「自分は幸運な男だ…」下半身がつながる兄を失ったドクちゃん、苦しみを越えてたどりついた“使命”とは

Photo:SANKEI
ベトナム戦争中に散布された枯れ葉剤の影響なのか、下半身がつながった結合双生児として生まれた“ベトちゃん・ドクちゃん”。生存のために選ばれた分離手術から33年、彼らの「いま」を追った。※本稿は、読売新聞社会部「あれから」取材班『「まさか」の人生』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
分離手術から目覚めると
隣にいた兄が消えていた
麻酔から目覚めると、不思議な感覚に襲われた。いつも左隣にいた兄がいない。「ナンダカナ、ナンダカナ……」。訪日時に覚えた片言の日本語でそうつぶやいた。「何が起きたのか」という意味だった。
1988年10月4日、ベトナム南部ホーチミンのツーズー病院。当時7歳だったグエン・ドクさんは、双子の兄ベトさんとの分離手術に臨んだ。
「ベトちゃん・ドクちゃん」。そう呼ばれた2人は、ベトナム戦争中に米軍が枯れ葉剤を散布した村で生まれた。下半身がつながった結合双生児だった。

特製車いすに乗るドクさん(左)とベトさん(右)。車いすは日本の「べトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が要望を受け製作した〈同会提供〉 同書より転載
下腹部の激しい痛みは、兄と体が切り離された証しといえた。「ようやく自由になれた」。喜びが込み上げると同時に、何とも言えない喪失感に包まれていた。
1981年2月25日、ベトナム中部の貧しい農村に双子の男児が誕生した。
「化け物が生まれた。川岸に連れて行って燃やしてしまえ」。母のラム・ティ・フエさんは出生時、親戚の1人がそうまくし立てたと明かす。下半身がつながった結合双生児。後の「ベトちゃん・ドクちゃん」だった。
農村は、ベトナム戦争中の60年代~70年代に米軍が重点的に枯れ葉剤を散布した地域の1つだ。フエさんは山中のキャッサバ畑で、白っぽい粉をまく米軍機を目撃していた。
「命を守るため、病院に預けた」。フエさんはそう話す。2人は首都ハノイのベトナム・東ドイツ友好病院に送られ、病院名にちなみ、兄は「ベト」、弟は「ドク」と名付けられた。
枯れ葉剤の影響を取材するフォトジャーナリストの中村梧郎さんは81年12月、病院で目にした2人に驚きを隠せなかった。
「こんな子供がいるのか」
ベトナムでは当時、結合双生児はほかにもいたが、多くが死産か、生後すぐに死亡していた。中村さんも生きている姿を見たのは初めてだった。「この子たちもあと1、2年しか生きられないのでは」。その時は、そう思ったという。
その後、2人は障害児のケアが充実する南部ホーチミンのツーズー病院に移送された。そこは成人後も暮らす「家」となった。
分離手術を実現させたのは
日本国内で高まった世論の力
「2人で1つが当たり前。特別だとは思っていなかった」。42歳になったドクさんは、子供時代をそう振り返る。
「これは僕のおもちゃだ」「違う、僕のだ」「こっちに行きたい」「いや、あっちだ」。けんかもしたが、「いつも一緒ですごく楽しかった」。
障害者の実態調査で85年2月、ツーズー病院を訪れた藤本文朗・滋賀大学教授(当時)は、配膳用の台車に乗った2人に笑みがこぼれた。
「障害を感じさせないほど活発で、キラキラと生命力にあふれていた」。
帰国後、募金活動で特製の車いすを贈ると、2人は病院内を自在に動き回り、ボール遊びにも興じた。
そんな楽しい日々は突然、終わりを告げる。
1986年5月、兄のベトさんが高熱に襲われ、意識を失った。診断は「急性脳症」。ベトさんへの大量の投薬は、ドクさんにも影響を及ぼし、「気分が悪く、痛みもあった」。
高熱がドクさんにうつれば、2人とも命を失いかねない。危機的な状況にも、医療事情の良くないベトナムでは、なす術がなかった。ツーズー病院から相談されたベトナム赤十字社は、日本赤十字社(日赤)に緊急援助を求めた。
日赤は当初、支援に慎重だった。枯れ葉剤と結合双生児の因果関係は公式に証明されていない。「政治的にデリケートな問題をはらむ中での支援は、日赤の中立性を損なう恐れがあった」。当時、外事部次長だった近衞忠煇さんはそう説明する。
日本の世論が日赤を動かす。戦争の「爪痕」を強く感じさせる2人は、日本でも大きく報道された。
86年6月、ホーチミンから日航機で来日し、東京・広尾の日本赤十字社医療センターに運ばれた。入院は約4カ月に及び、精密検査や投薬が施された。
日赤には寄付金が続々と集まり、日本の子供たちからは、1週間で100個のおもちゃやお菓子が届いた。
ドクさんは元気を取り戻し、ベトさんも当面の危機を脱したが、意識レベルは低いままだった。ベトナムへの帰国後も、ドクさんはベッドの上で過ごす日々を送った。夜中にベトさんが発作を起こし、眠れない日もあった。そんな生活が約2年続いた。
「ベトと離れたい」。そう願うのも無理はなかった。
肝臓や脚は2人で共有し
性器などはドクさんが使うことに
ツーズー病院には夜明け前から約70人の医師や看護師、100人近い報道陣が集まっていた。88年10月4日午前、2人の分離手術が始まった。
