寺山修司が「悪の華」と書いたサラブレッドを輸入し、二二六事件で暗殺された高橋是清が創設した牧場の”場長”となった「チョッコウさん」とは

1940年(昭和15年)、栃木の地に鍋掛牧場を開いた沖崎エイ。彼女が生きた激動の時代には、いかなる運命が待ち受けていたのか。月刊誌『優駿』で「一代の女傑 日本初の女性オーナーブリーダー・沖崎エイ物語」で連載中の島田明宏が明らかにした日本競馬史の新事実とは。

中編記事『ダービーで「髪の毛一本差」の2着馬「メジロオー」を生産した“女傑”と「メジロ軍団」との「強い絆」』より続く。

90歳で亡くなる

鍋掛牧場の2代目牧場主となったのは、1958(昭和33)年にエイの三女、芳江と結婚した沖崎(旧姓羽田野)均だった。均は1984(昭和59)年、54歳で世を去った。そして息子の沖崎誠一郎さんが3代目となった。エイはその5年後、1989(平成元)年6月12日に90歳で亡くなった。

90歳で亡くなる, 2代目牧場主を連れてきた人物とは, 競馬界の「三大女傑」、3人目は誰なのか?, すべては「競馬界の今」につながっている

均(左)と誠一郎さん

鍋掛牧場は2004(平成16)年に競走馬の生産をやめ、その後、育成事業も中止している。

現在は、かつてモスクワ五輪の馬術代表候補だった誠一郎さんが、馬術の大会に出場する選手の指導などをしている。

大学の馬術部の選手は、学校によってバイトをする牧場が決まっており、鍋掛牧場では明治大学の選手がバイトをしていた。昨年のパリ五輪総合馬術団体で銅メダルを獲得した初老ジャパンの大岩義明選手も、学生時代、鍋掛牧場でバイトをしたという。

そして、日大の馬術部の選手はメジロ牧場でバイトをした。誠一郎さんも学生時代にバイトをし、前出の岩崎伸道さんの運転する車で本場と分場とを往復していたという。

2代目牧場主を連れてきた人物とは

2代目の均を鍋掛牧場に連れてきたのは、「チョッコウさん」のニックネームで知られた、内田直幸という人物だった。チョッコウさんは、日大と合併する前の東京獣医畜産大学馬術部で均の先輩だった。日本軽種馬登録協会で働いたのち、伊達の高橋農場の場長になったと伝えられている。

チョッコウさんは、メジロ牧場の創設にも深く関わっている。また、詩人、劇作家、競馬コラムニストの寺山修司が掌編「悪の華ジルドレ」で描いた種牡馬ジルドレを日本に輸入し、高橋農場で繋養した。高橋農場は、二・二六事件で暗殺された高橋是清が創設し、ダービー馬ラッキールーラや、中・長距離戦線で活躍したランニングフリーなどを生産した。チョッコウさんがどんな人だったのか、是清の曾孫の高橋秀昌さんにも話を聞いた。秀昌さんによると、チョッコウさんは普段から高橋農場の人馬を自分のもののように使っていたが、実際には雇用関係はなく、「俺は場長だ」と自称していただけだという。それが許されたのはチョッコウさんの押しの強さゆえか。

チョッコウさんは鍋掛牧場にもよく出入りしており、小さかった誠一郎さんを抱っこしている写真も残されている。

90歳で亡くなる, 2代目牧場主を連れてきた人物とは, 競馬界の「三大女傑」、3人目は誰なのか?, すべては「競馬界の今」につながっている

エイは、馬の口に手の指を吸わせることによって、馬に自分を覚えてもらい、馬とコミュニケーションを取っていた。それを教えてくれたのは、学生時代に鍋掛牧場でバイトをしたのち、JRAの獣医師となり、ダーレー・ジャパン・ファーム代表などをつとめた高橋力さんだった。高橋さんの父で、JRAの理事でもあった高橋孝一とチョッコウさんが親しかったこともあり、1965(昭和40)年ごろから鍋掛牧場に出入りするようになったとのこと。エイはよく「馬はちゃんと恩返ししてくれる」と言っていたという。

高橋力さんの20年ほどあとに鍋掛牧場でバイトをした遠山淳さんにも話を聞いた。

さらに、エイが所有する繁殖牝馬を預けていた、日高町の天羽禮治牧場の天羽禮治さんと妻の志津子さんにもインタビューした。何と、天羽さん夫妻の新婚旅行にチョッコウさんがずっとついてきて、車であちこち案内してくれたという。チョッコウさんは、非常に個性的な人だったようだ。

競馬界の「三大女傑」、3人目は誰なのか?

