《100年前、朝鮮人と政略結婚した一人の「皇族女性」がいた…》祖国を離れ、韓国で愛に生きた日本人女性たちの「知られざる物語」

韓国の中の“小さな日本”

今から80年前に終焉した日本による朝鮮植民地支配。その時、多くの日本人女性が朝鮮人と結婚した。韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)には、そうした女性たちが望郷の念を抱きながら暮らしてきた。

植民地支配・日本の敗戦・南北分断、そして朝鮮戦争。異国で暮らす彼女たちの波乱に満ちた人生からは、日本と朝鮮半島との近現代の歴史が浮かび上がる。

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慶州ナザレ園の花見(1991年4月撮影)

韓国の慶尚北道(キョンサンプクト)慶州市(キョンジュシ)は、かつて新羅(シルラ)の都が置かれた古都。郊外には、1995年にユネスコの「世界文化遺産」に登録された仏国寺(プルグクサ)がある。市の中心部よりそこへ向かう大通りを途中で右へそれ、少し進むと「慶州ナザレ園」がある。

1972年10月に開設された当初は、日本へ永住帰国する人のための一時的な寮だった。それが次第に、生活に困窮しても身寄りがなかったり、日本で身元を引き受けてくれる人がいなくて帰国を断念した日本人たちの老人ホームの役割を果たす。まさしく“韓国の中の小さな日本”だった。

洞窟から救出された一人の女性

ナザレ園の“顔”ともいうべき存在だったのが山崎繁栄さんだ。山崎さん4歳の1915年に一家4人で朝鮮へ渡り、それから1度も日本へ帰国したことがない。彼女は、赤ん坊の時に失明している。

ナザレ園の1日は、朝の礼拝から始まる。夜が明け切らず、ひんやりとした空気がただよう中を、日本人女性たちの韓国語の讃美歌が園内に響く。

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洗面器を抱えた山崎さん(1988年6月撮影)

すると同じ棟の一番奥の部屋から、ひどく腰の曲がった小さなお婆さんが出てくる。山崎さんである。不釣り合いなほど大きな金属製の洗面器を両手で抱え、ゆっくりとした歩みで部屋の向かいにある洗面所へ入る。すると中からは、洗面器が何かにぶつかったり、水道の蛇口から流れる水の音が聞こえてくる。

部屋へ戻ると、すぐに出てきた。そして、壁に触れながら歌声がする方へやって来るのだが、いくつもの部屋の前に置かれたスリッパが行く手の邪魔をする。だが彼女はその場所が分かっているかのように、器用に避けながらちょこちょこと歩いて来る。

戸を開けると、狭い部屋の中は20人ほどの女性でいっぱいだ。彼女は部屋の真ん中まで進み、小さくなって座る。そして優しい声で歌い始めた。

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讃美歌を歌う山崎さん(1988年6月撮影)

山崎さんは、身の回りのことは何でもできるという。部屋の中は、いつもきれいに片付いていた。荷物は小さなタンスくらいで、壁にはキリスト教の宗教画のカレンダーが掛かり、それ以外に目立つものは日本製のラジオくらいだ。

そのラジオからの日本の放送で、日本の音楽やニュースを良く聞いているという。そうしたことを、優しくきれいな日本語でささやくように教えてくれるのだ。

ハーモニカを聞かせて欲しいとお願いすると、タンスの中から小さな布の袋を取り出した。肺活量が少なくなったために、その音はとぎれとぎれなのだが、伴奏まで入ったなかなかの演奏だ。

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ハーモニカを吹く山崎さん(1988年6月撮影)

山崎さんは、父親に勧められて23歳で朝鮮人と結婚。朝鮮戦争では逃げ回り、夫は勤労奉仕で修理に行った橋から落ちて亡くなってしまう。そのため住んでいた家を売り、朝鮮戦争の際に避難民が山に掘った洞窟で一人で暮らし始める。

「中はちょっと行ったり来たりできるくらいの、そんなに大きな穴じゃなくてね。炊事のために、薪を取ってきて火を焚くのが怖くて……。警察の人が何度もやって来て、悪い者を泊めたらいかんよって言ってくれました」

