「メディアは理想ばかり」「ぶっちゃけ使い物にならない」――なぜネットの自動車ファンは「EVシフト」に牙を剥くのか? 電動化論争が全然かみ合わない根本理由
議論の出発点
2026年2月11日、自動車経済ライターの成家千春氏が当媒体で記事を書いた。タイトルは「「EV = オワコン」という思考こそが、実はオワコンだ――“地球に優しい”という議論はもはや「時代遅れ」である」というものだ。
【画像】「えぇぇぇ!」 これがトヨタ自動車の「平均年収」です!(9枚)
記事では大手自動車メーカーの巨額赤字について書いている。ステランティスは約4.1兆円、フォードは約3兆円、ゼネラルモーターズは約1.1兆円の赤字を出した。合計で約8.7兆円だ。
ただしこれは技術が失敗したわけではない。これまで利益を出していたガソリン車の生産を減らし、電気自動車や自動運転などの新技術に投資した結果だ。古いビジネスから新しいビジネスに変わる時期特有の痛みである。
つまり、自動車産業が「物を運ぶ機械」から「情報を処理するデジタル機器」に変わる過程で、大きなお金が動いている。さらに2025年9月にトランプ政権がEV購入の税金優遇をなくしたことも、アメリカでの需要減少を加速させた。
車の役割も変わっている。これまでの車は人や物を運ぶ道具だった。しかしAIやロボット技術を搭載することで、大量の情報を処理する移動式ロボットに変わりつつある。
電動化はこの変化の基礎だ。自動運転を制御する高性能AIチップを動かし、瞬時に正確な指示を出すには、ガソリンエンジンではなく電気モーターが必要だからだ。メーカーも、組み立て中心の会社から、データを価値に変えるAI・ロボット企業に変わることを求められている。
こうした視点から見れば、目先の赤字だけを理由にEVを否定するのは早すぎる。電動化は環境対策だけでなく、AIが使われる社会を支えるために必要な基礎なのだ――そんな内容だった。
読者からの三つの反応

2026年1月23日発表。電気自動車(BEV/PHV/FCV)のシェア(画像:マークラインズ)
この記事の配信後、数百件のコメントが寄せられた。読者の反応は大きく三つに分けられる。
一つ目は、日常生活での使いにくさへの不満だ。
充電時間が長く、充電スタンドも少ない。日本の集合住宅で充電設備がある建物は少なく、自宅で充電できない車は選択肢に入らない。技術の理想と現実の生活環境には大きな差がある。これまで個人で完結していた移動が、外部のシステムに頼らなければならなくなることへの不安もある。
「EV? ぶっちゃけまだ全然使い物にならないでしょ。走れる距離も充電も追いついてないし、遠出なんて計画できない」
「バッテリーの進化が遅くて、充電スタンドもまだまだ。だから今は使い道が限られるし、2台目止まり」
「電池切れで動けなくなった場合の解決策が見えない。道が動かない車だらけになったらどうするのか」
「現状のEVは趣味や所有欲より便利さで選ばれる道具。便利じゃないものは買われない」
二つ目は、お金の面での不信感だ。
多額の税金投入を前提とした需要は、市場が自然に求める価値とは言えない。補助金への依存が健全な競争を妨げている。中古車として売る時の価格が不安定なことは、お金を重視する層にとって大きなリスクだ。将来の売却価格の変動やバッテリー処分の追加費用への心配が、現状維持を選ばせている。
「メディアやライターが「未来だ! EVだ!」って必死にいってるけど、ちょっと過剰すぎ。現場を知らないで理想ばかり語ってる感じ」
「EV = 自動運転ってのも飛躍しすぎ。AIは便利だけど、EVじゃなくてもできるし、動力として必須じゃない」
「充電や電力消費、使い終わった電池の処理など、将来の課題も山積み。環境優先で乗ってる人は少数派」
「そもそも「オワコン」と騒いでる人も、まだ始まってないだけなのに先走って騒いでる感がある」
三つ目は、文化や心理的な抵抗だ。
エンジン音や機械を操る感覚を捨て、車をデジタル家電のように扱う考え方は、長年培われた所有の喜びを奪う。行政やメディアが一方的に価値観を押し付けることへの本能的な拒絶がある。日本が積み上げてきたハイブリッド技術などの強みを軽視し、他国の戦略に追従する論調への不信感も強い。
「EVの魅力って、静かさとか加速の速さとか体験価値系がメインで、需要も限られる。お金持ちや特定地域向けの話」
「ガソリン車と比べると、重いし走れる距離は短いし、現状は劣る部分ばかり。道具としてまだ未熟」
「消費者は必要なものを自分で選んでるだけで、メディアが煽ってるほど「EV信仰」じゃない」
「車って便利さ優先の白物家電と違って所有欲や味とかの趣味の要素が多い。ガソリンエンジンでしか得られないものがある」
EV論争はいつも話が噛み合わない――。
物理的自律性の喪失

