「東京湾」という名前が使われ始めたのは、なんと「昭和40年代」からだった!
東京湾の呼称変遷史
東京都の名称が正式に定まったのは意外に最近のことだ。国土地理院の地図を見ると、明治初期の海図には「東京海湾」と表記されている。長らく海図上ではこの呼称が使われてきたが、昭和40年代に「東京湾」と改められ、現在の表記に落ち着いた。
【画像】「えぇぇぇぇ!」 これが35年前の「東京湾アクアライン」です(計13枚)
名称変更の理由は、地形に適した表現を用いる必要があったためだ。英語で湾は「Bay」、海湾は「Gulf」と呼ばれる。Gulfは大規模な湾を示す表現であり、ペルシア湾は「Persian Gulf」、メキシコ湾は「Gulf of Mexico」と表記される。東京湾はこれほどの規模ではないため、「海湾」とするのは不適切とされたのである。
では、明治以前はどのように呼ばれていたのか。歴史的な概説書を読むと「江戸湾」という表記が見られることがある。しかし江戸時代の人々は、現在の東京湾全体をひとつの名称で呼んでいたわけではない。地域ごとの漁場や港を指す呼称が中心であり、湾全体を統一的に認識する習慣はなかった。
東京湾の呼称の変遷は、地名の問題にとどまらない。湾岸の港湾整備や海上交通の発展、物流ネットワークの形成に直結している。明治以降、江戸が東京に変わるとともに、港湾名としても東京湾が定着し、国内外の航路や貿易に対応する基盤が整備されていったのである。
物流と都市を支える東京湾

東京湾に浮かぶパーキングエリア「海ほたる」(画像:写真AC)
東京湾は関東南部に広がる重要な内海で、首都圏臨海部、房総半島、三浦半島に囲まれている。南の浦賀水道で太平洋と接し、狭義では約922平方キロメートル、広義では1320平方キロメートルの面積を持つ。湾奥の平均水深は約15mと浅いが、外湾では海底が急に深くなる谷があり、航路や港湾整備に大きな制約をもたらす。
江戸時代以降、東京湾では埋め立てによる土地造成が進み、江戸城周辺や港湾施設の基盤が整備された。現在は70を超える人工島が湾内に点在し、横浜港、川崎港、東京港、千葉港、木更津港が首都圏物流の中核として機能している。横須賀港には米軍基地や海上自衛隊基地も所在し、商業と軍事の両面で湾の重要性を示す。
湾岸は京浜工業地帯や京葉工業地域として発展し、加工貿易や製造業の拠点となった。臨海副都心や幕張新都心の開発により、港湾物流と都市開発は密接に結びついている。湾岸には高速道路や鉄道網も整備され、首都高速湾岸線や東京湾アクアライン、東京湾フェリーによる陸海輸送の連携が首都圏経済を支えている。
一方で、湾の閉鎖性や人口集中に伴う水質悪化、干潟や浅瀬の減少は、漁業や生態系に影響を与えてきた。赤潮や青潮の発生、汚水放流による水質負荷は、港湾物流や観光利用にも課題を生む。近年では浄化施設の高度化や人工干潟の造成により、生態系の回復も進んでいる。
東京湾は首都圏約4000万人の生活を支える物流の大動脈であり、港湾整備、陸海交通、都市計画が複合的に絡む戦略的空間である。そのため、環境保全と経済活動の両立が、今後の湾の持続可能性を左右する重要課題となっている。
走水が示す湾の歴史

横浜港(画像:写真AC)
現在の東京湾が初めて登場する文献は、『古事記』と『日本書紀』である。
ここには景行天皇40年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征を命じられ、船で上総国(現・千葉県中部)に渡ろうとした記述がある。しかし神の起こした嵐によって船は沈没寸前となった。妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)は海に身を投じ、嵐を鎮めたと伝えられている。
『日本書紀』ではこの出来事を
「故二時人其ノ海ヲ號ケテ馳水ト曰ク(そこで人々はその海を『馳水(はしりみず)』と名付けた)」
と記している。『古事記』でも同様の記述があり、この海域は「走水」と呼ばれていたとされる。湾全体を指すのか、一部の地域を指すのかは明確でないが、東京湾の名称が文献に登場する最古の例といえる。
神奈川県横須賀市にある走水神社も、この故事に由来すると伝わる。創建の詳細は不明だが、日本武尊が立ち寄った際に自らの冠を村人に与え、彼らがこれを祭ったことが始まりとされている。
この伝承は、東京湾沿岸が古くから交通や航路の要所であったことを示す貴重な証左である。湾や海路は当時の地域経済や物流にも深く関わり、江戸期以降の港湾整備や海上交通の基盤にもつながっている。
江戸前海の港湾史

東京湾(画像:写真AC)
『日本書紀』の景行天皇53年には、天皇が上総国から海路で淡水門(あわのみなと)に渡ったことが記されている。この淡水門は、後の安房国(現・千葉県南部)や館山湾を指すとされる。
江戸時代初期の随筆家、三浦茂正が著した『慶長見聞集』も貴重な記録である。三浦茂正は相模三浦氏の一族で、長らく後北条氏に仕えていた。小田原征伐で後北条氏が滅亡すると農民となり、後に天台宗の僧・南光坊天海に帰依した。その後、自らの見聞をまとめたのが『慶長見聞集』である。同書には
「相模、安房、上総、下総、武蔵、5国の中に、大なる入り海あり」
と記されており、江戸時代の漁場争いの記録には
・内海
・裏海
との表現も見られる。房総半島と三浦半島に囲まれたこの海域は、当時の人々にとって特定の湾として認識されていなかった。単に「江戸前の海」と呼ぶ程度であった。
これは、当時の東京湾沿岸に巨大な港湾開発や海上交通プロジェクトが存在しなかったことを示している。湾をひとつの名称で呼ぶ必要も、統一的な管理も求められていなかったのである。江戸前の海は、地域の漁業や港湾経済の単位として捉えられていたにすぎない。
東京湾名の成立史

東京湾と富士山(画像:写真AC)
現在の東京湾をひとつの海として認識する意識が広まったのは、江戸後期以降である。経済学者の佐藤信淵(のぶひろ)は、印旛沼開発と東京湾沿岸の整備を組み合わせた壮大な構想を提案し、『内洋経緯記』にまとめた。この書物では、現在の東京湾を
「内洋(うちなだ)」
と呼んでいる。
一方、外国人は早い段階から東京湾をひとつの湾として意識していた。1690年のヴェネチア、1704年のアムステルダムで作成された日本図には、それぞれの言語で
「江戸湾」
と表記されている。これにより、現在の東京湾を統一的な海域として認識する言葉が幕末に広まったと考えられる。
1853(嘉永6)年の黒船来航では、ペリーが浦賀に停泊し、日記や米国政府への報告書で「エドベイ」と記録している。この時点で、外国勢は江戸湾をひとつの港湾・海域として理解していたことがうかがえる。
開国後の交渉や外交の過程で、日本でも「江戸湾」という呼称と統一的な湾の認識が定着した。明治期に江戸が東京に改称されると、湾の名称も東京湾に落ち着いた。
前述のとおり、昭和40年代には海図上の表記も「東京湾」に統一された。ペリーは江戸湾の測量時に「アメリカ錨地」や「サスケハナ湾」といった独自名称を地図に記したが、これらは定着しなかった。
東京湾の名称の確立は、港湾・海上交通の管理や経済的利用を進めるうえでも重要な意味を持つ。