なぜ日本人は「中国人は自己中」のように感じるのか?…中国人は、写真には「自分の顔」を入れ、SNSは実名で登録

中国人は何を考え、どう行動するのか?

講談社現代新書の新刊『ほんとうの中国 日本人が知らない思考と行動原理』では、日本を代表する中国ウォッチャーが鋭く答えています。

本記事では、〈始皇帝の時代から現在の中国にまで継承されている「ある思想」…中国社会が「性悪説」が浸透している納得の理由〉に引き続き、中国における、「我」が世界の中心という思想について見ていきます。

※本記事は、近藤大介『ほんとうの中国 日本人が知らない思考と行動原理』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。

「我」の概念

中国人の「原風景」が、「中国大陸に大の字になって踏み立つ姿」であると前述した。そこに在るのは天と地と自分だけである。孤独で寂しく、不安げな世界だ。

それでも、踏み立って生き続けていかねばならない。そのためには、当然ながら自己が強くある必要がある。

中国語で、一人称は「我(ウォー)」と言う。「われ」である。

「我」という漢字は「のこぎり」の模様をかたどっている。ギザギザした刃が付いた刃物の形だ。

なぜのこぎりを表す字が「われ」となったのか? 単なる「借字」ではないかという説もあり、よく分かっていない。

私見では、「中国大陸に大の字になって踏み立つ」際に、のこぎり(刃物)が必要不可欠だったからではないだろうか? 「鬼に金棒」という言葉があるが、本当に金棒を持った鬼のように強くあらねば、中国大陸では生き延びていけないのだ。

「我」が世界の中心

中華民族の「天地人」の世界観では、「我」が圧倒的に世界の中心である。まず何よりも「我」が先にあって、その周りに「天」や「地」が存在し、家庭、職場、国家などが存在する。

ユン・チアン著『マオ』(日本語版は講談社、2005年)は、現在の中国の「建国の父」毛沢東元主席の赤裸々な生涯を描いて、世界的なベストセラーとなったが、印象的な一節がある。それは、毛氏が24歳の時に書いた作文だ。

〈我は心ゆくまで満足を得たいと思うし、それこそが我にとって最も大切な道徳観だ。もちろん、この世界には他人がいて、様々な事物が存在するが、それらはすべて我のために存在するのだ。我にとって死後のことなどどうでもよい。現在ある我とは何の関係もないからだ〉

どうだろう、この開き直った「我」中心の世界観は。それは島国で、日々周囲に気遣いながら汲々と暮らしている日本人の人生観とは、根本的に異なるものだ。

日本では古代、聖徳太子が「和をもって貴しとなす」(以和為貴)と説いた。近世には夏目漱石が、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(『草枕』の冒頭)と嘆いた。

「島国的感覚」では、大事なのはチームプレーであり、ワガママな人間は村八分となる。現代ならイジメに遭う。

だが「我中心」の代表格のような毛沢東主席は、現在でも北京の中心・天安門広場に巨大な顔写真が掲げてあり、すべての人民元紙幣の肖像画にもなっている。そしてそのような「我中心」の世界観には、多くの中国人が「賛」(いいね)を押すことだろう。実際、中国人がスマホで撮る写真を見てほしい。どんな風景にも必ず「我」(自分)が入っている。

photo by gettyimages

日常生活は、「我」と「我」の格闘の連続

そもそも中国人は、一日に何十回も「我」を発している。中国語では頭に「我」を付けないと、自分の意思伝達ができないからだ。

「起きた」(我起来了)「腹が減った」(我餓了)「会社へ行ってくる」(我去上班)「会議に出る」(我去開会)「嬉しい」(我很高興)「疲れた」(我累了)「ただいま」(我回来了)「寝る」(我去睡覚)……。

このように、中国人は朝から晩まで「我」の連続だ。ハイリスク社会なので、そうやってつねに「我を張って」生きていかないと、激しい生存競争に敗れてしまう。換言すれば、「我」と「我」との無数の格闘が中国社会を形成しているのだ。

