長野「元オリンピック選手村」30年後の驚く光景

「長野オリンピック」の選手村だった場所は今ーー(写真:筆者撮影)
個性的な住棟に水路が走る「フシギなまち」
上野から北陸新幹線「あさま」に乗る。大宮、高崎、軽井沢、上田を抜け、1時間半ほどで終点の「長野」に着いた。
【写真】「あまりに個性的すぎる団地に!」長野オリンピックの選手村《28年後の驚く姿》
改札を出てコンコースを歩くと、見覚えのある絵が目に入った。1998年に長野で開催された冬季オリンピックのエンブレムである。
テレビで見た映像がうっすらよみがえるなか、在来線に乗り換え、信越本線で篠ノ井方面へ。犀川を渡り川中島駅を過ぎると、車窓に田園風景が広がった。次の「今井駅」で下車した。
さて、今回のフシギな物件は、この今井駅のそばに存在する。特殊な歴史があり、ユニークな造形の住棟があると聞く。同県出身の筆者は長年その存在が気になっていた。
向かったのは、駅の東側エリアだ。小さなロータリーからまっすぐ続く道を行くと、前方に大きな建物が見えた。幅の広い道の両側には、個性的な住棟が並んでいる。

フレームが飛び出すような造形に目を奪われた(写真:筆者撮影)

敷地の中央には高くそびえるタワーのような住棟も(写真:筆者撮影)
凹凸の造形や、曲線と直線が交ざり合うスタイリッシュな住棟、高くそびえるタワーも見える。
道は途中でカーブし、車はゆっくり通り過ぎた。格子状のあしらいが美しい白い住棟が現れ、さらにめぐると切妻屋根や雁行型の集合住宅にも遭遇した。

三角屋根の住棟。色使いが楽しい(写真:筆者撮影)

雁行型の曲線とイエローの配色が美しい(写真:筆者撮影)
住棟の種類は10近くあるだろうか。外観も雰囲気もさまざまだが、中庭や広場の緑が住棟同士をつなぎ、不思議な一体感がある。
歩きながら心惹かれたのは、まちを流れる「水路」の存在だ。舗装された都市的な水路に、緑に覆われた自然豊かな水路もある。まちの表情が豊かで、まったく退屈しない。

水路は浅く、水はゆっくり流れる。田園風景とのつながりも感じる(写真:筆者撮影)
30年前、農地に誕生したニュータウン
このフシギなまちの名は「今井ニュータウン」。果樹園や水田が広がる地に、98年10月に誕生した。

誕生時に撮影された、田園地域に立つ今井ニュータウンの全景(出典:『今井ニュータウン建設記録』)
実は今井ニュータウンには、98年の長野オリンピック・パラリンピック冬季競技大会の「選手村」だった歴史がある。大会期間中、選手や関係者ら約3000人の宿泊施設として利用された。
閉幕後の秋、1032戸の住宅を内包するニュータウンとして人々の暮らしが始まった。
長野市の市街地から約7kmの地に立つ個性豊かな住棟群。内部にはどんな世界が広がっているのか。
長野市建設部住宅課に問い合わせたところ、市営住宅を見学する機会に恵まれた。さらに建設設計のプロセスや経緯を記録した『今井ニュータウン建設記録』(1999年3月/編集発行 長野市)を見ることができた。

長野市が発行した『今井ニュータウン建設記録』(写真:筆者撮影)
住棟内部をのぞく前に、まずはその成り立ちから紹介したい。
オリンピックの開催が「長野」に決まったのは91年夏。実は3度目の正直で決まった大会だった。
開催まで6年半、交通インフラや都市の整備は急ピッチで進められる。東京・長野間の長野新幹線の開業も、高速道路や一般道路の整備も、開催に合わせて加速した。
選手たちが滞在する「選手村」も重要な事業として位置付けられた。
選手村は、選手と役員が一同に滞在できる宿泊施設のほか、滞在中の生活をサポートする運営・サービス施設も必要とされる。国際オリンピック委員会(IOC)が定める選手村のガイドラインもあり、競技場への距離などさまざまな条件がある。
大会中に選手らが滞在する重要な施設であるとともに、国際交流の貴重な場として期待も大きい。しかし、大会期間は1カ月ほどだ。その後の活用を見据えた最適な選手村を用意するには何ができるのか。

