「これで、米英軍と戦うのは日本だけになりました」…ドイツ降伏を知り、少年は日記に心細さをにじませた

<戦後80年 私のことば 5月 前編>

◆ヒトラーの死で始まった5月の日記

 たび重なる空襲で東京に焼け跡が広がっていた1945年5月。ヨーロッパ戦線では、日本の同盟国ドイツが首都ベルリンを占領され、連合国軍に全面降伏した。5月7日のことだ。

ドイツ降伏について書かれた5月9日の日記

 東京都滝野川区(現在の北区)の志村建世さん=滝野川国民学校初等科6年=の5月の日記は、ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラーの死で始まる。

 「夜七時の報道だと、ドイツの首相ヒットラーは、一昨日、要塞(ようさい)の階段で、ソビエト軍の弾にあたり、戦死してしまい、代わりにデーニッツ元帥が首相になりました」(5月1日。ヒットラーはヒトラーのこと)

 ヒトラーは4月30日、旧ソ連軍が包囲したベルリンの地下壕(ごう)で自ら命を絶ったとされる。しかし当時のドイツ政府はラジオで、戦闘中に死亡したと発表した。

◆ヨーロッパ戦線のニュースは中立国経由で日本に

 ヒトラーは1933年に首相に就任。反共産主義を掲げたにもかかわらず、1939年に旧ソ連と手を結んで東の隣国・ポーランドを分割占領した。西に転じてパリに入城すると、もう一度東へ進み、旧ソ連に攻め込んだ。こうしてヨーロッパを戦乱の渦に巻き込んだ裏で、多くのユダヤ人を虐殺した。

ヒトラーの死を伝える1945年5月4日付(3日発行)の東京新聞紙面

 だが80年前の日本にとってナチス・ドイツは、米英などの連合軍と戦う味方だった。その同盟国が追い詰められる様子は、日本でも報じられていた。

 ヒトラーの死について、当時の東京新聞は5月4日付夕刊(3日発行)で中立国スイス・チューリヒ発の通信社の記事を載せた。「ヒトラー総統は戦闘指揮中名誉の戦死を遂げた」「一日午後ヒトラー総統が武器を手に総統官邸の階段を下りる最中赤軍が放った一弾は総統の生命を奪ってしまった」(赤軍は旧ソ連軍)

 続けて「一代の風雲児 最後まで信念に戦う」という見出しの記事がある。それは「一度は成功するかと思われた第三帝国建設の夢破れてドイツが窮地に陥った今日この英雄の死は…」と死を惜しむ内容だった。

 同じ紙面の「ベルリン遂(つい)に陥落」の記事は中立国スウェーデンのストックホルム駐在の通信社が配信。緊迫するヨーロッパ戦線のニュースは中立国経由で日本に伝わっていたと分かる。

◆「水道の前には、市民が大行列を作っているそうです」

 占領された後のベルリンの様子も報じられ、志村さんは日記に残していた。「ソビエト軍は、ベルリン全部を占領して、もう食料の配給などを始めましたが(略)水道の前には、市民が大行列を作っているそうです」(5日)

戦時中について話す志村建世さん=東京都中野区で(七森祐也撮影)

 志村さんは「日独伊三国同盟のうち、イタリアが早々に降伏し、さらにドイツの降伏と進んで、だいぶ心細い気持ちだった。ひどい空襲も受け、こんな状況で日本は勝てないと思った」と当時の記憶をたどる。

 ドイツの全面降伏を受けた9日の日記は、こうした気持ちがにじむ言葉で結ばれている。

 「ドイツは昨日、米英ソ三国に降伏してしまい(略)ヨーロッパの戦争は終わりました(略)これで、米英軍と戦うのは日本だけになりました」

  ◇ 

 戦時下の日々を書き留めた志村さんの日記から、今月は敗戦への足音が高まる記述などを伝えます。日記や当時の新聞記事の文章は現代仮名遣いにするなど、一部修正しました。

 志村建世(しむら・たけよ) 1933年生まれ、学習院大卒。NHKディレクターとして草創期の「みんなのうた」の制作に携わり、東京都北区の出版社「野ばら社」で編集長などを務めた。東京都中野区在住。

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