何せ中国人は、日本人の11倍以上の14億1000万人もいる。生まれてから死ぬまで、とてつもない競争社会の中で暮らしているのである。

平易な例で言えば、オリンピックの代表選手数は種目ごとに各国何人と決まっているから、中国代表の卓球選手や水泳選手は、人口比を考えると日本の11倍の倍率をくぐり抜けた選手が出場していることになる。同様に、東京大学と北京大学の合格者数はともに約3000人なので、こちらの倍率も中国は日本の11倍だ。

中国全国大学入学試験 photo by gettyimages

2025年夏採用の中国の国家公務員試験(国考(グオカオ))には、約4万人の応募に325万8274人が受験した。最も人気が高かった職位は倍率が1万5678倍! 平均すると、やはり日本の国家公務員試験の競争率の約10倍である。

いまから30年前に北京大学に留学していた時分のことだが、私は日本から手紙をもらっても、返信を出せなかった。それは大学構内の郵便局へ行くと、いつでも押し競まんじゅうのように人がいたからだ。中国語で言う「人山人海(レンシャンレンハイ)」(黒山の人だかり)である。

皆が自分の手紙を掲げて、「こっちだ!」と叫ぶ。ガラス棚の向こうの郵便局員が手を伸ばして受け取り処理するわけだが、いつでも「声の大きい客」か「周囲を押しのけた客」が勝者となった。

そしてしばらくすると、郵便局員が「我累了(ウォーレイラ)」(疲れた)とか言って、雲隠れしてしまう。郵便局員もまた「我中心」なわけで、結局、私のような気弱者は、いつまで経っても手紙を出せないのである。ちなみにこの郵便問題はその後、頑強な中国人学生に手数料を払って郵便局まで行ってもらうことで解決した。

日本でも、私が大学時代に中国語を受講した時、初日に担当教授が、「中国語を学習すると性格が身勝手になるから覚悟するように」と冗談交じりに学生を脅した。中国語を日本語に直訳すると、つねに「オレが、アタシが」と我を張っているようなものだからだ。

「我」が存在しない日本語

私は北京駐在員をしていた時分、北京ラジオの週末のレギュラー・コメンテーターを務めていた。ある日の放送で、日中の古典文学の話題になった。その時に私が、「日本の古典小説の最高傑作である源氏物語五十四帖には、主語が一度も出てこない」と解説したら、大きな反響があった。中国語では「我」がないと、人間も存在しなくなってしまうため、想像がつかなかったのだ。

さらに当時、日中企業間の通訳兼コーディネーターをしていた時の話をすると、日本の本社の方が北京へ来て、中国側と商談をする。何度目かの商談の際に日本企業側は「先日、本社において、○○ということに決まりました」と発言する。中国語は主語がないと成り立たないから、「我們決定了(ウォーメンジュエディンラ)○○」(私たちは○○を決定しました)と訳す。

すると中国側は、「『我們』とは社長のことですか? 取締役であるあなたのことですか?」と聞いてくる。私は仕方なく、「本社のどなたが〇〇を決めたのですか?」と訊ねる。すると日本人は怪訝な顔をして、「本社の会議で決まったのです」と語気を荒らげる。この堂々巡りをやっているうちに、互いに疑心暗鬼に陥っていくのだ。

そうやって考えると、日本社会は集団社会であると同時に、責任回避社会でもある。匿名性を担保したまま行動が取れるし、自己主張もできる。

一方、中国社会では、「我」を前面に押し出さないと、あらゆるアクションが始まらない。SNSも、実名を登録しないと使えない。重ねて言うが、中国社会とは「我」と「我」との無数のぶつかり合いの集積なのである。

さらに〈中国人と日本人は、なぜこんなに違うのか?…日本人が見誤りがちな「中国人の本質」〉では、中国の「骨格」である基本原理について詳しくみていきます。