登山中にピラミッドが突如出現!岡山「石積みの遺構」は、奈良時代の超有名人を埋めた墓のルーツだった?

Photo by Satoshi Tomokiyo
岡山県赤磐市の山中にひっそりと佇む「熊山遺跡」は、謎の多いの古代遺跡の一つだ。一見するとピラミッドを思わせる、意味深な構造のこの遺構は、一体いつ誰が何の目的で設置したものなのだろうか。周辺情報からその正体に迫りたい。(取材・文・撮影/フリーライター 友清 哲)
トレッキングで人気の低山を登ると
山頂に突如現れる石の構造物
岡山県赤磐市に、熊山という山がある。標高508メートルの低山だが、山頂の展望台からは瀬戸内海に浮かぶ小豆島まで見渡すことができ、トレッキングスポットとして界隈で人気を博している。
この熊山にはもう一つ、知る人ぞ知る見どころがある。登山道を登り、山頂に到達すると眼の前に突然現れる、謎の構造物である。階段状に石が積まれた独特の遺構で、四角錐のフォルムがエジプトのピラミッドを連想させる。
「熊山遺跡」と名付けられたこの遺構は、高さは約3.5メートル、基底部は一辺が約12メートルと、それなりに大きなものだ。木々に囲まれた威容は物々しく、そして実にミステリアス。日本版ピラミッドと考えたくなるのも、無理からぬことだろう。

熊山の山頂に佇む熊山遺跡。階段状の石積は何を意味するのか?
ちなみに日本にもピラミッドがあるというのは、わりと知られた俗説だ。それらはエジプトに見られるような石積みの構造物ではなく、古来より聖地として崇められてきた自然の山を指すことが多い。
たとえば、和製ピラミッド研究の第一人者である酒井勝軍が昭和初期に広めた広島県の葦嶽山や、クロマンタの愛称で知られる秋田県の黒又山、ダイダラボッチ伝説が残る愛知県の石巻山など、実はピラミッドなのではないかと噂される山は枚挙に暇がない。
しかし、熊山遺跡は明らかに人工物であり、そうした日本のピラミッドとは趣を異にしている。国の史跡に指定されてはいるものの、建造年や用途についての記録は見つかっていない。
その正体に迫るために、熊山周辺の歴史を少し遡ってみたい。
鑑真和上がもたらした
地蔵菩薩が眠る熊山神社
いまでこそ「熊」の字があてられている熊山だが、もともとは吉備の国の“隅”に位置することから「隅山」と表記され、それが転じて現在の呼称になったという説がある。
熊山の歴史は古い。その根拠の一つが、山頂を目指す途中、林に埋もれるようにして鎮座する熊山神社である。
創建年代は不明だが、中世の頃、熊山の山頂には帝釈山霊山寺が置かれていたそうで、ここに鑑真和上が入朝したのが天平勝宝6(754)年のこと。鑑真和上は国家泰平を願って地蔵菩薩を社内に安置したと伝えられるが、明治の神仏分離で開扉し、新たに設けられたのがこの熊山神社なのだという。

参道の途中にある熊山神社
山頂付近に残る山門跡や鐘楼
奈良時代に掘られた井戸も
山頂にはかつてそこに存在した帝釈山霊山寺の名残がいくつか残されている。山門跡や鐘楼もしくは観音堂の痕跡と目される遺構が随所に案内板で示されていて、それらがどれも平安時代後期のものと想像すると、なんとも言えないロマンをかき立てられる。
さらに平安時代から遡った奈良時代に、秦氏が掘ったという井戸も山頂付近に残っている。
秦氏といえば大陸からの渡来人で、秦の始皇帝の末裔であるとも、イスラエルからやってきた異邦人であるとも言われる謎多き一族だ。彼らが熊山遺跡の建造に携わっているのだとしたら興味深い。
これはさほど無理のない想像で、高い建築技術を持っていたとされる彼らのサポートは鑑真和上にとって、帝釈山霊山寺を開く上で欠かせないものだったのではないだろうか。

熊山山頂には、鐘楼か観音堂の跡と言われる遺構が

山頂付近に残る、秦氏が掘ったという井戸の痕跡
中心部に設けられた石室
発見当時中にあったものは?
あらためて熊山遺跡を細かくチェックしてみると、基壇の上に3段の石積みが構築された4層構造になっているのがわかる。また、4つの側面は正確に東西南北を指しているそうで、何らかの儀式に用いられたものと考えるのが自然に思える。
さらに、熊山遺跡の中心部には、高さ2メートルほどの石室が設けられている。石垣をよじ登るわけにもいかないので開口部を直接確かめることはできないが、発見当時、その石室の中には、高さ1.6メートルの陶製の筒型容器が納められていたという。
容器の中には三彩釉という低火度溶融の釉薬で彩られた小さな壺と、文字が書かれた皮製の巻物が入っていたと伝えられる。ところが残念なことに、その巻物ははるか昔に盗難に遭い、現在は行方がわからなくなっている(陶製容器のほうは奈良・天理大学附属天理参考館で管理されている)。
結局のところ、判明している情報はそのくらいで、この遺構が何なのか、いまのところ明確な答えは存在していないのが実情だ。
しかし、この地が山頂の伽藍(僧侶の修行場所)であったことや、石積みの方式から推測できる筑成年代からすると、奈良時代初期に造られた仏塔と解釈するのが現実的な落とし所のようだ。
たしかに、2段目の四方に設けられた窪みにしても、龕という仏像を納める厨子と解釈すれば辻褄は合う。そしてその仮説を裏付けるものが、奈良県に存在している。奈良市内、東大寺南大門から南に1キロほどの場所に残る、「頭塔」である。
熊山遺跡の正体に通じる
奈良県の「頭塔」に眠るのは…
頭塔は住宅街の中にある。門扉は施錠されており、見学希望者は管理を担っている近隣のギャラリーに協力金300円を支払い、解錠してもらうことになる。
奈良時代に玄昉という法相宗の僧侶の頭を埋めた墓であるとの伝承があることが名称の由来とされる頭塔。熊山遺跡と同じく石積みの遺構だが、1辺32メートルの正方形から全7段の方形段が積み上げられ、高さは10メートルに達する。
やはりピラミッドを連想させる独特の形状ではあるが、こちらは『東大寺要録』という平安時代後期に作成された東大寺の寺誌に、神護景雲元(767)年に奈良時代の僧・実忠によって造営されたことが記される、れっきとした仏教施設である。
実際、各段には浮彫、線彫の石仏が配置され、中から石仏が見つかってもいる。

奈良県の「頭塔」もまた、ピラミッドを思わせる石積構造だ

頭塔の随所にあしらわれている石仏
両者の構造の共通点からして、熊山遺跡をこの頭塔のルーツとして考えるのは、無理のない推論だろう。
たとえば、熊山遺跡の中から出てきた三彩釉の小壺にしても、本来の用途はお骨を納めた骨蔵器だった可能性もある。日本では飛鳥時代の終わり頃から火葬の文化が始まったと考えられているから、時代的にも合致するはずだ。
もちろん、すべては机上の推論に過ぎない。あるいは今後、こうした仮説を一気に翻す物証が見つかることもあるかもしれない。なにしろ、熊山にはこれまで、大小32基もの石積みの跡が確認されているのだ。
さらなる発見と調査結果を楽しみにしつつ、時にはこうして中世日本の文化に思いを馳せながらトレッキングを楽しむのも、一興ではないだろうか。