EVイメージ(画像:Pexels)
記事への拒絶反応は、移動手段の性能をめぐる議論だけではない。20世紀型の車が育んだ「個人の自由」「物理的な自立」という文化と、AI化によって求められる「全体の最適化」「管理的な統治」という新しい考え方の衝突だ。
移動手段が、個人の思い通りになる道具から、外部システムに頼る端末へと変化することに、本能的な防衛反応を示しているのだろう。ガソリン車が象徴してきたのは、燃料さえあればどこへでも行ける自立性だ。20世紀における自由を物理的に保証するものであり、個人が燃料を自分で蓄え、外部との通信を断っても移動できる価値があった。
しかしAI化がもたらすのは、充電網や通信網といった外部の仕組みへの全面的な依存だ。電池切れやシステム障害で動けなくなることは、生活圏の縮小として感じられる。移動に必要なものを外部から絶えず供給される形に変えることは、接続が切れた瞬間に自由が制限される管理体制への従属を意味する。
車の制御がクラウド側に握られる構造は、常に監視され、管理されることへの不信感を生む。生活者がこれに反発するのは、技術が未熟だからではない。自分の足がプラットフォーム企業の意思で止まりかねない不安定な存在へ変化することへの、無意識の抵抗だ。
二十世紀型成功体験の重圧

EVイメージ(画像:Pexels)
現在の街の構造や住環境、週末の長距離移動という余暇の過ごし方も、石油エネルギーと広大なガソリンスタンド網を前提に作られてきた。この強力な慣性が、新しい文明への移行を物理的に阻んでいる。
道路網や都市の仕組み、日々の生活習慣まで、社会システムはガソリンの燃焼と給油を前提に最適化されている。こうした既存の環境が、新しい体系を受け入れにくくしている。
日本の集合住宅で充電設備の整備が遅れていることも、生活者の選択を現状維持へと縛る制約として働く。給電設備が整っていない現実を前にすれば、従来の生活を維持しようとする判断は、生き残り戦略として理解できる。
また、エンジン音や操作感は、長年の産業形成を通じて個人のアイデンティティや成熟と結びついてきた。エンジンの振動を対話のように感じ、複雑な操作に慣れることに誇りを覚える身体的感覚は、100年にわたって培われた文化だ。それをデジタル信号による制御に置き換えることは、生活者にとって、積み上げてきた自己の存在理由を損なう行為に等しい。
さらに、技術革新の速さによる資産価値の減少リスクも無視できない。数年で価値が下がる可能性のある移動体に、多額の資金を投じることへの躊躇は、極めて合理的な反応だ。所有の対象は、手入れによって価値を維持できるものから、メーカーによる継続的な管理や更新に頼る消費財へと変わりつつある。
この文明の経路依存性が存在する限り、産業側が描く未来図は、生活者の現実的な資産防衛の意識と衝突し続けるだろう。
政策介入が招いた不協和音

2026年1月23日発表。主要メーカーの電気自動車(BEV/PHV/FCV)販売台数推移(画像:マークラインズ)
また、環境保護という特定の理念を掲げたトップダウン型の導入策は、かえって生活者の被害者意識を強めている。政府による補助金や規制が半ば強制的に移行を促す状況は、市場における自然な選択を歪め、技術の冷静な評価を難しくしている。
本来、市場の変化は圧倒的な便利さや実利的な強みによって進むはずだが、今の流れは外部から持ち込まれた理念が先行する形になった。この押し付けが生活者の防衛的な感覚を刺激し、受け入れられるはずの進化まで、生活領域への侵入として拒絶させる結果を招いている。
先進的な都市生活者を中心に進む普及の流れは、地方や一般所得層の疎外感を強め、市場を進歩的な層と保守的な層に分ける対立軸を生み出した。中古車として売る時の価格の不透明さは、生活防衛を優先する層にとって大きなリスク増大を意味し、現状維持を選ばせる大きな要因となる。
この市場の歪みは、理想論を空虚な宣伝へと変えてしまう。車は家庭で最も高価な財産の一つであり、政策の変更一つでその価値が左右されかねない状況は、判断力のある消費者を遠ざける強い理由になっている。
さらに、既存の電力網の弱さも無視できない。生活者の不安は、家庭内での冷暖房や生活維持のためのエネルギーと、移動のための給電が同じ資源を奪い合う現実に根ざしている。インフラの限界を考えない普及策は、生活者の現実的な生き残り戦略と衝突しており、この不協和を解消しない限り、供給側が描く未来が広く受け入れられることは難しい。
電力網の強化には膨大な時間とお金が必要であり、その負担が電気料金に跳ね返ることを想定すれば、反発の理由は合理的でもある。
各国市場に見る摩擦

