「体育の授業が大嫌いです」共感殺到のエッセイを読んだ現役体育教師、自らに課した「十字架」がストイックすぎた!

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「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」という一文から始まる、音楽クリエイターのヒャダインさんが7年前に書いたエッセイが、2024年にSNS上で話題になりました。内容はもちろんのこと、これが体育教員向けの「体育科教育」(大修館書店)という雑誌に寄稿されたものだったことも刺激的だったようです。ヒャダインさんのエッセイに対して、中学校の体育教師を長年勤めた和光大学の制野俊弘教授が「アンサーエッセイ」を同誌に寄稿しています。「体育は体育嫌いにとっては公開処刑だ」「体育の授業が変わるべき」というSNSの声に対して、体育を指導する側は何を思うのでしょうか。「体育科教育」25年2月号から当該エッセイを下記に、全文転載します。

「僕は体育の授業が大嫌いです」

ヒャダインさんのエッセイに対して

体育教師が考えること:Xでの反響を受けて

 本誌2019年3月号のヒャダインさんの巻頭エッセイが、SNS上で再び大きな反響を呼んだ。そのような声に対し、体育教師は何を思うのか。

「謝れって言われてから謝ったんじゃ遅いです!むしろ車をぶつける前に謝るくらいの気持じゃないと!」

 映画「謝罪の王様」に出てくるこの台詞に倣うと、私が今さらどうのこうのと並べ立てるのも遅きに失しているのですが、これまで多くの体育嫌いを生み出してきた体育教師の1人として、まずは平身低頭で謝罪させていただきます。

 ヒャダインさんの主張に多くの人が賛意を寄せている事実に対して、1人の体育教師として大きな責任と悔恨の念を感じています。本当にすいませんでした。

 2017年6月1日付朝日新聞「嫌いな子 ダメですか」の記事、本誌2019年3月号巻頭エッセイは私たち体育関係者に強烈な打撃を与えました。

 とりわけ体育は「歪な科目」と言い切られていることを、私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。

 筆者は、大学の保健体育科教育法の授業の冒頭で、これらの記事や「久保みねヒャダこじらせナイト」(フジテレビ)で、ヒャダインさんが体育・スポーツ関係者に向かって「バーカ」と叫ぶ映像を学生に観せながら、「自分ならこれにどう応えるか」と投げかけ、最後に「ヒャダインさんへの手紙」を綴らせています。学生の体育観を確かめるという意図もあります。

体育関係者たちは「無邪気な体育擁護論」に行き着く

 しかし、学生たちは「体育が嫌いなのは恥をかかされるからというのは、本当にその通りだと思います」「私も数学嫌いで…周りに劣って……公開処刑という気分は共感できる部分は多いです……」と述べつつ、「嫌いでもやってみたい、楽しそうだから少し参加してみたいと思えるような場づくりから授業を始めるべき」とか、「クラスのみんなで授業を行う意味をもっと考えてほしい」と、結局は無邪気な体育擁護論に行き着くのです。

 しかし、ちびまる子ちゃんが「体育の授業は人間形成において学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要な役割をどのへんに秘めているのであろうか(注)」とつぶやいているように、問題の本質は教科としての成立根拠を人間形成と関わってどう根拠づけるかという点にあります。

(注:さくらもも子、ちびまる子ちゃん.1987、第一巻、p.47)

「恥をかく」という人格形成上、極めて深刻な打撃を与える教科、人心に「怨」を刻み込むような教科、そしてちびまる子ちゃんが「体育禁止令」の発布を切願するような教科を、私たちはどう自分事として引き受けていくのか。

「体育科教育」25年7月号

 不遜を承知で言えば、教科としての体育は本当に必要なのですか。体育は何を教え育てる教科なのですか。体育がなくとも子どもは育つのではないですか――。

 それを考え抜くことが生涯を懸けた問いであると肝に銘じたいと思っています。

話題になったヒャダインさんの寄稿(「体育科教育」2019年3月号、大修館書店より)