医療的ケア児が無人島旅行なんて「ありえない」反対していた医師が同行し一緒に見た景色

 人工呼吸器が必要な医療的ケア児が、無人島への旅を希望した。当初は反対していた医師も、そのまっすぐな思いに触れ、同行を決断。医師が無人島に赴いたからこそ実感したこととは──。「やさしくなりたい連載」第3シリーズでは誰かに寄り添う人たちを訪ね、「最初の一歩」を考える。AERA 2026年1月26日号より。

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 無人島に行くというのは健康な人にとっても“冒険”だ。それが、人工呼吸器が必要な医療的ケア児だったら──?

「最初に聞いたときは『行けるはずがない』と思いました」

 川崎市の在宅療養支援診療所「はなまるクリニック」院長の山本英世(えいせい)さん(51)はそう振り返る。

 2年前、同クリニックの往診を月に2回受けている市内の吉原壮眞さん(12)は、母・純代さん(47)と、沖縄の無人島で1泊する計画を立てていた。障害のある子とその親たちと行く旅だ。

■フルセットの在宅医療

 壮眞さんは仮死状態で生まれた影響で体が不自由で、5歳のときに気管切開し、人工呼吸器を付けるようになった。機器を機内に持ち込むには診断書を航空会社に提出しなければならないため、純代さんは往診医に診断書を依頼。だが、行き先は無人島だと伝えると、断られてしまった。

 純代さんは「それじゃあ、困る」と再度交渉。院長の山本さんは、壮眞さんの主治医の大学病院の医師や、療育先の医師にも連絡を取ってみたがいずれも「難しい」という意見だった。

「壮眞は、人工呼吸器のほか、酸素療法、たんの吸引、胃ろうなど、在宅医療の中でもフルセットが必要な状態です。無人島は、電気も水もないし、医療機器のトラブルがあったときの問題もある。さらに、もともと普通の子よりも“大丈夫”な幅が狭いんです。少し暑いだけで熱中症になるし、寒いと体調を崩す。空調もない無人島で過ごすリスクも心配でした」(山本さん)

 なにより、無人島行きは壮眞さん自身ではなく、純代さんの意思だと思っていた。山本さんが最後に壮眞さんに会ったのは5歳のころ。当時は、自分で意思を示すことができなかった。その後は体の状態が安定していたため、往診は別の医師が担当し、しばらく会っていなかった。

「お母さんの意思で行って、しんどい思いをするのは壮眞自身なので、危険にさらすわけにはいかないと思ったんです。お医者さんとしては、やっぱり患者さんの命を守ることが第一だから」(同)

 山本さんが純代さんを説得するため、約5年ぶりに吉原家に往診すると、壮眞さんは「飛行機に乗る練習」だとしてアシストシートに見立てた座位保持いすに座っていた。

 壮眞さんは、言葉は発しないものの、顔の表情でYES、NOを答え、選択肢を提示すると視線を左右に動かして意思を伝えられるようになっていた。

 山本さんが「本当に無人島に行きたいの?」と尋ねると、壮眞さんは真剣な顔でうなずいた。「行けないかもしれないよ」と言うと、嫌な顔をする。その後も「行きたい?」と聞くと笑顔を見せる。何度繰り返しても同じだった。

 純代さんはこう振り返る。

「その前の日、寝る前に、『明日先生、来てくれるって。行きたいなら、壮眞が自分で伝えなきゃね』と言って、練習したんです。行きたいって伝えるために、先生から質問されたら笑って意思表示するように練習したけど、実際に先生に聞かれたとき、壮眞は真剣な顔で『うん』てうなずいたんです。すごく力強かった。それを見て、私も鳥肌が立ちました」

 壮眞さんのまっすぐな思いに触れ、「無人島旅行なんてありえない」と考えていた山本さんの中に「どうやったら行けるんだろう」という考えが生まれた。純代さんに「ちょっと考えさせてほしい」と伝え、往診を終えた。

