栃木県立高校「暴行事案」ネットの声に驚いたワケ

「過剰な私刑」という言葉の真意, 記事に寄せられた反応に筆者が驚いた理由, 極端な二項対立を求めるネット空間, 「本当に被害者側に付いているのか」という問い, 常に論点は複数存在する

ネット空間のみならず、昨今では極端な二項対立を求め、その構図を消費する傾向にある(写真:Graphs/PIXTA)

栃木県立のとある高校で撮影されたとされる「いじめ」の動画が話題だ。SNSでの告発を発端に、社会問題にまで発展しつつあるが、長年ネットメディアに身を置く筆者からすると、そこから「過剰な私刑」が広がる可能性を感じざるをえない。

【画像】顔を殴り、頭部を回し蹴り…拡散された暴行動画の様子

しかし、そうした意見に対して、ネット上では「加害者の肩を持っている」といった批判が相次いでいる。なぜ認識のズレが起きるのか。その違和感を深掘りすると、強すぎる「先入観」の存在が浮かんできた。

「過剰な私刑」という言葉の真意

これまで芸能人の暴露・告発情報を中心に扱っていたSNSアカウント「DEATHDOL NOTE(デスドルノート)」が、このところ「いじめ撲滅委員会」と称して情報提供を呼びかけ、拡散を行っている。

「過剰な私刑」という言葉の真意, 記事に寄せられた反応に筆者が驚いた理由, 極端な二項対立を求めるネット空間, 「本当に被害者側に付いているのか」という問い, 常に論点は複数存在する

暴露系インフルエンサーの投稿によって広く知られた今回の事案。仲間内でのみ動画を共有するつもりだったのだろうか。結果的に流出し、大騒動となった(画像:Xアカウント @deathdolnote より)

皮切りとなった、栃木県立高校のトイレ内で殴る、蹴るといった暴行の様子を捉えた動画は、栃木県の福田富一知事に「絶句した」と言わせるほどの内容だった。動画の拡散を受けて、県教育委員会は謝罪。

「過剰な私刑」という言葉の真意, 記事に寄せられた反応に筆者が驚いた理由, 極端な二項対立を求めるネット空間, 「本当に被害者側に付いているのか」という問い, 常に論点は複数存在する

「いじめ」問題に取り組み、タレコミがあった場合は拡散するなどの活動をしていくことを宣言したへずまりゅう氏(写真:本人の公式Xアカウントより)

また「いじめ撲滅委員会」は、元迷惑系YouTuberで、現在は奈良市議であるへずまりゅう氏の協力を得つつ、大分県内の中学校内で行われた“いじめ”だとされる動画などの投稿を続けている。

記事に寄せられた反応に筆者が驚いた理由

「インフルエンサーが行政を動かした」として、ネットユーザーも強い関心を寄せている。東洋経済オンラインに掲載した、筆者による「『いじめではなく暴行』『どんどんさらせ』などの声もあるが…栃木・県立高校での『いじめ暴行動画』が拡散、『過剰な私刑』に思うこと」と題するコラムも多くのアクセスを集めた。

記事では、正規の告発ルートであれば表沙汰にならない不祥事事案は少なくないとする一方で、今回のようなSNSでの告発には「何らかのバイアスがかかっている可能性が否定できない」と指摘している。

具体的には、この投稿において「当初は学校の実名が載っていなかったこと」「いじめ事案に直接関係のない『偏差値』にも言及されていたこと」などを理由に、「過剰な私刑」であった可能性を示した。

筆者によるコラムは、配信先のYahoo!ニュースで「トピックス」と呼ばれる注目記事として紹介され、さらに読者を増している。しかし、そこに付けられたコメントを読むと、意図とは異なる「書き手バッシング」が多々見られた。それは「城戸というヤツは、加害者の肩を持っている」といった内容だ。

当然ながら、筆者に加害者を擁護するつもりはない。また被害者は正当に守られるべきだと考えている。そもそもコラム内における「過剰な私刑」は、加害者に対するものというより、むしろ周辺環境への2次被害を及ぼすものを指していた。

被害者救済は最優先ながら、無関係な生徒などを巻き込むとなれば、話は別である。そうした周囲への影響が懸念されることから、「あおるような文言」を盛り込む正当性があったのかと問うている記事だった。

極端な二項対立を求めるネット空間

にもかかわらず、なぜ加害者擁護と取られてしまったのか。理由を考えてみると、「筆者が『当たり前』だと思っていた前提が、読者にとっては『当たり前』でなかった可能性」が浮かんできた。