手術室の中には無数の機材が置かれ、手術台の上は少しひんやりとしていた。怖さはなかった。ドクさんには、麻酔で意識が途切れる前の記憶がわずかに残る。
執刀したチャン・ドン・ア医師は「世界中から注目され、失敗は許されなかった」と話す。
2人の分離は出生後からの懸案だった。ベトナム側は2人の日本滞在中の手術を望んだが、実現しなかった。
寝たきりのベトさんを犠牲にし、元気なドクさんを優先すべきか。2人とも生かす可能性を探るべきか――。倫理上の問題点に加え、親権者の許可もなかったためだ。
手術にあたり、ベトナムの医師たちは連日、議論を重ねた。最終的に腎臓と脚はベトさんとドクさんが分け合い、1つしかない性器や肛門などは、ドクさんがもらうことに決まった。
2人と交流を続けていた中村さんは、手術室への入室が許された1人だ。枯れ葉剤被害を長年調査した実績が認められたという。
「2人のつながった腰骨が、巨大なのこぎりとのみで切り離された。びっくりした」
約15時間に及んだ手術は、無事成功した。日赤は医療機器を提供したほか、医師や技術者も派遣し、側面支援した。
ツーズー病院で2人の主治医だったグエン・ティ・ゴック・フォン医師は言う。
「つながったままでは、ドクは学校にも行けないし、友達にも会えない。ドクに自由で自立した生活を送らせるチャンスを与えられたことが、手術の最大の成果だった」
壮絶な手術を終えたドクさんに
待ち構えていた社会の壁
分離手術後に始まったドクさんの新たな生活は、決して順風満帆ではなかった。
念願の学校に通い始めたものの、学んだことが覚えられず、授業についていけない。「投薬の影響だ」。医師からはそう説明された。中学校を離れ、職業訓練学校でコンピューター技術を学んだ。
特殊な環境は、心の成長も妨げた。看護師は優しく、身の回りの世話を何でもしてくれた。取材で注目され、贈り物も当然と受け止めた。
フォン医師は「『甘やかされてばかりでは駄目だ』と教えるのに苦労した」と打ち明ける。
再会した母との関係にも苦しんだ。分離手術の許可を得るため、ツーズー病院はフエさんを探し出した。フエさんはその後、病院に住み込みで働き始めたが、ドクさんは、耳慣れない方言を話す「初対面」の女性を「家族」と実感できなかった。今もぎこちなさが残る。
そんな中、手術後も植物状態が続いたベトさんへの思いは変わらなかった。学校から帰ると声をかけ、手を握った。「一緒に遊ぼう」と言うと、笑いかけてくれる気がしてうれしかった。
2003年にツーズー病院で事務の仕事に就くと、06年に知人の結婚式で出会ったグエン・ティ・タイン・テュエンさんと結婚した。「私の愛は私が責任を持つ」という彼女の言葉に勇気付けられた。
自分の家で家族と食事し、自分のベッドで眠るのが、子供の頃からの夢だった。結婚後、ローンで自宅を購入し、病院を出た。「いずれベトを引き取りたい」との思いがあった。
兄の分まで生きようと
被害者支援に人生を捧げた
2007年10月5日夜、ツーズー病院からドクさんの自宅に電話があった。
「大変なことになりそうだ」。駆けつけると、ベトさんは6日未明、静かに息を引き取った。
その数カ月前から衰弱が始まっていた。毎日病状を確認し、覚悟はしていた。それでも、涙が止まらなかった。
「ずっと、ずっと一緒にいてくれると思っていたのに……」
ベトさんは学校にも行けず、社会と関わりを持てないまま、26歳で人生を終えた。いなくなって思い知らされた。「自分はベトを犠牲にここまで来た。これからはベトの分も生きよう」
自分の体験を話すのが好きではなかったが、ベトさんの死後、考えが変わった。
「自分が語ることに意味がある」。
自ら設立した非営利組織で講演活動を行い、講演料を枯れ葉剤の被害者らに寄付する。
中村さんとの交流は、40年を超えた。「ドクは成長した。戦争被害の象徴であり続けることを、自分の役割だと自覚している」と目を細める。
09年10月、人工授精で双子の男女が生まれた。日本の支援に感謝し、息子をフーシー、娘をアンダオと名付けた。ベトナム語でそれぞれ「富士」と「桜」を意味する。
「障害があったらどうしよう」。
そうした懸念は今のところ杞憂に終わっている。
分離手術後、腫瘍(しゅよう)や感染症で手術を繰り返した。そのうち17年には腎臓の治療で6回の手術を受けた。今も体調は優れず、「長くは生きられない」とも感じている。
それでも、自分を「幸運な男だ」と言う。あの分離手術を乗り越え、今も生きている。そんな自分を、ベトさんがいつも見守ってくれているのだから。

仲むつまじい様子のドクさんの家族。(左から)息子フーシーさん、ドクさん、妻テュエンさん、娘のアンダオさん〈読売新聞提供〉 同書より転載
ベトナムの被害者協会などによると、戦時下で約480万人が枯れ葉剤を浴びた。その子や孫の代なども含めた約300万人が奇形やがんなどの疾病に苦しむ。
同国政府は、枯れ葉剤が散布された地域にいた人や、奇形など特定の病気や障害を持つ「第1世代」と、その子供で同様の症状がある「第2世代」の計30万人超を「枯れ葉剤被害者」と認定し、給付金を支給している。ドクさんは第2世代にあたる。
米国は現在も、枯れ葉剤と人的被害の因果関係について、科学的な根拠がないとする姿勢を崩していない。
[2023年7月9日掲載/浜田萌]

『「まさか」の人生』 (読売新聞社会部「あれから」取材班、新潮社)