■生きているという実感

 その夜、仕事を終えて帰宅しながら、頭の中で無人島でのキャンプをシミュレーションした。機械トラブルが起きたら? 必要な道具は? 許可を出すなら責任も持ちたい。自分がついていくのが一番いいのかもしれない──。夕食時に家族に話すと、娘が「私も行ってみたい」と言った。その一言が背中を押し、旅費も負担し、ツアーに参加することを決めた。

「リスクにさらさないことは大事だけど、外出して風邪をもらってくるのもリスクなわけで、家から一歩も出ないようにしたら何も経験ができなくなってしまう。確かに無人島はハードルが高いけれど、行くからこそ経験できることもあると思ったんです」(同)

 山本さんが同行し実現した壮眞さんの無人島への旅。その記録は、ドキュメンタリー映画「Return to My Blue」(野口雄大監督)にもなった(タイトルの正式表記は「My Blue」にアンダーライン)。

 漁船に揺られて海を渡り、車いすごと抱えられて無人島に上陸。壮眞さんは人工呼吸器を外し、手動で空気を送られながら、海にも入った。目を細め、口を大きく開けて、うれしそうに笑ったその表情は映画のポスターになった。

「11月の海は少し冷たくて、壮眞は喜ばないだろうなと思っていたから、意外な笑顔に僕もグッときました。でも、『冷静にならなきゃ』と自分に言い聞かせて、5秒に1度空気を送りながら、大きな波が来ていないか、周囲を確認していました」(山本さん)

 そばで撮影していた野口雄大さん(40)を見ると、泣いていた。

 野口さんはこう振り返る。

「壮眞くんの表情を撮りながら『生きることは感じることなんだ』と思ったんです。そして『こんな笑顔、僕にできるかな』とも。忙しさに追われて感覚がまひして、一瞬一瞬を感じることの素晴らしさやワクワクする気持ちも忘れてしまっていた。僕の純粋な気持ちも思い出させてくれた」

 日頃はドラマ制作に携わっている野口さんは、「この笑顔を届けなければ」と思ったという。ドキュメンタリー作品をつくるのは初めてだ。

「自分にしか生み出せない映画・映像を、1個でも多く世の中に残す、それが僕のやりたいこと、『My Blue』なんだ、と改めて気づかされた。生きているという実感を壮眞くんからもらったんです」

 野口さんは、「(山本)英世さんも『My Blue』に戻った一人」だと言う。

 映画の中の自己紹介のシーンで、山本さんが〈役に立てればという医師になった原点に返れるかもという思いもあって参加しました〉と語るシーンがある。

■日常は“ごめんなさい”の連続

 壮眞さんの無人島に行きたいという思いを実現させたい、と踏み出した「一歩」だったが、山本さんは「受け取ったものの方が大きい」と言う。映画の中でもこう語っていた。

〈何か人のために新しいチャレンジをできるというのってすごくプラスの力になるんですよね。自分の気持ちも高いところで維持できる〉〈壮眞のおかげでエンジンがかかるきっかけをもらったところはすごくあります〉

 また、山本さんは障害のある当事者や家族が感じている日常を「体験」できる旅でもあったと振り返る。

「日頃、往診で皆さんの自宅に行っていても、呼吸器の設定や胃ろうの状態など、主に医療的な面を見ているので、生活面まで想像ができていなかった。3日間一緒に過ごしたことで、食事するにも段差で困ったり、視線が集まるのが気になったり、社会でのハードルの高さを実感しました」

 日本社会は「人に迷惑をかけるな」という規範が強く、介助を依頼したり、困りごとを訴えたりした障害者が、SNS上で激しい批判を受けることも少なくない。

 野口さんはこう話す。

「障害のある子のお母さんの一人が『日常は、“ごめんなさい”の連続です』と言っていて、現実を突きつけられました。だけど、手を差し伸べると、逆にこちらがもらうことの方が多くて、助ける人・助けられる人の図式じゃない。そう思える空気が日本中世界中に広がっていくといいなって思うんです」

(編集部・深澤友紀)

※AERA 2026年1月26日号

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