このフシギな建造物やまちは、どのようにして生まれたのか(写真:筆者撮影)
どこに「オリンピック村」をつくるのか?
冬季五輪は競技が山岳地帯に点在するため、開催都市の規模はそう大きくはない。夏と比べるとコンパクトとはいえ、開催地で3000人規模の施設の確保は容易ではない。
選手村を新築しても後利用が難しい場合が多く、過去には学生寮やホテル、リゾートなどの既存の宿泊施設の活用や、仮設施設を建設する方法をとる大会もあった。
長野の場合、規模に見合う既存施設がなく、仮設にするには多大な整備費がかかる。結果、選手村を新築し、都市計画の一環で住宅に転用する案に決着した。

左側に見えるのは在来線と並行して走る新幹線の線路。その先に長野の市街地がある(写真:筆者撮影)
選手村で必要となる運営・サービス施設は、一時利用の仮設や市内の施設を割り当てる対応となった。ちなみに、カーリングは軽井沢のホテルを、スノーボードは志賀高原のホテルを選手村に利用した。
計画地は、各競技場へのアクセスのほか、集合住宅の立地性、市の都市計画などから、川中島今井地区の市街化調整区域に決まった。建設用地の取得が急がれた。ちなみに今井駅も計画に合わせて新設されている。

メインストリート沿いにはバス停もある(写真:筆者撮影)
建設部住宅課主幹兼課長補佐の竹内健一さんは、計画地域についてこう語る。
「今井ニュータウンの住所は『今井原』という地区の名前がついています。この一帯は古くから農地が広がっていた場所です。ニュータウンがそのまま今井原区となり、その後の開発などにより周辺に住宅が増えました」(竹内さん)

93年、用地交渉中のころの今井地区の風景。一帯は果樹園や水田が広がり、中央に線路が走っている(出典:『今井ニュータウン建設記録』)
92年に長野市単独でニュータウン開発を施行することが決定。選手村の建設が地域の開発を導く形となり、両者をバランスよく実現するために行政の手腕が求められた。
後利用の住宅においては、バブル崩壊後の状況から、一般への分譲を目的とした住宅より、県や国の公的機関や地元企業の職員用住宅として供給することが検討された。
エンドユーザーは、県や県教育委員会、地元民間企業、大蔵省・建設省・郵政省など9つにわたり、複雑な事業だったことがうかがえる。
93年末、「今井ニュータウン基本計画検討委員会」が組織され、いよいよ具体的に動き出す。オリンピック開催まであと4年に迫っていた。

中庭を囲むように立つD工区の市営住宅。右はG工区の市営住宅(写真:筆者撮影)
設計者はなんと28名「異例の体制」
委員長は、工学院大学工学部教授の渡辺定夫さん(東京大学名誉教授・都市計画家)が就任し、早速マスタープランの検討が始まった。
『今井ニュータウン建設記録』を見ると、以降、怒涛の動きが見てとれる。
マスタープランやガイドラインが議論され、94年3月に「長野市今井ニュータウン基本計画」が策定。4月に長野市建設部に「オリンピック村建設事務局」が設置され、6月には住宅購入者や購入戸数の最終調整が実施された。
そして7月、設計者選定委員会が発足し、住棟の設計者が選ばれる。
10月に渡辺さんが「デザインコミッショナー(総合監修者)」に任命され、コミッショナー体制がつくられた。
主導するコミッショナーを補佐し設計者とつなぐ「デザイン調整チーム」、色彩・環境・住宅計画・福祉・造園の分野の専門家らの「アドバイザー」、そしてマスタープランやガイドラインを踏まえて各工区の設計から監理まで行う「建築設計者」によって、都市と住宅のデザインと設計が進められた。

中央の広場には、五輪マークが刻まれている(写真:筆者撮影)
さらに特筆すべきは、設計者の人数である。
世界にアピールできる選手村であり、先進的なニュータウンの計画だ。設計者は全国から実績のある建築家が選ばれた。また、住宅に地域性を反映させるため、地元の設計者の参加も多数募った。
当時よく見られた、複数の建築家が関わる形式を取り入れ、7つの工区ごとに共同企業体(JV)を組む方針をとった。
工区それぞれで中心となったのは、新居千秋さん(A工区)、長谷川逸子さん(B工区)、内藤廣さん(C工区)、富永譲さん(D工区)、松永安光さん(E工区)、元倉眞琴さん(F工区)、遠藤剛生さん(G工区)の全国的に活躍する7名の建築家だ。
そこに地元3社が加わり、7工区28の設計者が直接関わったことになる。
そんな設計者とコミッショナー、デザイン調整チーム、アドバイザーは、「UD会議(アーバンデザイン会議)」で検討を重ねた。50名にもなる大所帯だったという。