ここで4年間暮らした時に、日本大使館によって“救出”されてナザレ園へ入った。穏やかな山崎さんだが、天候の悪い日の夜には部屋から飛び出し、大声を上げて物を投げつけるという。洞窟で暮らしをしていた時の、忘れられない出来事を呪っているらしい。

女性たちが朝鮮で暮らした理由とは

日本敗戦の直後の朝鮮半島南側には、日本人女性が1万5000人~2万人もいたという。なぜ、これほど多くの日本人女性が異国で暮らしていたのか。

1910年、日本は武力を背景に大韓帝国の日本への「併合」を強行。「朝鮮総督府」は憲兵による武力での「武断統治」を行ったが、1919年に3・1独立運動が起こると「文化統治」へと軌道修正をする。

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朝鮮総督府だった建物(2005年6月撮影)

総督府は「土地調査事業」や「林野調査事業」によって、朝鮮人の土地と森林を取り上げるなどした。そのため、朝鮮の人口2590万人の約80パーセントを占めた農民たちは生活できなくなり、日本や中国東北部へ移住せざるを得なかった。日本には、1945年時点で約237万人もの朝鮮人がいた。

そして総督府は、日本と朝鮮は一つという意味の「内鮮一体」という名の同化政策を推進。朝鮮人を、天皇に忠実な「皇国臣民(皇民)」にしようとしたのだ。

日本や朝鮮において、日本人と朝鮮人の若い男女が出会う機会は多くあった。日本は同化政策の重要でもっとも現実的な手段として、日本人と朝鮮人との「内鮮結婚」を奨励した。

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「内鮮一体」と刻まれた大きな石碑(1990年4月撮影)

朝鮮において皇民化政策を推進した「国民総力朝鮮連盟」は、内鮮結婚をした夫婦に対し「内鮮一体の促進上、他の模範と為す」として表彰している。

内鮮結婚の多くは恋愛結婚であったが、そうであれ見合いであれ、多くの日本人と朝鮮人が結婚したのは、こうした国策が背景にあったからなのだ。

政略結婚させられた梨本宮方子

日本が内鮮結婚という政策を推進するために、その“象徴”とした一人の日本人女性がいる。日本の皇族の梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)である。

「なにげなく新聞をひろげますと、大見出しの活字がパッと目にとびこんできて、思わず息をのんでしまいました。李王世殿下のお写真と並んでいるのは、まぎれもない私の写真で、それが、垠殿下のご婚約発表の記事だったのです」(『すぎた歳月』李方子)

このように、梨本宮方子と李垠(イ・ウン)との婚約発表は、方子を無視して行われた。大韓帝国最後の皇太子である李垠は、10歳で「留学」という名で日本へ渡り、人質として生活していた。

日本は李王家を、日本の皇族に準じる処遇を行っていたため、“皇族同士の結婚”という形だった。まさしく、国家がお膳立てした政略結婚だったのである。

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李方子が暮らした楽善斎(1991年10月撮影)

「総督府としては、王公族(李王家=筆者注)を極力日本に同化させるとともに、純粋な王家の血に日本人の血を混ぜることを、統治の要としているのでした」(同上)と方子は自ら語っている。

日本は、内鮮結婚による“血の同化”によって、「内鮮一体」を進めようとしたのだ。結婚式は、1920年4月28日に東京で行われた。

方子と李垠との結婚は、日本人と朝鮮人との結婚のハードルを確実に下げた。そうした背景があり、日本が支配している国の異性と結婚するということの意味を、深く考えなかった人たちもいた。藤川幸子さんは、その時のことを振り返る。

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明暉園の李垠と李方子の写真(1991年10月撮影)

「当時は、日本人と朝鮮人は仲良くしようという奨励が政府からあった時期です。お父さんは『宮さん(梨本宮方子)でも朝鮮人と結婚しているので気にすることはない』と言ってました。だから私は、朝鮮の人と結婚するということには、それほどこだわりはなかったですね」

1945年の日本敗戦で、方子と李垠の夫妻は王公族としての身分を喪失。すると方子は、夫の姓を名乗り「李方子 (イ・バンジャ)」となった。

夫妻が、韓国へ渡ることが出来たのは1963年11月。李垠が1970年5月1日に死亡すると、方子は夫の遺志を継いで知的障害児施設「明暉園」と知的障害養護学校「慈恵学校」を設立して運営した。

