《余命6か月》37歳で相方亡くし「1年間同じ夢を見続けた」顔の半分も麻痺したシルクが「芸人辞めたい」と告げた過去

吉本興業の美容番長と呼ばれる芸人・シルクさん。大学卒業後、中学時代からの親友・ミヤコさんと漫才コンビ「非常階段」を組み、『ABCお笑い新人グランプリ』で最優秀賞を受賞。お茶の間の人気者となりました。しかし、人気絶頂の37歳のとき、相方のミヤコさんが肺がんと告知されます。

相方は中学からずっと私の大親友だった

── シルクさんは、ミヤコさんと「非常階段」というコンビを組んで漫才をされていました。ミヤコさんとの出会いを教えてください。

シルクさん:ミヤコさんとの出会いは、中学1年生のときです。隣の席になったことがきっかけで仲良くなりました。一緒にいるととても楽しくて、すぐに仲良くなりました。優しくてしっかり者でしたね。当時、授業中に女子同士でお手紙交換をしていたのですが、ミヤコさんに注意をされてやめさせられたりもしました(笑)。いい塾や勉強法を教えてくれるお姉ちゃんのようでもあり、親友でもあり、ときには頼ってくれる妹のようでもありました。

相方は中学からずっと私の大親友だった, 「ぎこちない2人が一生懸命なのがおもしろい」, 固定給にしてほしいと交渉し、クビを覚悟, 余命6か月の肺がんと告げられた, 1年間、毎日同じ夢を見続けて顔は麻痺し非常階段としてコンビを組んだ相方のミヤコさんと

── 仲良しだったんですね。

シルクさん:はい。当時、私の成績はクラスで後ろから8番目だったのですが、ミヤコさんと遊ぶようになってから一気に伸びました。ミヤコさんが1位、私が2位という高成績をとるようになって、私以上に私の親がミヤコさんに絶大な信頼を寄せていましたね(笑)。

高校・大学も同じで、2人で大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)に進学しました。卒業後、私は英語の先生になる予定で、勤務先の学校も決まっていました。ミヤコさんは女優を目指してオーディションを受けていました。

── 別々の道を歩むんですね。

シルクさん:でも、ミヤコさんが劇団のオーディションに落ちてしまって。当時は漫才ブームだったこともあり、「お笑い芸人を目指そう」と言い出したんです。そこで「せっかくだから2人で注目されたい。一緒にコンビを組もう!」と誘われました。ミヤコさんが言うことだからと誘いにのって、そこから二人で漫才の練習を始めました。

しばらくして、漫才をするからにはどこかの事務所に入らないといけないということで、吉本興業に電話をしました。偶然、元会長の大﨑洋さんが出られて「今稽古をしているから来なさい」と言ってくれたんです。

「ぎこちない2人が一生懸命なのがおもしろい」

── そんな経緯だったんですね。

シルクさん:そうなんです。2人で現場に行ったら、大﨑さんがダウンタウンさんと稽古をしていました。その流れのまま、大﨑さんとダウンタウンさんの前でネタ見せをすることになって。それが実質オーディションになったのですが、大学を卒業したばかりの素人が漫才をしてもおもしろいはずもなく。まったくウケませんでした。

浜田さんは気を使って、「ぎこちない2人が一生懸命やっているのがおもしろい」と、なんとかほめてくださいました。松本さんは、ちょっと口の端が歪んで笑ってくれたかな、くらいの反応でしたね。もうダメだと思いました(笑)。

── すごいシチュエーションですね。

シルクさん:でも運がよかったことに、当時ちょうど二丁目劇場をひらくことが決まっていて、「若手中心に舞台をやりたいから出ないか」と声をかけてもらえたんです。お試し期間として夜の部に週3回、立つことになりました。

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固定給にしてほしいと交渉し、クビを覚悟

── すごいですね。

シルクさん:その後しばらくして、正式に吉本興業に入らないかとお誘いを受けました。ただ、両親には大反対をされました。もともと教師を目指していたわけですし、食べていけるかもわからない世界ですから。ミヤコさんと一緒だからと、なんとか説得しました。ただ、「一般的な初任給の金額を稼げなければ、1年で辞めるように」と約束をさせられて。それで、ミヤコさんが会社に「私たちを固定給にしてほしい」と交渉してくれたんです。

そんな芸人は当時いなかったので、私は「こんなこと言って、クビだな…」と思いました。でも、結局15万円を固定給として毎月もらえることになりました。

── ミヤコさんの交渉力は素晴らしいですね。

シルクさん:ミヤコさんはどんなことも、しっかりと主張して進める人でした。おかげで、親の了承を得て芸人として働くことができました。

漫才の練習をする場所がなくて、私たちはいつもビルや建物の非常階段で練習をしていました。それがコンビ名の由来です。その後、ABCの新人漫才コンクールで最優秀賞をいただき、仕事もどんどん増えて、芸人として生活できるようになりました。

── 友達からコンビになったことで関係性は変わりましたか?

