大泉学園駅なのに「大泉学園」という学校が存在しない理由──西武鉄道創業者が仕掛けた、壮大すぎる構想の顛末とは

「大泉学園」不在の謎

 小田急線の成城学園前駅(東京都世田谷区)には成城学園が、玉川学園前駅(町田市)にも玉川学園がある。東急東横線の都立大学駅(目黒区)や学芸大学駅(同)も、かつては駅名と同じ大学が存在していた。

【画像】昔の「大泉学園」が別世界だった!

 一方、西武池袋線の大泉学園駅(練馬区)周辺には、大泉学園と呼ばれる学校は存在しない。駅開業時から現在に至るまで、その名の学園は確認されていない。

 理由は明快だ。駅名が先に決まり、学園の設立は構想段階で頓挫したのだ。駅名や地名(大泉学園町)に残る「大泉学園」は、実現しなかった学園都市構想の名残である。

 この構想とは何だったのか。なぜ学園は建設されず、駅名だけが残されたのか。その背景には、鉄道事業と一体化した不動産開発という、大正期の都市形成の一断面がある。

学園都市構想が生んだ鉄道拠点

「大泉学園」不在の謎, 学園都市構想が生んだ鉄道拠点, 学園誘致に賭けた大正の都市開発, 理想都市と大学誘致の挫折, 学園都市の転機と展開

左は1929(昭和4)年に発行された地図(画像:国土地理院、今昔マップ)

 大泉学園駅(東京都練馬区)は、西武池袋線の主要駅である。1924(大正13)年に「東大泉駅」として開業し、1933(昭和8)年に現駅名へ改称された。1983年には橋上駅舎を導入。2000年代には連続立体交差事業が進み、2015(平成27)年には再開発ビル「リズモ大泉学園」と直結する改札が新設された。これにより、利便性が大幅に向上し、周辺の都市機能も強化された。

 駅構造は島式ホーム1面2線。エレベーターとエスカレーターを完備し、バリアフリーに対応している。文化的な特色として、地元出身の漫画家・松本零士の作品『銀河鉄道999』をモチーフにした駅装飾や発車メロディを採用。地域のブランディングにも寄与している。

 2024年度の1日平均乗降人員は8万236人。西武鉄道全92駅のなかで8位に位置する。接続線のない中間駅としては最多の乗降者数を誇る。通勤準急などの速達列車も停車し、沿線住宅地の発展を支える中核駅として機能している。

 さて、駅名誕生の背景には、大正期に始まった郊外開発がある。西武グループ(旧コクド・セゾングループ)創業者の堤康次郎は、1920年に箱根土地株式会社を設立。まだ雑木林が広がっていた大泉村(1932年廃止)で、住宅地開発を計画した。

 追い風となったのが、1923年の関東大震災。都心から郊外への移住が一気に進み、私鉄沿線の宅地需要が急増する。すでに開通していた武蔵野鉄道(池袋~飯能)沿線でも住宅開発が加速していた。

 堤は、現在の練馬区大泉学園町から隣接する新座市栄周辺にかけての土地を取得。当時、関東大震災で校舎を失った東京商科大学(現・一橋大学)を誘致し、学園都市構想を描いた。

 1924年、同大学は石神井に仮校舎を設けて授業を再開。郊外移転とともに、新たな学園都市の建設が検討された。これが「大泉学園」の名の由来となった。

学園誘致に賭けた大正の都市開発

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堤康次郎。

 前述の堤康次郎(1889~1964年)は、昭和期における代表的な実業家・政治家である。滋賀県の農家に生まれ、苦学の末に早稲田大学を卒業。軽井沢や箱根での別荘地開発を皮切りに、不動産、鉄道、ホテル事業を次々と手がけ、西武帝国を築き上げた。

 政治家としても13回の衆議院当選を果たし、1953(昭和28)年には衆議院議長に就任。戦後の保守合同にも関与した。私生活では奔放さで知られ、多くの女性関係と多数の子を持った。「ピストル堤」と呼ばれる強権的な性格でも注目された。

 開発力と経営手腕により、多くのリゾートや学園都市を形にした。一方で、強引さや豪奢な私生活により、毀誉褒貶の激しい人物でもあった。死後も西武グループを象徴する存在として語り継がれている。