UD会議の様子。大きな模型を囲んで計画の調整を行う(出典:『今井ニュータウン建設記録』)
複雑な調整を経て生まれた「新しいまち」
超多忙な人たちが集まり、顔をつき合わせて話し合う。模型を囲み、課題を持ち帰って検討する。その数は工事完了までに30回を超えた。
コミッショナー体制のもと、複数の設計者が集まる計画は異例だったのではないだろうか。
当時は固定電話やFAXが主流の時代だ。今のようにオンラインで会議をしたり資料をサクッと共有したりすることはもちろんできない。4社JVの体制で動くことの大変さも想像する。
限られた期間で、住棟の設計から、色彩やランドスケープなどさまざまな検討を重ねた計画に、関係者の気概と苦労を感じずにはいられない。
当時、14階建の市営住宅(F-1工区)の建設に携わっていた建設部技幹兼建築課長の武井晋市さんは、UD会議に何度か出席したことがあったという。
「会議では模型が持ち込まれ、CCDカメラを使いながら、先生方が『ここをもう少し高くしよう』などのやり取りがありました。住棟は当初もっと低い計画でしたが、ほかの工区との関わりや全体のデザイン調整のなかで14階の高さになりました」(武井さん)
このF工区を担当したのは、建築家の元倉眞琴さんを中心とした「スタジオ建築計画・エーシーエー・植田・金井設計共同企業体」だ。
F工区は特殊で、ひとまとまりの計画ではなく、3カ所に場所が分かれ、それぞれの最適解を求めて設計された。
なかでも14階建のF-1工区は、ニュータウンの中央に位置し、ランドマーク的な存在だ。高さがあり工事に時間がかかるため、一番先に着工したという。

市営住宅であるF-1工区。高さの違う2つの塔で構成されている(写真:筆者撮影)
ニュータウンも住戸も「バリアフリー」
そんな象徴的なタワーに、案内のもと足を踏み入れた。
エレベーターでまずは最上階へ。目の前に大きな空が広がる。遮るものはなく、山並みも街並みも遠くまで見渡せる。西側には今井駅と新幹線の線路が見え、東の方角にはオリンピックの競技施設も小さくだが確認できた。
そして中層階の3DKの空き住戸に向かった。
室内はキッチンとダイニングがつながる奥行きのある間取りだ。窓は南面して光がたっぷり差し込み心地よい。
右側に3つの部屋が配置されている。建具の開閉で一部の空間をつなげることができ、開け放すと大きな空間になった。家族構成や生活スタイルの変化に対応できる。

南面した居間。右手に個室が3室(写真:筆者撮影)

流し台と吊り戸棚のあるキッチン(写真:筆者撮影)
資料を見ると、オリンピック時はどうやら、3室をシングルとツインの寝室に振り分け、ダイニングキッチンを共用室とした4人部屋などで使われていたようだ。
室内は段差が少なく、廊下や扉の幅も広い。廊下と各部屋、洗面所と浴室など、境はほぼフラットだ。今井ニュータウン内はバリアフリーを意識し、住戸にも実現されているという。

建具の開閉で部屋の広さを調整。押入収納も充実(写真:筆者撮影)

大きな段差はなく風呂場と脱衣スペースを行き来できる(写真:筆者撮影)
ベランダも広々とした、気持ちのいい団地
ベランダに出ると、その広さに驚いた。洗濯物が干しやすく、ひなたぼっこもできそう。外に出られない日も外気に当たることができて健康的だ。

広々としたベランダ(写真:筆者撮影)
住戸を出て1階に降りた。中央の広場では小さな子どもと家族が歩く練習をしていた。緑地の小道をゆっくり散歩する老夫婦の姿も見える。
ニュータウンの住棟は、眺める角度や時間、季節によって印象が変わる。奥には個性的な建物が見える。あれは一体……。

「けやき通り」の歩道から見える、メモリアルスクエアや住棟(写真:筆者撮影)