これだけ取材してもわからない「宿題」のようなものがいくつか残っている。

そのひとつが競馬界の「日本三大女傑」だ。

ひとりはエイ。もうひとりは北野ミヤ。さらにもうひとり、エイともミヤとも親しかった女傑がいたはずだという。

誠一郎さんは、「大尾形」こと尾形藤吉の娘で、尾形厩舎の番頭格だった尾形恵美子ではないかと言う。「尾形ママ」として知られた、美人の誉れ高き人だ。青森牧場の社長だった畠山伊公子だろうと言う人もいた。

そこで、3人目は誰かと旧ツイッターのXにポストしたところ、それを見た人たちが、「大井昭子(ヤシマ牧場場長。ハクチカラなどの生産者)」「飯田政子(千代田牧場代表、飯田正剛さんの母)」「吉田和子(社台ファーム創設者、吉田善哉の妻)」「加藤みどり(声優、女優)」といった「候補者」の名を伝えてくれた。しかしながら、今なお、3人目を特定することができずにいる。

鍋掛牧場の基幹牝馬となった第二オーイエーをエイが購入するに至ったプロセスに関するリサーチも面白かった。

誠一郎さんは、次のように伝え聞いていたという。エイが北海道に牛を買いに行こうとしたら、悪天候で乗る予定の船が沈没して足止めを食らった。せっかく青森まで来たのだから、帰りに岩手の小岩井農場に寄って牛を買うことにした。が、見ているうちに馬のほうがほしくなり、そうして買ったのが第二オーイエーだった、と。

第二オーイエーは、前出のメジロオー、メジロムサシらの2代母である。

同馬は1937(昭和12)年、小岩井農場で生産された。父はイギリス産のシアンモア。3頭のダービー馬を送り出した名種牡馬だ。母のオーイエーもイギリス産である。

『サラブレッド血統書(ジェネラルスタッドブック日本版)』によると、第二オーイエーは1942(昭和17)年には鍋掛牧場にいた。ということは、購入したのは1937年から1942年の間だ。まず、その間の船舶事故から調べた。乗ろうとしたのは青函連絡船か、北日本汽船が運行した青森-室蘭間の客船か。『青函連絡船五十年史』『北日本汽船株式会社二十五年史』などの資料から、1941(昭和16)年2月に座州した青函連絡船の松前丸か、6月に沈没した北日本汽船の栄福丸に絞ることができた。そのうち後者は、樺太と北海道、裏日本を往復する不定期貨物船であることがわかった。

すべては「競馬界の今」につながっている

エイが乗ろうとしたのは松前丸だ。詳細を知るため国会図書館に行き、同年2月中旬の地方紙『北海タイムス』と『東奥日報』のマイクロフィルムをカラカラ回して記事を見つけ、それを原稿に生かした。

そして、エイが小岩井農場から第二オーイエーを購入した記録が残っているか、以前私がグリーンチャンネル特番『日本競馬の夜明け』の番組ナビゲーターとして小岩井農場を訪ねたとき出演してもらった小岩井農牧株式会社経営企画室の野沢裕美さんにメールで問い合わせた。すると翌日返信が来た。第二オーイエーは、1939年に花巻市の岸根蔵之助という人物に売却したという。岸根はどうやら生産者であると同時に、転売で利益を得る馬喰でもあったようだ。エイは、岸根から第二オーイエーを購入したのだろう。さらに野沢さんに、エイの父、熊谷茂八や夫の藤七に関する記録が残っていないか訊いてみると、茂八が1934(昭和9)年に牝馬を2万6000円で購入し、藤七が1938(昭和13)年に「馬来観」し、1942(昭和17)年にセリで牝馬を購入したことがわかった。ダメ元で問い合わせたのだが、この精度。さすが小岩井農場、である。

90歳で亡くなる, 2代目牧場主を連れてきた人物とは, 競馬界の「三大女傑」、3人目は誰なのか?, すべては「競馬界の今」につながっている

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長くなってしまったが、こうしてセルフライナーノーツを書くことによって、沖崎エイの存在も、彼女が関わった人馬も、すべてが「今」につながっていることを確かめられ、本作を世に問う意味を再認識することができた。今の競馬を支える根っこの部分を掘り起こす作業を、こつこつとつづけていきたい。