シルクさん:ビジネスパートナーでもありましたが、変わらず仲良しで大好きな友達でした。大学を卒業してすぐに舞台に立たせてもらったので、先輩芸人から陰湿な嫌がらせをされることもありました。私は「許せない!」と怒って文句を言うタイプでしたが、ミヤコさんから不満を聞くことは一度もありませんでした。

ミヤコさんは中学のころから変わらずおおらかで、「努力してきた人が、私たちみたいにこの世界に急に入ってきた人を見たら、そりゃおもしろくないよ。そこは理解しようよ」と言うんです。懐が深く、とにかく優しい人でした。

余命6か月の肺がんと告げられた

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── ミヤコさんは37歳で大病を患っていますよね。

シルクさん:37歳のとき、「肺気腫で入院した」という連絡があり、お見舞いに行きました。そこでミヤコさんのお母さんに廊下へ呼ばれて「実は余命6か月の肺がんだ」と告げられました。突然の告知でした。気づいたときには、かなり症状が進行していたようです。ご両親の「本人には最後まで希望を持たせたい」という意向もあって、ミヤコさん本人へは告知をしませんでした。

私は仕事以外の時間は毎日病院に通いました。病室で、構成作家さんとミヤコさんと私の3人で台本の打ち合わせもしました。「元気になったらこの仕事をやるんやで」と未来のスケジュールをどんどん立てていきました。希望をもってほしかったんです。

── ミヤコさんの体調はどうだったのでしょうか。

シルクさん:告知を受けたころはとても元気でしたが、アッという間に体重が減り、抗がん剤の影響で髪の毛も抜けていきました。周囲の人にも病気のことは伝えていませんでした。お見舞いに来る人がいたので、その人がミヤコさんの姿を見て驚いたり、余計なことを言わないように私が立ち会っていました。

「心配をかけたくないし、同情されたくない」というのがミヤコさんの気持ちでした。お見舞いの方と会う前には、ミヤコさんがやせて見えないように、私がメイクをしていました。

── 病室ではどのようなお話をされていましたか?

シルクさん:病室では、これからの2人の話をたくさんしました。本人の前では、できるだけ明るく振る舞いました。別の棟に、バイクの事故でリハビリしているカッコいい患者さんがいるから見に行こう!と、2人でこっそり見に行ったりもしました。学生のころに戻ったようで楽しかった。

ミヤコさんの前で元気に振る舞う自分と、やせていくミヤコさんを見て寂しくて悲しくて不安で押しつぶされそうになる自分がいて、当時は2人の自分を生きている感覚でした。2人の自分の狭間で心が耐えきれなくなって、家では夜にひとりでよく泣きました。それでも「ミヤコさんのほうがつらいんだから、私が泣いてもしょうがない」と自分に言い聞かせていました。

1年間、毎日同じ夢を見続けて顔は麻痺し

── つらかったですね。

シルクさん:ある日、韓国で1泊2日のロケが入ったんです。ミヤコさんのことがあるので私は行かないつもりだったのですが、ミヤコさんのお母さんに電話をすると「最近、調子がいいから気にせず行ってきて」と言ってくださったので、ロケに行くことに。帰国後はすぐに病室に向かいました。ミヤコさんは元気そうだったので「明日もまた来るね」と言って、その日は家に帰ったんです。

その翌朝、4時30分くらいに「ミヤコさんが他界した」とお電話をいただきました。私の帰国を待っていてくれたのかな、と思いました。モルヒネの効果もあって、最後は苦しまなかったとご両親から聞きました。

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── 当時、記憶に残っていることはありますか。

シルクさん:ミヤコさんが亡くなってからの1年間、ほぼ毎日同じ夢を見ました。棺に入っているミヤコさんの隣で、私も一緒に横になっている夢です。2人で「いつ棺から出ていって参列者を驚かす?」と楽しそうに打ち合わせをしてるんです。そしてミヤコさんがみんなを驚かせようと棺から出ようとしたところで、必ず目が覚める。そんな夢を、1年間ずっと見ていました。

さらに、ミヤコさんが亡くなってから、私の顔の左半分が神経痛で動かなくなりました。ピクピクするのに表情が作れない状態で、仕事もままならなくなっていました。

── そうだったんですね。

シルクさん:ミヤコさんが亡くなってからお墓には毎日通っていたのですが、そんな状況だったのである日、「しばらくは来ないね」とお墓の前でミヤコさんに告げました。この出来事としっかり距離を取らなければ、自分の人生を生きられないと思ったからです。その後、大﨑さんに連絡をして「仕事ができる状態ではないので、芸人を辞めたい」と伝えました。大﨑さんは「吉本は多様な人間がいる会社だから、好きに働けばいい。辞めたらダメだ」と言ってくださいました。

そこで、まずは気持ちを整理するために長期休暇をいただき、ニューヨークに行くことにしました。生きる場所を変えようと思ったんです。美容師の友人とルームシェアを始め、ミヤコさんとの思い出のない土地で暮らすことにしました。知らない土地で新しい生活を始めたことで、心の傷が少しずつ癒えていきました。

ミヤコさんとの思いを断ちきるため、仕事を休んでニューヨークに旅立ったシルクさん。ニューヨークでは、これからの人生についてゆっくりと考える時間を過ごしたそうです。

取材・文/大夏えい 写真提供/シルク