“日本人”であることを隠して…李方子の世話をした一人の女性

その李方子を、18年間にわたり世話をした日本人女性がいる。博多で公務員をしていた朝鮮人の夫と、敗戦の2年前に朝鮮へ渡った江口芬陽(ふや)さんだ。

「空襲がある日本より安全だということで、疎開のつもりで来ました。それが運の尽きですよね」と語る。

夫は「京城府(けいじょうふ)衛生課」で勤務したものの、すぐに植民地統治は終わる。夫はそのショックから、病で亡くなってしまう。江口さんは5人の子どもを抱えて、貧乏のどん底に転げ落ちてしまった。

そうした生活を送っていた1963年に、人から紹介されて李方子の世話をすることになった。3カ月間くらい働くつもりだった。

江口さんは自らを「在日韓国人」だと名乗っていた。「私が日本人だということで、妃殿下に何かあっちゃいけないと思った」からだという。日韓が国交を結ぶ前だったので、韓国では日本や日本人に対して厳しい目が向けられていた。

「妃殿下の生活は本当に質素でね。私のような者が作った料理でも、召し上がってくださったんです。私は周りの皆さんが心配しないように、『妃殿下は、何でも召し上がるんですよ』って言ってましたが、実際は韓国の食事はちょっと味見されるだけでした。キムチを口にされることはなかったですね」

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李方子の墓(1991年4月撮影)

李方子は1989年4月30日に亡くなり、葬儀は準国葬として行われた。生きがいをなくした江口さんは、2年間ほど泣いて暮らしたという。

戦後、次々と待ち受けていた苦難

1945年8月15日、日本はアジア太平洋戦争で敗北する。それは朝鮮や台湾などでの植民地支配の終焉でもあった。

36年間の植民地支配期に財産を築いたために、朝鮮への残留を希望する日本人も多かった。だが、米国のトルーマン大統領が「朝鮮にいる日本人の放逐」を表明すると、10月から軍人を優先して民間人の引き揚げも開始される。

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日本人遺骨の発掘作業(2012年9月撮影)

帰国者数は、1945年と翌年だけで約57万人にのぼり、北緯38度線の南側にいた日本人のほとんどが日本へ引き揚げて行った。ただ北側の日本人については、ソ連は帰国を認めなかった。その結果、4万人もの日本人が寒さと栄養失調、伝染病によって死亡したのだ。(※)

※『現代ビジネス』「戦後75年、北朝鮮に眠る『日本人遺骨27000柱』をどう考えるか」(2020年8月15日)参照

引き揚げ可能な時に帰国せず、南側に残ったのはどのような日本人なのだろうか。その多くは、植民地時代に朝鮮人と結婚していた女性である。夫と別れて帰国した人も多かったが、子どものことを考えて残留したのだ。

そして、植民地支配から解放された祖国へ戻る夫とともに、玄界灘を渡った日本人女性たちもいた。戦争で荒廃した日本に見切りをつけ、大きな希望を持って夫の国へと向かった。船が着いた釜山(プサン)には、植民地での夢に破れて帰国しようとする日本人でごった返していた。

しかし、夫を信頼して異国へ渡った日本人女性たちに、多くの苦難と試練が待ち構えていた。過酷な日本による支配から解放された朝鮮半島では、日本人は恨みの対象となった。

また、文化や生活習慣の違いから、夫やその両親とうまくいかないなど大変な苦労をすることになる。そればかりか、夫には本妻やその子どもがいたこともあったのだ。夫や本妻らに虐待されながら、同じ屋根の下で一緒に暮らすことになった人もいる。

日本人女性たちは、日本語を使うことができず、家から出られないような生活が続いた。そして何とか生活が落ち着き始めた頃には、朝鮮戦争の戦果に巻き込まれるなど、次々と苦難が待ち受けていたのである。

(写真はすべて筆者撮影)

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【つづきを読む】『《愛したのは朝鮮人男性》植民地支配、日本敗戦、朝鮮戦争に翻弄され…それでも異国で生き抜いた「日本人妻」たちの「壮絶な半生」』