EVイメージ(画像:Pexels)
米国市場でのピックアップトラック文化は、自立性の象徴として根付いている。電動化で特性が変わり、充電ステーションの場所を気にしなければならない状況は、多くのユーザーにとって機能の欠落ではなく、自由そのものの制約と映る。
広大な土地を自力で走り抜くフロンティア精神と、インフラに頼る管理社会の衝突は、大半のユーザーにとって機能以前の価値観への挑戦だ。充電という制約は、彼らにとって自らの意思で移動するという理念を脅かす、目に見えない鎖として意識されるのだろう。
中国市場では、都市部の若年層を中心に、車が移動する個室としての価値を持つようになった。これは過密な都市生活で私的空間が不足していることを、車内のデジタル空間で補うという側面が大きい。
車を機械ではなく、外部から隔離されたデジタル空間として使う世代の登場は、従来の自動車観とは根本的に異なる地平を示す。ここでは移動性能よりも、隔離された私的空間の確保が優先され、移動体はもはや居住空間の延長として機能している。
欧州市場では、生活者の実感と離れた性急な規制が、産業側の準備不足を招き、社会的な分断を加速させた。政治的な理想が先行し、現実を伴わないまま進められた転換は、産業の競争力を削ぐだけでなく、政治勢力間の対立や市場の逆回転を生んだ。
制度の強行は生活者の反発を呼び、技術革新が政治的闘争の手段に変わったことが、深刻な反動を引き起こす要因となっている。性急な制度立案は、産業の根幹を揺るがすだけでなく、国民の生活防衛意識との間に埋められない溝を残した。
勝者と敗者の構造

EVイメージ(画像:Pexels)
将来的に車の世界はふたつの方向へと分かれていくと考えられる。
ひとつは、高度にAI化され、公共の仕組みの一部として機能する「自律型サービス」の世界だ。この枠組みでは、車は所有の対象から利用の対象へと変わり、従来のメーカーはプラットフォームを提供する側に取り込まれていく。物を組み立てる能力は、もはや主力の価値を失い、安い受託製造に収束する傾向が強まる。勝者となるのは、車が走る中で生まれるデータの意味を握る者だ。
逆に敗者は、鉄を曲げる技術という過去の強みに固執し、AI化の流れに置き去りにされる。物を作る力だけに価値を見出す組織は、主導権を失い、ただの供給者に転落するリスクを抱える。伝統的なメーカーが下請け的な立場に落ち込むことは、産業全体の雇用の質を下げ、社会構造にまで影響を及ぼす可能性がある。
もうひとつは、趣味や文化としての「ガソリン車の贅沢」だ。これは、過去の馬術がスポーツとして残ったように、富裕層や愛好家向けの高価な嗜好品として残る見込みだ。ガソリン車を所有し、自ら運転することは、将来的に限られた階層だけが得られる特別な地位の象徴となる。
一方、一般生活者は、最適化された無機質な管理型の車の中で日常を過ごさざるを得ず、移動の質で決定的な階層差が生まれる。中間層の足としての車は、これまで以上に高い負担と不自由を強いる存在となる。産業の目的が個人の欲望を満たすことから、社会システムの運用へと変わる中で、移動の質を左右するのは、所有の有無ではなく、システム内の階層に属するかどうかという現実だ。
残された選択

EVシフトの深層:メーカー対生活者。
AI化を急ぐ供給側と、物理的な自由を手放せない生活者との開きは、今後さらに深まっていく見込みだ。この摩擦は、産業が個人の欲望を満たすことから、社会全体の運用を優先する方向に目的を変える過程で生じる、避けられない変化の表れだ。
移動能力は、過去に個人に委ねられた権利から、社会全体の効率に合わせる機能へと変わりつつあり、人々は便利さと引き換えに、自立という名の自由をシステムに明け渡すことを求められている。
最終的にどちらが勝者になるかという二元論では捉えきれない。地域ごとの社会構造や電力網の信頼性、そして人々が自由にどれほどの価値を置くかによって、移動の形は多様に枝分かれしていく。未来の車は、生活を豊かにする翼となるのか、それとも個々人を効率的に管理する檻となるのか。この文明的選択を前にして、中立を保つことはほとんど不可能だ。
残されたのは、自らの生活様式がどの文明の考え方と相性が良いかを見極め、その結果を引き受ける覚悟だけだ。AI化した文明は、電動化という土台の上にしか成り立たない。過去の成功体験という鎮痛剤に頼り、変化を拒み続けるのか。それとも新たな秩序を受け入れるのか。立ち止まる余裕は、もはや残されていない。