駅ビルはいつから「おしゃれ」になったのか?――若者文化と高級ブランドが導いた商業空間の変貌
駅直結2万平米の先駆け施設
東京の主要ターミナル駅では、駅ビル内の商業施設が年々充実してきた。グルメからファッションまで、時代のニーズに応じたテナントが集まり、駅の外に出る必要すら感じさせない利便性を実現している。こうした駅ビルの“洗練”が本格化したのは、国鉄が分割民営化された1980年代後半からだ。その先駆けとなったのが、東京都国分寺市にある国分寺駅ビル「国分寺エル」(現・セレオ国分寺)である。
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開業は1989(平成元)年3月1日。JR東日本などが出資し、地下2階・地上9階の商業施設としてスタートした。売り場面積はおよそ2万平方メートル。オープン当初は、丸井国分寺店を中核テナントに、69の専門店と17の飲食店が入居していた。
中央線カルチャー発信地の進化

ルミネ立川(画像:写真AC)
中央線沿線で駅ビル建設が本格化したのは1980年代前半からだ。
1981(昭和56)年には荻窪駅に「ルミネ荻窪」が開業。翌1982年には立川駅に「WILL」(現・ルミネ立川)、1983年には八王子駅に「ナウ」(現・セレオ八王子)がオープンした。こうしたなかで、前述の国分寺エルが特に注目されたのには理由がある。
国分寺はもともと、吉祥寺・高円寺と並ぶ「三寺(さんでら)」の一角として、中央線文化の中心地だった。
駅周辺にはジャズ喫茶や古本屋が軒を連ね、常に若者で賑わっていた。なかには大学を卒業しても就職せず、ブラブラ過ごしたり、店を開いて定住したりする若者もいた。そうした空気が独自の文化を形成していた。世界的なベストセラー作家・村上春樹も、作家デビュー以前に国分寺でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していたことが知られている。
国分寺エルが登場する以前の国分寺は、若者にとっては居心地がよくても、生活利便性には乏しい街だった。
再開発が進む現在とは異なり、当時の国分寺は雑然としていた。なかでも人の流れの中心だったのが北口の駅前通り、大学通り、西通りである。パチンコ屋やゲームセンター、喫茶店などが密集していた。
学生向けの店舗は豊富だった一方、生活に不可欠なスーパーマーケットは、駅前の小規模な西友と長崎屋に限られていた。他に大型商業施設はなく、買い物面では不便さが残っていた。
その状況を一変させたのが、南口にオープンした国分寺エルである。地下には丸井の食品スーパー「食遊館」が出店。人の流れは一気に南口へとシフトしていった。
なかでも注目を集めたのが、単身者や核家族をターゲットにした少量パックの総菜だった。現在では一般的な商品だが、当時としては画期的なスタイルであり、瞬く間に地域住民のニーズをつかんだ。
学生街に高級15店進出の衝撃現実

セレオ八王子(画像:写真AC)
一方、国分寺エルには丸井の得意分野であるDCブランドやインポートファッションが集結していた。なかにはディオールやサンローランといった高級ブランドも名を連ね、ひなびた学生街に突如としてハイブランドが現れる構図となった。
それまで新宿まで足を運ばなければ買えなかった商品が、地元で手に入るようになった。この変化は、駅ビルに対する地域住民の期待値を大きく塗り替える転機となった。
その流れを受け、JRが次に手がけたのが、1990(平成2)年9月に開業した「アトレ四谷」である。ここは、首都圏におけるJRターミナル駅の新しい顔となる「アトレ」ブランドの1号店だった。
開発主体は、JR東日本とその100%子会社である東京圏駅ビル開発(現・アトレ)。アトレ四谷は、JR東日本グループが初めて直営で展開した駅ビル商業施設である。
店舗面積は約1600平方メートル。テナント数は15と規模は控えめだったが、東京の都市生活者に与えたインパクトは極めて大きかった。従来の駅ビルには、国鉄時代から続く武骨な印象が色濃く残っていたからだ。
ターゲット明確化の先進事例

アトレ四谷(画像:写真AC)
アトレ四谷は、従来の駅ビル像を覆す先進的なデザインで登場した。外観はモノトーン調でファッションビルのような佇まい。エントランスホール上部には吹き抜け空間を設け、らせん階段も配置されていた。当時としては、駅ビルとは思えないほど洗練された設計だった。
建物デザインのコンセプトは「自然の中の“館(やかた)”」。東京圏駅ビル開発の営業部担当次長(当時)はそう語っていた。館内では、木製の手すりや石張りの床など、自然素材を積極的に採用。丸柱と約150平方メートルの吹き抜け空間によって、クラシックかつ高級感のある雰囲気を演出した。
周辺エリアは落ち着いた高級住宅地。グレードの高いマンションも増えており、代官山や西麻布のような“雰囲気を楽しむ街”としてのポテンシャルがあった。施設のターゲットは「リッチでファッショナブルな女性」。開業時の『読売新聞』(1990年9月29日朝刊)でもそう紹介されている。
従来のJR駅ビルは、テナントへの賃貸による収益確保が基本方針であり、JRは“ビルの大家”にすぎなかった。だがアトレ四谷は、この方針を転換。JR東日本と子会社が企画から運営までを担う“直営型駅ビル”の第1号としてスタートした。
開業時のJRの熱意も強かった。1階には基礎化粧品店「シャン ド エルブ」、上階にはイタリア料理店が直営店舗として入居。以降、JRは大井町駅ビルの開発にも着手し、首都圏の駅ビルは徐々に洗練された商業空間へと進化していく。
現在、おしゃれな駅ビルは標準的な商業インフラとして定着している。しかし、その整備が始まってから約30年と歴史が浅い点は、交通と商業施設の連携が急速に進んだ証拠だ。駅という交通の要所での商業空間の変化は、単なる施設の刷新を超えている。地域経済の活性化や人の流れ、消費行動の根本的変化を促し、都市経済の構造転換に大きく貢献している。