その前提とは「加害者側に絶対的な非がある」ということだ。それは、わざわざ改めて言うまでもない、社会に生きるうえでの常識である。だからこそ、あえてコラムで明示していなかったのだが、それが「明確に書かれていない」イコール「加害者をかばっている」と取られたようだ。

確かに「加害者が完全に悪い」という前提が薄れている現状はある。本事案をめぐる反応には、被害者の人権が圧倒的に軽視されている一方で、少年法で守られる加害者や、「公の秩序」といった名目で守られる学校・教育委員会などの権利が、相対的に優遇されているとの意見も多々見られ、そこには筆者も理解できる部分がある。それだけ不信感が強まっているのだろう。

今回のようなケースは、そのモヤモヤを晴らす場として機能する。ストレスを解消したい読者は、「加害者へのキッパリとした断罪」を求める。しかし私のコラムに書かれていたのは、解説をもとにした「拡散者の責任論」だった。

本来であれば、加害者に対する処罰と、拡散者の責任論は別件であり、どちらも並行して考えられるものである。ただ、そうした論点整理を、断罪目的の読者は求めていない。肩透かしにあい、義憤の矛先を見失った結果、振り上げた拳を筆者へ向けたのではないだろうか。

そうした背景のもとで、ことをより複雑にしているのが、拡散の中心地となったデスドルが「被害者サイドにいる」と認識されていることだ。ネット空間のみならず、昨今では極端な二項対立を求め、その構図を消費する傾向にある。

「SNSか、オールドメディアか」「日本人か、外国人か」「既得権益か、規制改革か」などなど。二極化させることにより、各自がスタンスを示しやすくなるため、話題性が強まる。こうした対立軸から「加害者か、被害者か」の2択が生まれた結果として、デスドルを批評することは、これすなわち「被害者への批判だ」と曲解されてしまうのだろう。

「本当に被害者側に付いているのか」という問い

しかし、ここで考えておきたいのは、「デスドルが本当に被害者側に付いているのか」という問いだ。例えば、わざわざ「偏差値F」などと書く必要はあったのか。被害者の顔までモザイクなしで出す必要があったのか。校名を実名にすることによる影響はないのか——。

これは批判ですらなく、ただの論点整理だ。SNSでの告発が必要な行為なのであれば、その手法すべてが未検証でも良いとでも言うのだろうか。

筆者コラムに対しては、「これはもはや暴行や傷害であり、刑事事件の領域だ。『いじめ』と書くことで、事案を矮小化しようとしている」といった批判も出ていた。しかし、これは発信地であるデスドルの「いじめ撲滅委員会」に準拠した表現だ。

これらの要素を並べると、たとえデスドルが純粋に事案解決を目指していたとしても、結果的に「被害者の処罰感情を利用している」と誤解を与えてしまうおそれを、現時点では否定できない。

そうとは思いたくないが、想像させてしまう材料がそろっているのは事実だ。もし仮にこのような構図があるのであれば、被害者は正当に守られていると言えるのだろうか。まさに“被害者の権利”と直結する論点であるが、そこに言及する反応は少ない。

なかには「私刑を批判する前に、現場の問題を考えろ」という批判もあったが、これも前後ではなく、同時並行で考えるものだろう。順番を待っているうちにも、新たな被害者は生まれていく。おのおのが「餅は餅屋」の精神で、得意領域から着手する必要がある。

教育現場が抱える物理的・構造的な問題は、それはそれで抜本的な解決が必要だろう。また硬直化した組織は、透明化されてしかるべきだと考える。ただ私は、ネットメディアに身を置いた期間が長いため、身近な「SNS上での私刑」から論じたまでだ。

常に論点は複数存在する

実を言うと、筆者自身も中学時代、同級生から疎外される経験があった。幸いにも身体的な被害はなかったが、担任に相談しても誠実に向き合ってもらえず、ひどく傷ついた経験があった。当時はSNSもなく、やり場のない思いを抱いていた。

そんな20数年前の経験から、被害者側の痛みや、教育現場にはびこる“事なかれ主義”は、それなりに理解しているつもりである。当時を振り返ることはつらいが、「何も知らないコラムニストが勝手なキレイ事を言っている」という読者の誤解を解くためであれば仕方ないだろう。

自分の物差しで「こいつは、こういうヤツだ」と決めつけることは簡単だ。しかし、先入観だけで判断すると、物事の本質を見誤る可能性がある。どんな事柄でも、常に論点は複数存在すると、今回の出来事で改めて認識した。

【前回の記事】「いじめではなく暴行」「どんどんさらせ」などの声もあるが…栃木・県立高校での「いじめ暴行動画」が拡散、「過剰な私刑」に思うこと