 そんな堤は自社で取得した大泉の土地に、東京商科大学の誘致を試みた。熱意は強く、地元の有力者を箱根温泉に招いて協力を求めたという。誘致を前提に、土地造成が進められた。

 現在の練馬区立大泉中学校(東大泉4丁目)にある高台から、共栄住宅(東大泉3丁目)前の切り通しの土をトロッコで搬出。学園橋付近(大泉学園1~2丁目)の水田を埋め立てた。整備は着実に進行した。分譲地の設計も学園都市にふさわしいものだった。中心には幅広の大泉学園通りを敷設。周囲には碁盤目状の道路網が形成された。

 利便性の確保にも手を抜かなかった。堤は、大学敷地と最寄駅との距離を懸念し、私費で駅を新設、寄付した。加えて、分譲地と駅を結ぶ乗合自動車や馬車の運行も開始した。

 この駅設置には地元住民の尽力も大きかった。武蔵野鉄道は、当初、石神井から保谷まで直線ルートを計画していた。だが、地元の人々が「将来、必ず駅が必要になる」と訴え、土地を無償提供。路線を意図的に迂回させることで、駅の実現を後押しした。

理想都市と大学誘致の挫折

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大泉学園駅(画像:写真AC)

 前述のとおり、駅は1924(大正13)年11月、東大泉駅として開業した。1933(昭和8)年3月に大泉学園駅へと改称された。

 当時の分譲地は規模が非常に大きかった。私鉄沿線各社が移住者を呼び込み、理想的な都市づくりを目指した時期である。売り出しは派手で、新聞やラジオで宣伝した。都内ではチンドン屋を走らせ、人を集める演出も行われた。分譲地内では多彩な催しも開催された。

 新座市立栄小学校付近には千坪の大広場が設けられ、万国旗が飾られた。女優・水谷八重子や歌舞伎役者・澤村宗十郎といった当時の大スターが招かれ、歌や踊りの豪華ショーが繰り広げられた。

 不動産会社の営業としては、規模の大きさが異例であった。さらに、当時の新聞には「大泉学園都市林間舞踏大会」も開催されたと記されている。

 しかし、肝心の大学誘致は実現しなかった。一橋大学の仮校舎は石神井町8丁目にあった。大学が所有するグラウンドに建てられており、移転は近いと誰もが考えていた。ところが、1933年9月、一橋大学は国立に新校舎を建設し、移転を決断した。

学園都市の転機と展開

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大泉学園駅周辺の様子(画像:写真AC)

 この移転は、現在でも歴史研究者の研究テーマになるほど謎が深い。国立の土地誘致を堤康次郎が主導したという説が存在するからだ。

『一橋大学創立150年史準備室ニューズレター』第2号(2016年3月)に掲載された歴史学者・田﨑宣義の論考『大学史と国立大学町』によれば、堤の誘致説は広く流布しているが、実際は大学の意向を受けて堤が動いた可能性があるという。いずれにせよ、地元の東大泉住民にとっては

「なぜか」

大学はやってこなかった。結果として、大学予定地は住宅地として再び分譲されることになった。

 その後、別の学校の移転計画も浮上した。昭和初期には現在の東大泉3丁目付近に聖心女子学院の移転計画があった。建設用地の看板も設置されたが、結局建設されなかった。陸軍が「キリスト教の学校は好ましくない」として追い出したとの説もあるが、確証はない。

 こうして大泉学園は、大学を持たないまま住宅地として発展していった。大学は来なかったが、1934(昭和9)年に開所した東映東京撮影所(東大泉2丁目)と戦後設立の東映動画スタジオにより、「映画とアニメの街」として栄えたことはよく知られている。

 大泉学園は大学誘致に失敗したが、都市構想そのものが消えたわけではない。私鉄主導の先進的な住宅開発は、地域に定着した。その後、映像産業の集積や文化ブランドの形成へとつながっていく。

 鉄道と不動産を一体で展開する都市形成は、当初の「学園都市」構想から「住宅都市」へと方向を変えた。だが、堤康次郎が描いた将来像の一端は、形を変えて実現したともいえる。

 学園は実現しなかったが、その名は地名として残り、街の記憶や景観に今も深く刻まれている。