の流れを見て、筆者(伊綾英生、ライター)の脳裏に浮かんだのは、近年、路線バスや鉄道の現場で繰り返される構図だった。健常者が
「障がい者はわがままだ」
と批判する、あの構図である。
逆差別感情が生む誤解

三島由紀夫の肖像、1955年。土門拳撮影。
インターネットを検索すると、
「車いすの乗車補助でバスが数分遅れた」
「駅員が手間を取られ、しかもクレームまで受けた」
といったような投稿が定期的に拡散されている。数千件の共感が集まるケースも少なくない。
「なぜあの人だけ特別扱いされるのか」
「自分は我慢しているのに」
といった声の背景には、“逆差別”を感じている層の存在がある。「障がい者様」なる酷い揶揄もある。
しかし、こうした遅れやクレームの原因は障がい者自身ではない。もともと公共交通のインフラが、「すべての人が使える」設計になっていないからにすぎない。
とくに通勤ラッシュのような過密状態では、この設計の不備が個々の補助行為にしわ寄せされる。「あの人のせいで遅れた」という構図ができあがる。
つまり、本来はシステムの未整備に向けられるべき不満が、「配慮を受ける側」にぶつけられるという不条理が起きている。
演出された被害者性

三島由紀夫『不道徳教育講座』(画像:角川書店)
「どんな強者と見える人にも、人間である以上弱点があって、そこをつっつけば、もろくぶっ倒れるものですが、私がここで「弱い者」というのは、むしろ弱さをすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人間のことです」
「この代表的なのが太宰治という小説家でありまして、彼は弱さを最大の財産にして、弱い青年子女の同情共感を惹き、はてはその悪影響で、「強いほうがわるい」というようなまちがった劣等感まで人に与えて、そのために太宰の弟子の田中英光などという、お人好しの元オリンピック選手の巨漢は、自分が肉体的に強いのは文学的才能のないことだとカンチガイして、太宰のあとを追って自殺してしまいました。これは弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった怖るべき実例です」
「不具者や病人は、弱きを売物にしているわけではなく、やむをえず弱さに生きなければならぬ不幸な気の毒な人たちですから、ここでは除外して、別に不具でも病人でもないのに、むやみと、「私は弱いのです。可哀想な人間です。私をいじめないで下さい」という顔をしたがる人のことに限定しましょう」
「こういう弱者をこそ、皆さん、われわれは積極的にいじめるべきなのであります。さア、やつらを笑い、バカにし、徹底的にいじめましょう」(以上、三島由紀夫『不道徳教育講座』)
文中の不具者(ふぐしゃ)という言葉は、かつて使われていた表現で、身体に障がいがある人を指す。漢字の通り、「具わっていない人」という意味を持つ。現代では差別的で、蔑視を含む表現とされている。
さて、三島は『不道徳教育講座』において、作家・太宰治を例に挙げ、「弱さを演出し、他人の同情や寛容を引き出すことによって他者を支配する」態度を批判した。ただし三島は同時に、「不具者や病人はやむを得ず弱さに生きなければならぬ」と書き、身体的条件による弱者をその批判の対象から除外している。
つまり、三島の標的は「弱さそれ自体」ではなく、「演出された弱さ」によって自己の利得や免責を引き出そうとする、いわば“戦略的被害者”なのである。
この逆説的な命題「弱者をいじめるべし」は、実のところ「偽装された弱者性」を見抜けという警句であり、「真正な弱者を攻撃してよい」という暴論では断じてない。
配慮拒否が生む社会軋轢

31歳の三島。1956年
ところが現代では、この三島的な構図が、むしろ反転するかたちで現れている。つまり、
「自分は健常者として我慢している」
「周囲に配慮して生きている」
という意識から、配慮を受ける側への不満が噴き出している。
ここでは、
「私は我慢している = 本来もっと配慮されるべき存在だ」
という被害者意識が生じている。この心理構造を敷衍(ふえん。意味や考えをより詳しく説明すること)すれば、実際に弱さを装っているのは、むしろ我慢している健常者のほうだろう。
電車で座れなかった。少し遅延した。そうした些細な不満に対して、「自分こそが被害者だ」と訴える態度こそ、三島のいう演出された弱さにほかならない。
ネット上には、自分は健常者だが、障がい者が乗ってきてダイヤが乱れた。これは公共性を壊しているといった趣旨の投稿が散見される。こうした発言には、自ら制度に働きかける姿勢はない。その代わり、配慮を必要とする人々を“スケープゴート”に仕立て、不満のはけ口にしている構造が透けて見える。
この構造は店舗や行政機関へのクレーム対応にも現れている。
「自分は客だ」
「納税者だ」
という立場を振りかざし、職員や他の利用者に攻撃的な態度を取る人がいる。こうした人々は、多くの場合「自分が割を食っている」という被害者意識に動かされているのだ。
現代社会では、被害者であることが発言権や社会的正義を正当化する論理として機能している。そのため、意図的に、あるいは無意識に被害者を演じる行動が生まれる。
この傾向はネットによってさらに強まっている。不満を訴える各種のタグは、共感や正義感を集める“いいね”の装置として働く。そして投稿は、制度への建設的な批判ではなく、「あの人のせいで困った」という感情のはけ口に終始している。
バリアフリーの真実と誤解

電車のフリースペース(画像:写真AC)
こうした風潮で忘れられているのは、合理的配慮が本来、すべての人に平等な社会参加を可能にするための制度的補正だという基本理念である。
例えばバリアフリーのスロープやエレベーターの設置は、
「障がい者を特別扱いする」
ためではない。そもそも、それがなければ社会参加できない人がいるという事実への対応である。健常者にとって数秒の不便が、他者にとっては移動の死活問題になる場合もある。それを「優遇」や「わがまま」とみなす感情の背後には、
「配慮は余分なサービスであり、通常の人間には不要な贅沢だ」
という誤解がある。しかし実際は、誰もが老化や事故で「配慮される側」になる可能性がある。つまり、合理的配慮は未来の自分への投資であり、社会の持続可能性を支える制度でもあるのだ。
強者が演じる弱さの罠

路線バス(画像:写真AC)
三島由紀夫の逆説は、決して弱者を攻撃せよといっているわけではない。現代の私たちは、自分のなかにある「被害者を演じる自我」にこそ警戒すべきだ。
「私は我慢している」
「自分だけ損をしている」
という感情が他者への攻撃に変わると、人は無意識に「強者でありながら弱さを演じる側」になってしまう。真の「いじめるべき弱者」とは、他人に配慮を求める人ではなく、不満を“誰かのせい”にして正当化しようとする健常者である。
三島の命題は、私たちに他者の弱さではなく、
「自分の弱さの演出」
を見つめ直せと促している。被害者意識が肥大化したSNS時代に、合理的配慮を「特権」や「ズル」と感じる感情は、成熟した公共空間を壊す。
我慢している私を根拠に他者を攻撃する社会ではなく、配慮の必要性を共有できる社会こそ、本当に「弱さに優しい社会」であるはずだ。弱者をいじめよという逆説は、他者ではなく自己の内面に向けられるべき問いなのである。